sweet poison




「あっ――は、……あ、」



 逃げようと思えば、逃げられる。この手を拘束する手錠なんて、すぐに壊せる。でも俺は逃げない。逃げられない。

 貴方の命令には、逆らえない。



「――いい肴になるな。ノワール」



 ワインを飲みながら微笑む男――バートラムは、満足気な眼差しで俺を見ていた。

 俺の体の上を這いずり回るのは、毒蛇。魔物の一種で、人間の肉を好物とし、その体に宿す毒は数滴で死に至るという強力なもの。そんなものに体を弄ばれてどのくらい経っているのだろう。噛み跡は数十に及び、とっくの昔に通常の人間にとっての致死量の毒は体内に入っている。

 ただ、俺はそれくらいの毒ではすぐに死ねない。なまじできてしまっている毒への耐性のせいで、こうして苦しむ羽目になる。バートラムはそれを知っているからこそ、こうしたことをやってくるのだろうけれど。



「ずいぶんと苦しそうだな、ノワール」

「……」



 時折、俺が自分のものであるということを確かめるように、バートラムは俺を嬲ってくる。今日だってほんの些細なことを理由にしては、こうして俺を自室に誘い込んでいたぶりだした。俺が抵抗できないことを知っている故に、数を重ねるにつれてそれは残虐性を増してゆく。バートラムの遊びで死の淵に何度立ったのかわからない。

 俺にとっての致死量には達していないが、この蛇の毒も随分とまわってきた。目が回ってきて、身体が熱くなってきて、同時に寒気もしてきて、気持ち悪くて、全身が痛くて。気を抜いたら死ぬんじゃないかという苦しみが、ずっと襲ってきている。そろそろ限界だということをバートラムも悟ったのか、バートラムは毒蛇を消す。



「汗でシャツが張り付いているな。脱がせてやろうか」



 バートラムが俺の横たわるベッドの傍らに立ち、上から俺にワインをかけてくる。熱に浮かされるこの身体に、劈くようなワインの匂いは辛かった。たちまちに俺の身体はワインに濡れて、シャツは赤く染まってしまう。バートラムはくつくつと嗤いながらワインに濡れた俺のシャツを脱がしてくるけれど、俺は動けない。



「――ああ、ノワール、綺麗だな。おまえには痕が良く映える」



 剥がれたシャツの下の、俺の肌。毒蛇に噛まれた痕は赤黒く腫れ上がっていて、それが数十。元の肌の色がわからないくらいに、全身が爛れていた。

――異常者め。この肌の、どこが美しい。知っている、彼にとって俺はただの「作品」だ。自分に服従しているという証こそが、彼にとって美しいものなのだろう。この毒蛇の痕は、抵抗できずに毒蛇に弄ばれた――貴方への服従の証。

――俺にとって、何よりも憎たらしく、そして大切な毒。



***



「貴様いい加減にしろよ、ノワール」



 着替えをしているところに、背後から声をかける者。振り向かずともわかる。グリフォンだ。



「またあの小僧に会うつもりか。おまえにとってアイツは悪影響でしかない。無駄な接触はやめろ」

「そこまで言うならグリフォンが俺を殺してくれる?」

「……なっ」



――グリフォンの言いたいことはわかっている。俺がこれから会おうとしている彼――ラズワードに溺れるな、そう言いたいのだろう。

 でも、俺はラズワードに会いたい。彼に会わないと、おかしくなってしまいそうだ。彼なら――きっと俺を救ってくれる、そう希望を持っているから。

 死を求め、生から逃避する。そのことを悦とする。そしてその悦は俺にとっての、なによりの毒となる。彼は、俺にとっての毒だった。身体を、頭を、心を、魂を蝕んで喰らってゆく。彼に蝕まれれば蝕まれるほどに、俺は快楽を覚えた。俺は彼を手放せない、彼から離れられない。死ぬまで、この毒に溺れていたい。



「……そもそも、だ。その考えを改めろという。死にたいなどと、私の前で言うな」

「……勝手に俺の心を覗いているくせに」

「ふん、減らず口を。とにかくだ、あいつに会うのは――」



 口うるさい俺の聖獣。グリフォンのことは、愛おしい。でも悪いけれど、彼の言葉をきくことはできない。

 バートラムの毒蛇に犯されたこの身体に、一刻も早くラズワードに触れて欲しかった。



***



 ここのところ毎日のように、自室にラズワードを連れ込んでいた。奴隷候補をこうして自分のものにするなど、立派な規律違反だ。公私混同も甚だしいこの行為をしてしまうほどに、俺はラズワードに溺れている。



