輪廻




 それは、雨の降る夏の日だった。ただでさえ暑いのに、湿気のせいでさらに熱い。まとわりつく着物が気持ち悪くて寝返りをうつことすらも億劫な――そんな、陰鬱な夏の日。



「……正幸。それ、なに」



 そんな日に、そいつは屋敷にやってきた。俺の住み着いている屋敷の主・渡瀬正幸がそいつを連れてやって来たのだ。

 ぼろぼろの着物を着た小汚い少年。見たところ歳は13、14ぐらい。



「……町のごみ捨て場で寝ていたんだ。行くあてがないっていうから、連れてきた」

「はあ」



 孤児、というところか。親に捨てられたか、もしくは親が死んだか。人間の汚いところに揉まれて育ってきたのだろう、その瞳に光はなくて、表情に覇気がない。



「どうしてこんなやつを連れてきた。綺麗に洗って風俗にでも売るか? いい金になりそうだな」

「ばかを言うな、橡。ここに住んでもらうに決まっているだろう」

「……ふん、お人好しめ」



 こんなよくわからない子供を拾ってくるなんて、やっぱり人間はよくわからない。ただ、俺は正幸のすることに文句をつけるつもりはなかった。彼は自由気ままに生きている。そんな彼の決めたことは、のちのち彼にとって良い影響を与えると必ず決まっている。たとえ悪い結果が生まれたとしても、それすらも正幸は人生における驚きだなんて言って楽しんでいるから、彼にはやりたいことをやらせておけばいいのだ。



「で? これから俺の同居人ってことにもなるそのガキの名前は?」



 別に、この子供が屋敷にくることが嫌というわけでもない。気に入らなければ構わなければいいだけの話なのだから。

 俺が名前を尋ねてみれば、そいつはゆっくりと俺に視線を移してぼそぼそとした声で言う。



「……高嶺嗣朗」



***



「正幸さん。あの色はなんという名前なんですか?」

「嗣朗には何色に見える?」

「……み、どり? でしたっけ」

「そうだね、緑色。でもほかにも色んな色があるだろう。光があたっているところは黄色っぽくて、影になっているところは黒い。僕が位置を変えれば見える色も変わってしまう」



 嗣朗は正幸と過ごすうちに、少しずつ変わっていった。何も映さなかった瞳にはたくさんの色が輝いている。正幸と触れ合っていくうちに、心の中に巣食っていた闇が晴れていったのだろう。もやもやとした闇が晴れて、彼の世界は少しずつ広がっていっている。



「僕が変われば見える世界も変わる。たくさんのことを知りなさい、嗣朗。まだ幼い君には、知らない世界がまだまだあるんだよ」

「……はい!」



 二人のやり取りを、俺は鴉の姿で木の上から眺めていた。

 もっともらしいことを言っている正幸に、失笑しそうになる。おまえは妻を亡くしてから心を病んで、ろくに小説も書けなくなったくせに――と。嗣朗に世界を知れと言っている本人が、自ら世界を閉ざして何も見えなくなってしまっているなんて、どんな道化芝居だよ、と。

 まあ、正幸はそんな自分のことをわかっているからこそ、そう言っているのだろう。自分のようにはなってほしくないのだ。



***



――嗣朗は、18になった。なかなかに綺麗な青年になった。街へいけば必ず女が寄ってくるくらいには麗しく成長した彼は、今は正幸の弟子として奮闘している。嗣朗は正幸の過去の作品を読んで、自分も作家になりたいと思うようになったのだ。

 ただ、彼はどうにも物語をつくることが苦手のようだった。人生の大半を、負の感情を抱えて生きてきたからだ。大衆に理解を得られるような人物を創りだすことができなかった。



