ゆらぐ闇



 一番、好きな時間は書庫を掃除しているとき。なかなか作家としての教えをもらえず雑用を押し付けられて悶々とした日々をすごしているスイであったが、その雑用の中でも書庫の掃除だけは別だった。たくさんの、本が置いてある書庫。流行りと言われている本はおそらくひと通り置いてあるだろう。スイが好きなのは、その本を読むことではなく、それらを見て高嶺の好みを知っていくことである。本によって、綺麗だったりたくさん読まれてボロボロだったり……高嶺がどんなものが好みであるのか、この書庫にいると感じ取ることができるのだ。

 そして、書庫の中には高嶺の著した本も置いてある。スイはもともと高嶺の作品を多く読んでいたため、世に出ているものは大抵知っているが……ここにある本のなかには、おそらく未発表の作品もある。掃除のたびにこっそりとそれらを探して少しずつ読んでいくのが、スイは大好きだった。



「……?」



 いつものように、高嶺の未発表作品の置いてあるところを探ってみる。そうすれば、他の本とは雰囲気の違うものが一冊見つかった。紙がヨレヨレとしていて、ずいぶんと汚れている。恐る恐るそれを引っ張りだして中を開いてみれば……



「なんだ、これ」



 字が、滲みに滲んで全く読むことができなかった。まるでまるごと水につけたよう。このよれよれとした紙質も、一度水に浸かって乾かしたからこうなったのではないだろうか。

 高嶺は、普段はだらしなくて部屋も汚い。しかし、書斎と書庫だけは整然としていて綺麗だ。だから、このような読むこともできないような本が置いてあるのが、不自然に思えた。



――たいせつな、ものだったりするのだろうか。



 もしかしたら触ってはいけないものだったのかもしれない。スイはそっとその本をもとの位置に戻し、掃除にとりかかった。



***



「……先生。こんばんは」



 高嶺は、夜になるとほぼ必ず書斎にこもる。そして、そこで執筆している。そこでの高嶺は昼間の彼とはまるで別人のようで、その色香にスイはあてられてしまう。書斎でされたことを思い出すと、下腹部が熱くなって疼いてしまう。……だから、というわけではないが。決してまた彼に触ってもらえることを期待しているわけではないが。スイは夜になると書斎にいって、高嶺にお茶を淹れにいくようになった。「今宵もがんばってください」そう一声かけて、お茶をおいて、部屋を出て行く――それが、最近のスイの日課。結局、触ってもらうなんてことはされることはなく、本当にただ、お茶を置いてでていくだけ、となっているが。それでも、師である彼にちょっとした心遣いができているというなら、それでスイは満足していた。

 今日は――なんとなく、彼の書斎にいくことに緊張した。昼間、わけありのような本をみたせいだろうか。



「スイ。こんばんは、今日もありがとう」

「い、いえ……お茶、置いていきますね」

「……スイ、ちょっとこっちにおいで」

「……え、」



 目を合わせづらくて俯いて入室したため気付かなかったが――彼に名を呼ばれ、顔をあげてみれば……高嶺は、どことなく疲れた顔をしていた。



「……どう、なさいましたか」

「ああ……ちょっと思い出したくないことを思いだしちゃってね」



 ゆっくり、高嶺に近づいていく。そうすると、机にのっていたのは原稿ではなく、一冊の本だった。どうやらそれは巷でそこそこ流行りの文芸誌のようだ。誰かの作品をみているのだろうか、とそっと開かれているところを覗いてみれば、そこには『遺作』の文字。

 

「渡瀬正幸(わたせ まさゆき)……数年前に亡くなった方ですよね」

「ああ、彼は僕の師だった」

「……え!?」



 そこに載っていた『遺作』の作者・渡瀬正幸。大衆の好むような作風はしておらず特別人気のあった作家ではなかったが、非常に繊細な文章を書く作家だった、とスイは記憶している。まさか、彼が高嶺の師だったとは。渡瀬に弟子がいたということも、高嶺が渡瀬の弟子であったことも、聞いたことがない。初めて知った情報に、スイは素直に驚いてしまう。



「僕がまだ少年とも呼べる歳の頃――もう四十だった彼の、僕は弟子だった。僕は親がいなくてね、彼を親のように慕っていたよ。でも――彼は、死んだ。自殺したんだ……川に飛び込んで、死んだ」

