マルコと濡れ鼠 汗ばむ陽気のこの日、ふと中庭を見遣ると、午後の水汲み当番であるコニーとナマエがいた。 二つずつ運ぶのであろう、四つの桶に水を汲み終えたところでコニーが桶を手にし、両腕でぐるぐると回しはじめた。 遠心力で桶の水がこぼれないことに、また、水が満杯になった重い桶を軽々と扱うことに、ナマエはすごいすごいと手を叩いていたが、コニーが手を滑らせ、宙高く舞い上がった桶を……そこはやはり訓練兵とでもいうべきか、ナマエは間一髪で避けたものの、撒き散らされた水のほとんどを頭から被ってしまった。 この陽気だ、きっと一枚羽織っただけであろう白のシャツはみるみるナマエの肌色を浮き上がらせ、はっきりとした身体のラインまでをもあらわにした。 髪から水滴をしたたらせ、まだ呆然と立ち尽くしているナマエに、自らのシャツのボタンを外しながら大股で歩み寄る。 ナマエの前にまで来て着ていたシャツを脱ぎ、そのままばさりとナマエの身体を覆い隠した。 「ごめんね、とりあえず僕が着ていたものだけど、我慢して?」 ナマエの肩から着せ掛けるようにしたシャツの、まだ両手にしたままだった襟元を、顎の下でぐっと閉じてやる。 「ナマエは着替えておいで? 僕も着替えてくるから……コニー、ひとりで水汲み、お願いできるね?」 「お、おう。 その……悪かったな、ナマエ」 「……ううん、大丈夫だよ」 マルコの咄嗟の行動に、ようやく合点がいったらしいコニーが、目を逸らしながら頬を掻いてナマエに詫びた。 ナマエは、その場はなんとか笑ってコニーに返したものの、マルコが自分にシャツを着せ掛けたほんの一瞬、裸の胸に抱きしめられるのではないかというその距離に、くらくらと目眩を覚えていた。 裸の背中を見送り、自分のものでない、不慣れな匂いに……ぎゅっと、口元でシャツの前を閉じる。 ああ、こんなことをしている間にも、早く宿舎に戻って着替えてこなければ…… あまり皆に囲まれることは得意ではない……このままでは野次馬が集まってしまいそうだ。 そう自分を叱咤するが、マルコのシャツを口元に押し当てたまま、動けないでいた。 取り掛かってしまえば仕事の早いコニーのことだ、とても水汲みに間に合うとは思わないけれど、それでも。 一応コニーの元に戻って、マルコにも、御礼を言わなくちゃ。 ◇ 「ナマエ、さっきは災難だったね」 夕食時、まだ濡れ髪でぼんやりとスープを啜る私に声を掛けたのは、夕食を載せたトレーを手にしたマルコだった。 先に姿を探して御礼を伝えるべきだったのに……と、食事中にもかかわらず椅子を鳴らして立ち上がってしまう。 「大丈夫だった?」 「あ、ありがとう、マルコ。 シャツ、洗って返すね」 「別によかったのに……」 「私の洗濯もあるから、いっしょに」 「じゃあ、お願いしようかな」 「……うん!」 マルコがジャンに呼ばれて、ちょっと、ほっとする。 それじゃあ、といつもの人好きのする笑顔で去っていったマルコの、どうしても、あのシャツの下を思い出してしまって……ひとり赤面する。 ふにゃふにゃと頼りない私の身体とはまったく違う、無駄のない、逞しい身体つきだった。 でも、胸元や両脇の、同じところに残る立体機動装置のベルトの痕が、私達が訓練兵なのだと、同じ立場の仲間なのだと。 頬を寄せて、頼りたいという、甘やかな思いを止まらせた。 ◇ 後日、洗濯も終わり、綺麗に畳んだシャツをマルコに差し出した。 マルコがよれたシャツを着ているところなんて見たことがないから、できるだけ丁寧に丁寧に扱ったつもりだ。 「これ、乾いたから……ありがとう」 「あー、そのシャツ、マルコのだったんだな」 ど、どうしよう、通りすがりのユミルのニヤニヤ顔に、嫌な予感しかしない…… 何事かとユミルの背後からクリスタまで可愛い顔をのぞかせている。 「……そうだけど?」 「そりゃあもう大変だったんだぜ? ナマエの奴」 「そうだったの? なんだか……悪かったね」 「う、ううん、そんな……」 「シャツを広げてニヤニヤしたり、畳んでぎゅうぎゅう抱きしめたりさ、そりゃもう忙しそうだったぜ?」 ナマエの顔がみるみる赤く染まる。 「や、やだ! ユミル! もう…… ご、ごめんね? 同じ官給品のシャツなのに、大きいな、って、思って……」 可哀相なほど真っ赤になって、縮こまってしまったナマエは、マルコを直視できずに俯いたまま、まだマルコの手に渡っていなかったシャツを、ぐいと差し出した。 「……あ、ありがとう!」 「どう……いたしまして……」 それを受け取るマルコも同じく真っ赤だ。 「おいおい、新たなバカ夫婦の誕生かぁ?」 ◇ その晩、明日はこのシャツでいいと、ナマエから受けとったシャツをそのまま枕元に置く。 頬を染めて、はにかみながら両手でシャツを差し出すナマエの姿が思い返されて、なんだか気恥ずかしさまで一緒に振り返してしまい……布団の中で悶えていたら、隣のジャンに背中を蹴られた。 翌朝、寝ぼけ眼のまま何気なく袖を通したシャツに……どくりと心臓が蠢く。 「……ナマエの匂いがする……」 軽い目眩を覚えながらも、改めてもう一度、肺に目一杯まで淡い香りを吸い込んでしまう。 あられもない姿のナマエに背中からそっと寄り添われているような、そんな幻覚に捕われて……身震いした。 あの時……ナマエの肌が皆の目に触れるのは好ましくないと思ったのは確かだ。 でも、同時に、誰の目にも触れてほしくないとも思っていたことに気付いてしまい…… どうしよう、このままではナマエの顔がまともに見られそうにない。 でも、そんなことでナマエに嫌われたくないという気持ちまで湧いて出て来て……ああ、僕は一体どうしちゃったんだ。 「ジャン…… 僕は今日一日……駄目かもしれないよ……」 「はあっ? なに朝から訳わかんねえこと抜かしてんだマルコ。 今日は立体機動の訓練だろ、気抜いてると死ぬぞ?」 「あ……ああ、そうだったね。 ……しっかりしないと!」 両手でぱしぱしと頬を叩き、煩悩を追い遣っていると、ジャンが怪訝な顔を隠そうともせず、こちらを一瞥した。 「お前……どうでもいいけど早くボタン閉めろよ」 |