ブレス
「タイムパラドックスって知ってる?」
「……はあ」
薄暗い、曇天の空。昼間だと言うのに太陽が翳っていて、世界は灰色。どことなく憂鬱な気分でいたスイに梓が投げかけてきた言葉は、全く聞いたことのない異国の言葉であった。
「過去の出来事を改変した結果、未来が狂ってしまうって奴」
「……どういうこと?」
「うーん、例えば日本文学の原点、竹取物語! 俺がその作者が生きている時代まで行って、作者を殺してくると、この世に竹取物語が生まれないことになる。その結果――竹取物語に影響を受けた作品までも、この世から消えてしまうかもしれない。そんな感じ」
「ふうん。よくわからないけど。それがどうかしたの?」
今日の梓は、珍しく着物を身につけていた。普段、曰く「未来のファッション」を身に着けている梓だが、こうして着物を来てみるとなるほど艶っぽい。妖怪らしい面妖な雰囲気と、あぶなげな表情。今までへんてこな服のせいでわかりづらかったが、彼はなかなかの美男である。
梓はふわりと着物の裾を揺らしてスイとの距離を詰める。そして、その瞳を覗き込むようにして顔を近づけると――にこ、と貼り付けたような笑顔を浮かべた。
「俺もやってみたいなあって」
「いつもの好奇心? どんな未来を狂わせたいの?」
「んふふ。なんだと思う?」
梓はにこにことしながらスイの手をとった。
梓の考えていることは、いつも理解できない。本当に未来でも見ているかのようで、言っていることが達観しすぎている。だからこそ彼の言葉は何よりも怖く、スイもあまり彼の言葉に耳を傾けたくなかったのだが――
「君の未来、だ」
梓の言葉には、闇のような誘惑がある。
***
「こんなところまで来て……帰るの遅くなっちゃうだろ」
梓は、高嶺の屋敷から離れた街のはずれにある宿にスイを連れてきた。宿の周りにはほとんど建物がなく、人通りも少ない。綺麗な宿なのだが、どことなく怪しい雰囲気である。
「今日は帰らなくてもいいんじゃない」
「はあ? 先生に何も言ってきていないのに……」
「っていうか、もう二度と高嶺に会えなくてもいいんじゃない?」
「……梓?」
宿に入ってくる客は、訳ありの男女が多いように思われた。顔を隠した若い女と金の羽振りが良さそうな恰幅のいい男だとか、全てを悟ったような目をしている男とそれに寄り添う死んだ目の女だとか。世間から隔離されたかのような、恋人たち。スイはなぜ梓がここに自分を連れてきたのか心底理解できなくて、ただただ戸惑った。
困ったように踏みとどまるスイを強引に、梓は中まで連れてゆく。そして、スイが小さく制止するのにも関わらず、宿泊の手続きを済ませてしまう。
「あ、梓……!」
「君は――」
部屋の前までやってきて、スイはぐ、と息を呑んだ。扉を開ければ、何かが変わってしまう――そんなような気がしたから。
「君は、高嶺と恋に堕ち、そして――心中するだろう。俺は君のそんな未来を変えてみたい。狂わせたい――……」
***
「あぁっ、あ、はぁッ――……」
夜になると、とうとう雨が降り出した。ざあざあと、強烈な雨が窓を叩く。スイは――そんな窓に体を押し付けられながら、後ろから、突かれていた。
「ぁんっ、あっ、あぁっ、」
「俺と一晩中、この部屋でまぐわい続けたら……スイも、俺に靡く、だろ?」
「ぁうッ――……! あずさ、さっきから……なんの、こと……ぁ、はぁんっ……!」
冷たい窓硝子が、スイの吐息で曇ってゆく。真っ暗にした部屋で、こうして雨の音と体のぶつかる音、そしてお互いの吐息だけを聞いて体を交らせていると――自分という存在がわからなくなる。彼に抱かれるだけにここに肉体が在るのだと、そんな風に思ってしまう。
寒い部屋の中、はぁはぁと熱い吐息を吐き、体中から汗を出し、スイは突き上げられるままに切ない声をあげた。窓硝子をひっかきながら、何度も迫りくる絶頂の波に身を任せた。
梓は、スイの未来を変えてみたいのだという。スイは高嶺のもとにいると、死んでしまうらしい。だから、梓は高嶺のもとから離れて二人で逃避行をしよう――そんなことを言ってきたのだ。
スイには彼が何を言っているのか理解できなかった。しかし、スイの未来を狂わせんといつもよりも一層激しく抱いてくる梓の強烈な念に、まともな理性は働かなくなってしまう。視界は闇に溶け、聴覚は彼の囁きに犯され、感覚を奪われながら抱かれ続けてスイは全く抵抗できなかった。
「もう、立て、ないっ……あっ、はぁんっ……ゆる、し、てっ……」
「俺が支えてる――ほら、まだまだ、奥……突くよ」
「あっ――ぅ、んッ……! ぁ、あ――……」
崩れ落ちそうになっても、股間にぐいっと手を入れられ腰を持ち上げられて、それは叶わない。しかしその状態でズンズンと奥を突いてくるから、余計に立っているのが辛くなる。もう脚はガクガクと震えていて、なんども吹いた潮でびしょびしょになっていて、すでに限界など通り超えているのに梓は止むことなく突いてきた。
「あぁっ、あぁっ、」
「永遠に俺とこうしていよう、スイ」
「もう、……あぁっ、あ」
「俺と一緒なら……君は、生きていられる」
雨の音に、スイの嬌声はかき消されてゆく。
ここで二人がまぐわっていることなど―ー誰も、知らない。
***
「屋敷に、帰るんだ?」
次の日の朝、外は昨夜の雨が嘘のように晴れた。庭に植えられた木の雨粒が、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
布団から出て着物を羽織るスイを、梓は頬杖をつきながら眺める。華奢で白い背中――死神に愛されたような、美しさ。
「先生の、お手伝いをしないと」
「……そう」
この部屋を出て、高嶺のもとへ帰るのなら――君は、死に愛されるだろう。
それを俺は無理矢理にでも止めることはできるけれど――でも、死があってこその雨瀧 スイという人間だというならば……
「俺は――タイムパラドックスを、証明できなかったわけだ」
君の