甘くて苦い、





「ほんと、先輩は学ばない! 大の男を引きずって歩く羽目になる俺のことも考えてくださいよ、もう!」



 タクシーから降りるなり、苛立ち気に叫ぶのは、神藤。その肩にナマケモノのようにぐったりとのしかかっているのは、冬廣だ。全く歩く気のない冬廣を引きずりながら、神藤はぜえぜえと肩で息をしながら、玄関に向かって歩いている。

 今日は、職場での飲み会があった。冬廣は酒が苦手ではあるが、何度か飲み会を重ねるうちに呑んでもつぶれることはなくなってきていた。そのため、今日も冬廣は少しだけ呑んで静かに過ごそうと考えていたらしいのだが……とある爆弾で、一気に陥落してしまった。



***



『冬廣さん。これ、すごくおいしいんですよ』



 それは飲み会も後半にさしかかり、皆が好きなようにばらけ始め集団性を失い始めたころ。酒から逃げるようにして、隅のほうで休んでいた冬廣に、女性社員が猫撫で声で話しかけてくる。彼女はメニューを冬廣に見せて、あるカクテルを勧めてきた。

 「ショコラテ」という名前の、ソレ。いかにも女性が好みそうなカクテルを、その女性社員は上目遣いに冬廣に勧めてくる。周囲にいた他の女性は煙たそうな目で彼女を見ていたが――そんなことは、冬廣にはどうでもよかった。

 「チョコ」と「アルコール」。無条件で冬廣の体をダメにする、二大凶器。どちらも片方ずつなら、なんとか耐えられるようにはなってきていたのだが……ダブルパンチは、よろしくない。確実に、墜ちる。



『あっ、ちょっと、冬廣さん!?』



 固まる冬廣に気付いた神藤が、ぎょっとした顔で冬廣のもとへ寄ってくる。以前、飲み会で潰れた冬廣を介抱した苦い思い出が、彼を駆り立てたのだろう。また泥酔した彼の面倒をみるのは勘弁だ、と何が何でも止めてやるという勢いで、やってきたのである。
 
 しかし、女性の前ではいい顔を見せようとする冬廣。にこにことほほえみ続ける彼女に、笑顔を返す。



『冬廣さん、あんた、自分の下戸っぷりわかってんでしょうね! しかも、それチョコの、』

『……神藤』

『はいなんでしょう!』



 このままだと冬廣が無理してチョコのカクテルを呑んでしまう――焦った神藤に、冬廣は静かなほほえみを向ける。

 冬廣は穏やかな顔で、ポケットに手を突っ込んだ。そして、頭の上にはてなを浮かべている神藤に向かって、その手を差し出す。手に握られているのは、煙草の箱だ。



『どうぞ?』

『……』



 勧められるがままに神藤が煙草を一本受け取ると、冬廣はわざとらしいほどにニコッと笑って見せた。その意図は、もちろんこうである。

 「あとはまかせた」。

 神藤の口にくわえられた煙草に、冬廣が火をつける。半ば強制的に冬廣の介抱が決定してしまった神藤は、舌打ちの代わりに紫煙を冬廣の顔に吹きかけてやった。あからさまに怒っている様子の神藤を見て、冬廣があざとく笑いながら「ごめん」と言う。

 そうして――冬廣は、呑むことになってしまったのだ。「ショコラテ」――悪魔のカクテルを。



***



 チョコとアルコールの両方を同時に摂取してしまった冬廣は、案の定へろへろになってしまった。店ではぎりぎり理性を保っていたものの、タクシーに乗った瞬間にだらんと神藤に身を預けて、普段は絶対に見せないような甘えたな姿をさらけ出してくる。

 正直言ってしまえば、神藤は冬廣に甘えられるのは嬉しかった。こうして冬廣が甘えてくるのは、酔っているときくらいである。普段は馴れ合いを絶対にしない二人が、こんなにも距離を縮められるのは、今だけ。それだけに、神藤は今の状況を本気でいやがっているというわけではなかった。

 ……ただ、冬廣に甘えられて理性を保ち続けるのが、辛かったのだ。



「波折先輩。家、つきましたよ。鍵は?」

「んー……ぽっけ」

「どこのポケットですか」

「うわぎのむねのとこ」

「右? 左?」

「わかんない」

「……」



 好きな人だけど、手は出さない。そう決めていた神藤は、なんとか自分の理性を護ろうと考えた。そういうわけで、潰れた冬廣を連れて行く先を、自分の家ではなく冬廣の家にしようと思ったのである。前回、冬廣が潰れたときは、神藤は彼を自分の部屋につれてきたが、そのせいで大変な目にあった。終始甘えられて、理性をボコボコに殴られたのである。しかし、冬廣の家につれてきてしまえば、そういうことはないだろう。なんといっても、冬廣の家には、「冬廣の同居人」がいる。彼に冬廣を預けて、さっさと帰ってしまえばいいのだ。「介抱」は「家に送るまで」。それでいいだろう――神藤はそう考えていた。