「ノワール様」



 部屋に入るなり、ラズワードは俺に抱きついてきた。ラズワードの体は熱く、抱きしめ返せばこちらまで火照ってくるほど。



「ノワール様、どうかなさいましたか」

「ん……?」



 ラズワードは顔をあげて、俺の目を覗き込んでくる。夜明けを思わせるその瞳が熱っぽく、俺を映す。こうして暗闇のなかでみると深海の色にも似ているな、そう思いながら俺もラズワードのその瞳を見つめ返した。そっと唇を重ね、何度も重ね、静かに熱を移しあってゆく。



「……いつもよりも、余裕がないですね」



 やっぱり、ラズワードには気づかれてしまった。俺の心がいつもよりも焦っていることに。自分という人間の醜さを思い知るほどに俺の死への渇望は強くなる。そして、ラズワードを求める。バートラムに嬲られたあと、いつもこうなってしまう……それを、ラズワードに気づかれている。

 わかるのだろう、ラズワードは俺の心の奥をその瞳でいつも見つめている。この死にたいという願いも、だからこそ彼は理解してくれた。叶えようとしていてくれる。

――だから俺は、彼に甘えたくなる。



「……ラズワード」

「……はい」

「酷くして」

「……はい」



 ベッドの上のラズワードは、ひどく綺麗だ。人間の醜美に俺はさほど興味ないけれど、このラズワードは本当に美しいと思う。乱れている彼が美しいのではない、俺を見つめる彼が美しい。死を揺蕩えたその瞳が、美しい。

 けだるい体を横たわらせた俺の上に、ラズワードが乗る。身につけている奴隷服すらも、彼が着ると艶やかだ。カーテンから溢れる月明かりを受けてぼんやりと白く光り、ラズワードの白い肌を際立たせる。



「……っ、あ」



 ラズワードが俺の手首を掴んで、そして覆いかぶさってきた。唇で耳に触れ、そしてそっと愛撫してくる。耳たぶを咥えて、舌先で舐めてくる。ラズワードの息遣いが耳孔で響いて、鼓膜を叩く。



「ノワール、様」

「んっ……」



 酷くして――そう懇願した。でもラズワードに触れられていると、それは俺の気持ちと少しずれている、そんな気がしてくる。



「……、……はっ……」



首筋を、吸われる。シャツのボタンを外されていけば、冷たい空気に肌が撫でられる。毒蛇に噛まれたところが、これからラズワードに触れられるだろう。それが、嬉しい。彼に侵食されていくことが、たまらなく歓ばしい。



「……ッ、ラズワード……」

「ん……はい、ノワール様」

「……ん、……っ、」



俺は、ラズワードにどうされたいのか。心も体も、喰われてしまいたいんだ。ラズワードに侵されたいんだ。

強く肌を吸われ、痛みにも似た快楽を覚える。びく、と身体が震えて声がうまく出せない。そんななか、俺は言う。胸のなかにぽかりと浮かんだ本当の望みを、彼に。



「――や、やさしくして……」



 息も途切れ途切れに、吐き出した。

 あやしてほしいわけではない、甘く触れて欲しいわけでもない。彼の、「優しさ」に沈めて欲しい。狂気にも似た彼のどくあい して欲しい。



「はっ――あっ……!」



 首に両手を添えられて、そして力を込められた。みし、と首の骨が軋む。首を絞められている。息ができなくて、苦しい。でもそれが――気持ちいい。

 ラズワードの瞳が細められ、口元は弧を描いた。あまりにも優しいその表情に、俺の熱は昂ぶってゆく。



「……ノワール様、もっと強くしますか?」

「……、」



 徐々に力を込められていき、視界が霞んでゆく。本当に息ができなくて、酸欠で手先が震え始めた。ああ、死にそう。もっと強く締めて欲しい。気持ちいい、気持ちよくてたまらない。



「んっ――」



 ラズワードが俺に、口付けてくる。首を絞められ唇を塞がれて。死ぬほどに苦しいのに、俺はラズワードの後頭部を掴んでさらに深いキスをせがんだ。霞みゆく視界には、俺の焦がれた蒼い瞳。

――ああ、幸せだ。彼に死に追い込まれてゆく、この感じが俺にとてつもない幸福感を与える。このまま……このまま、おまえに溺れさせていて。

 おまえのブルーに、おまえのどく に。





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