「僕は――甘い感情を、知らない」



 そう言って筆を止める嗣朗の背中を、俺はただ見ていた。

 俺は、知っていた。嗣朗は「恋」は知っていた。しかし、「恋が叶う歓び」を知らなかった。

 嗣朗の視線の先には、いつも正幸がいた。なんと嗣朗は、20近くも歳の離れた育て親のような存在の正幸に恋をしていたのだ。ただ、正幸はずっと亡くなった妻のことしか想っていない。紙に妻との思い出を書き連ねようとしてはぐちゃぐちゃに丸める、そんな行為を繰り返している正幸に、自分の恋心を吐露することなんて、できなかったのだ。

 嗣朗は恋の苦しみの部分しか知らない。だから、創りだす物語は途中で止まってしまう。なぜ人間が恋なんてするのかを理解できなかったから。愛されるということを、知らなかったから。



「甘い感情、ね。嗣朗はそれを知りたいわけだ」

「でも、……僕には無理だ」

「内側から得られないなら、外側から得てみれば?」

「……?」



 俺は、そんな嗣朗と見ていると胸が焼かれるような感覚を覚えるようになっていた。美しく育った、子供。恋に苦しむ姿は悩ましくて、目を奪われる。



「甘い感情ってやつを、ぶつけてやろうか。どんなもんだか、味わってみろよ」



――俺は、知らない間に嗣朗に恋をしていたのだ。

 驚いた顔をしている嗣朗の唇を奪って、押し倒す。慌てて抵抗する嗣朗の手首を帯で縛り、身体をまさぐった。

 襖を隔てたすぐ隣の部屋には、正幸がいる。今も正幸はきっと、妻への想いに馳せている。そんなすぐ隣の部屋で――俺は、嗣朗の片思いを踏みにじってやった。止まらなかった。



「つ、……橡っ……待っ……」

「感じろよ……愛されるってのは、こういうことだ」

「あっ……」



 嗣朗は、時折襖を見ては涙を流した。でも……確かに、感じていた。次第に俺を素直に受け入れて、俺の想いを受け止めようとし始める。

 きっと、俺の恋も叶わない。この性交は、ひどくいびつなものだろう。方向の違った想いを無理矢理に合わせた、歪みだらけのものだ。俺の一方通行の恋心を受けることで嗣朗は恋が叶うことの歓びを擬似的に知って――そして、世界を広げてゆく。

 嗣朗の片想いの相手がいる部屋の、隣。そこで嗣朗の着物を乱し、身体を喰らい、心を満たし傷つける。嗣朗の流した汗と俺の放った精液が彼の腹の上で混じって、艶かしく美しい。



「いくらでも……教えてやるよ、嗣朗。おまえが知りたい、おまえの知らない感情を、全部」

「……うん、……橡」



――わかっていた。こんなことをしても、嗣朗の心は満たされない。満たされた気分になって、空っぽの物語を作り上げることはできるが……紙の上に感情を吐き出しては本人の心はどんどんスカスカになってゆく。

――知っていた。嗣朗は、正幸に恋をした時点で、運命が決まっていた。彼は壊れ行く運命なのだと。



***



――それは、雨の降る夏の日だった。

 とある文豪が身を投げたという川に落ちて、正幸が死んだ。落ちた――というのは語弊があるかもしれない。自ら落ちていったのだ。所謂、入水自殺。

 俺は、嘆く嗣朗の姿を木の上から見下ろしていた。水を吸ってぶくぶくに醜く変貌した正幸の死体にすがりつき、声を上げて泣いている嗣朗。



「ああ――橡、……そこにいるのか」



 しばらく泣いて、嗣朗は言う。



「愛する人が死んだ時には――こんな気持ちになるんだね。また、世界が広がったよ」



 本気で悲しみながら、嗣朗は自らの世界が広がったことを歓んでいた。ああ、なんて不気味な人間なんだろう……俺はそう思った。

 嗣朗は正幸の懐に入っていた、ずぶぬれになった本を見つける。それは、正幸が妻への想いを綴っては墨で塗りつぶした、妻への恋文たち。叶わぬ恋をひたすらに綴った、かなしい本。

 嗣朗はそれを拾って、立ち上がる。俺は、ただため息をついてしまった。

――そんな死んだ恋を綴った本、水に沈めておけばいいのに、とそう思って。





断章



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