「……」



――妙な、寒気がスイを襲う。

 入水自殺した、高嶺の師。あの書庫にあった本は、なにかそれと関係があるのだろうか。まるで水に浸したような、あの本は。



「――いいかい、スイ。全てを失って、心が空っぽになった作家に、物語を紡ぐことはできない。君は、あのときの僕のようになってはいけない」

「……先生?」

「ここで、たくさん心を満たしていきなさい。そして、良い作家になるんだ、スイ」

「あっ……」


 するりと、スイの頬が撫でられる。哀しくて、優しい高嶺の眼差しに、スイの心臓は撃ちぬかれた。

 彼の――高嶺の、何かを知ってしまったような気がした。まだまだ、深淵には遠いだろうけれど。何故、ここまで高嶺に惹かれてしまうのか、わからなかった――きっとそれは、闇の引力だった。彼の奥底に眠る暗闇に、無意識に惹かれてしまっていたのだ。この書斎で、自らを見つめる高嶺の、黒いものに引き寄せられてしまった。



「せんせ……んっ……」



 唇を、親指で撫でられる。頭を抱えるように両手で頬を掴まれて、じっと瞳を覗き込まれる。どく、どく、と自らの心臓の音が聞こえてきて頭がおかしくなりそうだった。

 わからない、彼をわからないけれど、何かを知った。普段のだらしない彼に憤りを感じながらも彼から離れようという気は全く起きなかった。こうして夜の、きっとほんとうの姿をさらけ出している彼に……どうしようもなく、心を囚われていた。

 ゆっくり、彼は顔を近づけてくる。息のかかる距離で見つめ合って、呼吸が止まりそうになった。息が浅くなってきて、苦しい。もう、くらくらして、だめになりそう……そう思った時。唇を、奪われる。



「んん……」



 ――満たすんだ。ここで、心を満たすんだ。

 以前も言われたような気がする、その言葉。そのときは、何を言っているのかわからなかった。でも、その答えを感じたような、気がする。

 彼と……そして、ここに住まう妖怪たちの、愛を、知れと。身体で感じる快楽を、悦びを、しっかり受け止めて身体も心も満たせと。たくさんの、たくさんの、あふれるほどの愛を受けろと高嶺は言っているのかもしれない。――若い日を、孤独で過ごした彼のように、ならないように。



「ん……ぅ……ッ、」



 触れ合った唇から、熱が流れ込んできたような気がした。その熱は全身を満たして、満たして……胸を締め付けて。触られてもいない身体がゾクゾクとうずいてきて、腰が勝手に揺れてしまう。高嶺から、愛を「注がれている」のだと思うと身体の奥のほうがぎゅうと熱くなってズクズクとゆだってきて、頭が真っ白になって。



「……ッ、……、……ッ、」



 口付けをされながら、スイはイッた。ゾクン、ゾクン、と身体を震わせながら尚、唇を重ね、彼からの愛を享受した。この身体を満たす、彼の愛を。



「……せんせい……」



 恍惚としてスイが彼を呼べば……彼は微笑んだ。

 ……彼は今、空っぽなのだろうか。

 今の彼は、孤独、なのだろうか。



***



 口付けでイッたあと。スイは高嶺の部屋で一緒に寝た。それ以上のことはしなかった。着物を着たまま、抱きしめられながら、眠りに堕ちていた。

 朝、スイがいつものように日の光で目が覚めると、自分が高嶺の腕に抱かれていた。高嶺は、相変わらず起床が遅く、まだ寝ている。寝ているときは、いつものだらしない高嶺の顔と同じだ。



「……先生」



 スイは、身体を起こす。そして自分が布団からでると、ずり落ちた布団を高嶺にかけてやる。



「……相変わらず、寝坊助ですね、先生。まったく、いい大人がだらしない」



 太陽の光を浴びながら、スイは高嶺に背を向ける。布がズレて肩が露出してしまっていたから、そっと着物を直す。ふすまに手をかけて、そして、そっと呟いた。



「……先生。たくさん、俺のこと……満たしてください」



 高嶺は、寝ている。だからきっとこの声は届いていない。それをわかっていながら……わかっていたから、スイはそう呟いた。自分の声が空気に溶けて消えてゆくと、ふすまをそっとあけて部屋の外にでていく。そして、いつものように朝食の準備に向かった。

 静寂が訪れた部屋で、ゆっくり、高嶺が瞼を開ける。そして、閉じられたふすまをちらりと見つめた。

 スイの足音が小さく遠くで聞こえる。そして、朝食の準備を始めた音が聞こえてきた。



「……今日も、みんなと楽しんでおいで。スイ」



 
ゆらぐ闇…終


高嶺嗣郎の章



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