 早急に家の中へ投げ込むべく、神藤は冬廣の家の鍵の捜索を開始する。くたーっとした冬廣のジャケットの胸元に手を突っ込んで、ポケットというポケットをさぐりはじめた。



「わっ、さら、えっち」

「黙ってください」

「あっ、やぁ、はげし」

「やかましいわ!」



 胸元をまさぐられて体をくねらせる冬廣を無視し、神藤はようやく鍵を捜し当てる。今夜は無事に帰れそうだ、と安堵のため息をつきながら、鍵穴に鍵を差し込んだ。

 扉をあければ、暗い玄関が現れる。電気はついていないのか……と神藤がきょろきょろとしながら冬廣を家の中に引きずり入れた。玄関には冬廣の趣味とは違う靴がいくつか並んでいる。それが誰のものか悟って、神藤は早々にここを立ち去りたくなったが……このまま、冬廣を玄関に放り投げておくわけにもいかない。神藤は会いたくない人物の顔を浮かべながらも、家の奥にむかって声をかける。



「鑓水さんー。鑓水さん、波折先輩、つれてきましたよ……鑓水さん!」



 冬廣の同居人にむかって声をかけてみるが……反応は、ない。「あれ?」と思って眉を顰める神藤に、冬廣がぼーっとしながらぼやく。



「けーたは、いないよ」

「えっ」

「けーた、たしか、きょうは、のみかいって」

「えっ、鑓水さんも!? タイミング悪っ」



冬廣の同居人・鑓水が、いない。それを知った神藤は、一気に気分がどん底に落ちてしまった。これでは、結局最後まで冬廣の面倒をみることになってしまう。今日こそは避けられるだろうと思っていた理性との戦いのゴングの音が、聞こえてきた。



***



 酔いつぶれた人間にシャワーは浴びせられない。居酒屋から帰ってきたあとでシャワーを浴びずに布団に入るのは気持ち悪かったが、神藤は冬廣の服だけを着替えさせて布団にいれてやることにした。

 冬廣を引きずり、寝室へ。扉を開ければ立派なダブルベッドがあって、「うげ」と声がでてしまう。コンドームやらローションが出しっぱなしにされていないだけマシだろう。神藤は小さく舌打ちをしながらベッドまで冬廣を引きずって行き、そして、ぽいっとベッドに放り投げる。



「ふぎょっ」

「じゃ、俺はあっちのソファで寝るんで。お休みなさ――ウッ」

「だめ。さら。いっしょに、ねる」

「は、放せクソビッチ!」



 一緒になんて寝てやるもんか、一目散に寝室から出ていこうとした神藤の腕を、冬廣がつかむ。一気に顔を顰める神藤のことなどお構いなしに、冬廣はふにゃっと笑って神藤をベッドへいざなった。「いやいやいやいや」「待て待て待て待て」「Stop!! Don't touch me!!」と神藤は必死に拒絶したが、残念ながらそれは功を奏することはなく。神藤は冬廣に布団の中へ引きずり込まれてしまった。

 

「お、奥さん……だめですよ、こんなことしちゃ」

「ん、さら」

「ンッ! ンンー!!」



 冬廣が神藤の上に乗っかり、そして唇をくっつけてくる。こんなところで――いつも、冬廣と鑓水がよろしくやっているであろうこのベッドの上で、不貞を働くわけにはいかない。神藤はぎゅっと唇を結び、意地でも彼とキスはしない……そう必死だった。

 しかし。

 ちゅっ、ちゅっ、と親鳥から餌をもらう小鳥のように。子猫が大好きな飼い主につんつんと鼻をくっつけて甘えるように。何度も何度もついばむようなキスをされて、神藤の理性はあっという間に限界まで突き落とされてしまう。彼の匂いもよくない。オスを誘うフェロモンなのかなんなのか、やたらと甘ったるい匂いがして、それが下半身へダイレクトに突き刺さる。

 押し込めた恋心。思い起こす、彼と過ごした淫らで甘酸っぱい日々。もう、ダメだった。もう、我慢なんてできなかった。



「先輩が……悪いんですから、ね……!」



 神藤は冬廣の後頭部を掴み、唇に噛み付いた。そして、冬廣の下着に手を突っ込んで、尻肉を鷲掴みし――



「――よう、神藤くん。こんなところで人の恋人にイタズラするなんて、いい度胸してるじゃないの」

「……エ」



 冬廣を、めちゃくちゃにしようとした――そのときだ。鼓膜を叩く、新しい登場人物の声。

 神藤が恐る恐る視線をあげればそこには――



「や、りみずさん……おかえりなさい」

「おう、ただいま。おまえにおかえりって言われてるのも悪くないねェ、神藤。俺の女になる?」



 ――冬廣の同居人・鑓水。一体いつの間に帰っていたのだろうか。廊下の光を浴び、逆光になっている彼の顔には影がかかっていて、何を考えているのかわからない。

 マズイ、神藤は瞬時にそう思った。冬廣が手を出してきたにしろ、彼に手をだそうとしてしまったことには変わりない。鑓水は神藤と冬廣の関係を十分に理解しているが……逆に、神藤も鑓水と冬廣の関係を理解している。神藤が冬廣に手を出したなんて、鑓水に喧嘩を売っているようなものだ。

 言い訳なんてしている場合じゃない、謝らなければ――そう思って神藤が冬廣を自分の上からどかそうとしたときだ。鑓水が「動くなよ」、そう低い声で呟いた。そして、そのままベッドに手をつく。



「……鑓水さん?」



 ギシ、ベッドが軋みをあげた。鑓水の瞳には、怒りの色などない。神藤は本気で鑓水が何を考えているのかわからなくて、ただ、唾を飲み込むことしか、できない。



「おまえが悪いことしてるから、俺も悪いことしたくなってきちゃった」

「鑓水さ――」



 鑓水は、冬廣を抱えた神藤に覆いかぶさり――なんと、そのまま神藤にキスをしてしまった。すっかり夢の世界へ旅だった冬廣を間に挟んで、神藤にキスをしたのである。

 神藤がギョッとして瞠目すれば、一瞬唇を離した鑓水が、にやりと笑う。そして、ぺろりと自らの唇を舐めて、囁いた。



「俺たちは、波折で繋がっているんだ。なあ、そうだろう?」

「先輩、……こういうの、おかしい、ですよ、……」

「おかしい、なんて。今更じゃねえか。神藤――……」



 ごつ、と鑓水が額を神藤に押し付けると、神藤は観念したように唇を薄く開く。そして、睫毛を震わせ、唇から舌をちろりと見せ――鑓水を、受け入れる。

 神藤は、自分の上ですうすうと寝ている波折の腰を優しく撫でた。鑓水は、自分の下敷きになっている波折の頭を、さわさわと撫でてやった。二人、波折に触れながら、深いキスをした。



「ん、……」



 不思議と、波折にキスをされそうになった先ほどよりも、心が落ち着く。これが、自分のあるべき場所なのだと――そう、感じているからだろう。

 神藤は舌に感じる熱に、想う。

 冬廣は、自分一人では救えない。鑓水の存在があって、そして自分がいて。初めて、救える。自分と鑓水は、水と油でありながらも、一つでなくてはならない。そうだ、彼とひとつになることは、この魂が求めていること――

 体に反して、心が心地よいと感じているのは、きっと、そんな因果があるからだ。




***



「んー……」



 やたらと、目覚めが良い。

 朝を迎え、起床した冬廣は、いつもよりとすっきりとした気分で布団から抜けだした。なぜ、こんなにも気持ちよく起きることができたのかは、わからない。

 ベッドには、まだ鑓水が寝ていた。たしか昨日は飲み会があったような気がするが――昨夜の記憶が曖昧な冬廣は、鑓水がベッドに寝ていることを疑問には思わなかった。ただ、なんとなく物足りないような、寂しいような、そんな気持ちになる。



「……誰か、他にいた……かな」



 朝食をつくるべく、寝室を出ようとした。扉に向かって歩き――そのとき、床に落ちているあるものに気付く。



「……これ、」



 床に落ちていたのは、一つのライターだった。シルバーの、落ち着いたデザインのライター。冬廣は、このライターの持ち主を、知っている。

 

「沙良……?」


 
 なぜ、これがここに落ちているのだろう。なんとなく感じていた寂しさと相まって、冬廣のなかに何かがこみ上げてきた。慌てて寝室から飛び出して、色んな部屋の扉を開けていく。しかし――誰も、そこにはいなかった。

 玄関に向かうと、いつもどおり、自分と鑓水の靴だけが並んでいた。冬廣は衝動的に玄関の扉を開けて、外に飛び出す。

 しかし……あたりを見渡しても、神藤の姿はなかった。そこに居るのは、切なさと、朝の冷たい風だけだった。
 




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