▼ 追憶・桜の花14
今日はちょっとした依頼を受け、あっさりと用事は終わった。群青を連れてくるほどのものでもなかったため、柊は一人で帰路についていた。
「……はあ」
最近は、群青と触れ合うことが多くなってきた。今朝も、抱きしめ合った。朝食を終え、柊が外に出ようと思った時……群青が「行ってらっしゃい」と言うと同時に抱きしめてきたのである。時間にして約数十秒。しかし、言葉も交わさぬまま、じっとただ抱き合うのは、すごく苦しかった。胸が張り裂けそうになって、酸欠になってしまいそうになって、くらくらした。群青の胸に顔を埋めると彼の鼓動が聞こえてきて、掛け算をするように自分の鼓動も高鳴った。
どうしよう。もう、最近は群青のことしか考えられない。一人でいると、頭のなかが彼でいっぱいになって、どきどきしてくる。おかしくなりそうだ。これから家に帰ったら、何が起こるだろう。また抱きしめられるだろうか。もしかしたら……口付けをされたり。
「……ああ、もう、無理……」
恋ってこんなにも胸がきりきりと締め付けられるものだったのか。抱きしめられたい、唇を奪われたい、……色々と彼にされたいと思っているのに、一歩踏み出すことができない。ずっと一人で生きてきたから。憎しみ以外の感情を知らなかったから。愛されることが、どうしても怖い。
『柊、おまえは生涯を妖怪を殺すことに尽くすんだ』
「……あ、」
ぽつ、と何かが頬に触れた。指で触れてみれば、濡れていた。……雨だ。
「……晴れているのに」
空には太陽がみえている。それでもぽつぽつと雫はどんどん落ちてきて、柊は駆け足で近くの大木へ入り込んだ。
(……群青に傘を持ってきてもらおう)
契約を通して群青に迎えにきてもらおう。そう思ったが、上手く術式が頭のなかに浮かばない。さあさあと雨の音が耳に障る。その音は頭のなかに入り込んできて、思考を破壊してゆく。
『母上を殺したのは妖怪だ』
『これは、おまえのためだ』
『おまえだけが妖怪を皆殺しにできるんだ』
雨の音。蘇る――血塗れの母の記憶。
「突然ん雨どしたね。雨宿りをしたはるのどすか?」
「……!」
ぼーっと木の下で雨宿りをしている柊に、誰かが話しかけてきた。顔をあげれば――傘をさした、派手な着物を着た男がこちらをみてにっこりと笑っていた。
「晴れんなか降る雨は、狐の嫁入りとええますね。……やて、あんさんん前に現れたんは狐ほななくて……蛇かもしれへん」
――妖怪だ。柊はすぐに祓えるように身構える。最近は藪から棒に妖怪を祓うということはしていないが、この妖怪は明らかに怪しい。捕食者のような瞳は、今にも自分を喰らいそうで、寒気がした。
「……蛇の妖怪か」
「んー、半分正解。僕はぎょうさん人ん念を浴びた蛇……長い年月ん末に付喪神にならはった、蛇神や」
「蛇神……? おまえ、濡鷺か。京のほうの大妖怪だろう、なんでこんなところに」
「んんー? ふふ、君に会いに」
「は……?」
蛇神と聞いて、柊は男が濡鷺という大妖怪であることに気付く。妖怪たちが度々彼の名前をあげていたため、聞いたことがあったのだ。
しかし、濡鷺はここから少し離れた京に住まう妖怪だと聞いている。自分に会いにわざわざここまできたなんて、にわかに信じられることではない。訝しげに睨みつける柊の視線など気にすることなく、濡鷺は柊ににじり寄る。
「どないな様子なんやろうって思ってきたやけど……意外に優しい目をしたはるやないか」
「……」
「血ん香りもせんね。妖怪を虐殺しいやまわっとるって聞おいやしたやけど……最近はしいやへんかいな?」
なんだこの妖怪は。まるで心の中を覗かれているかのような気分になって、柊は恐ろしくなった。大木の幹まで追い詰められて、濡鷺の腕と幹の間に閉じ込められる。体が動かない。本能的な恐怖が、逃げるという選択肢を頭の中から消し去ってしまう。
「なんか……心に変化をもたらすことがあったんかな? そない、たとえばやなあ……大事な人がでけたとか」
「……っ」
クッ、と濡鷺が吐くように嗤った。クツクツと肩を震わせながら、濡鷺は面白くて仕方ないという風に嗤っている。
「まるで人間みたいな顔しちゃって。心は鬼ん子んくせに! いっぺん闇に堕ちた人間は、よう、戻ってくることなんてでけへん!」
ずる、と何かの音がする。そして、ひんやりと冷たい感触が手の甲に伝う。何だと思ってそれをみれば――巨大な蛇が這っている。
「妖怪を皆殺しにしはるためやけに生きた人間が……今更、どなたかを愛せるとやて思っとるん? 最高におもろい」
「う、るさい……! 僕は……あいつと一緒にいて、変わりたいって……!」
「無理や。ようすでに、あんたはんの心は壊れとるんやから」
蛇は、みたこともないくらいに大きい。幹をぐるりと何周もできるほどに大きなそれは、柊の体に巻き付いてゆく。この蛇は、恐らく妖怪とは違う生き物だ、そのため祓うことはできない。山神のときと同じだ。濡鷺が妖怪でないものを使役して、そしてそれを祓うことができないため無抵抗にやられるしかない。ただ、柊は蛇が妖怪かどうか……それ以前に、体を動かすことができなかった。濡鷺に睨まれると、蛇に睨まれた蛙のように体が萎縮して身動きがとれないのだ。妖術の類ではないだろう。濡鷺の恐ろしいほどに冷たい瞳が怖くて、動けない。
「あっ……」
「よう夢をみるんは止めなよ、柊。あんたは幸せになんて、なれへんよ」
蛇が強く体を締め付けてくる。ぎし、と骨の軋む音がする。胸のあたりを圧迫されて、息が苦しい。苦痛に顔を歪める柊を、濡鷺はただ嗤ってみていた。
「可哀想な子。愛されてみたかったんやね」
「う、……」
「僕が愛してあげようか? ねえ?」
濡鷺が柊の首筋に唇を寄せる。そして、ぐ、と歯をたてた。ちくりと痛みがはしり、柊は目を眇める。
「……あっ……!」
どくん、と心臓が波打つような感覚がはしった。さっと血の気がひく。濡鷺は蛇の妖怪……まさか、毒でもいれられたのか。
「心配しはるな。幸せになれるおまじないや」
「は……、あ、や、やめろ……」
濡鷺が柊の着物を脱がしにかかった。ぐ、と肩をはだけさせると、その肌に手を滑らせる。ぞわぞわと不快な感覚が全身にはしった。あんなに……群青には触れられたいと思っていたのに、濡鷺にこうして触れられて、怖いと思ってしまう。
「気持よおしいやあげるからね」
「やだ……、あ、あぁっ……」
濡鷺が手のひらで、柊の胸を大きく撫で回す。ずく、と走った紛れも無い快楽の兆しに柊は目を閉じた。いやだ、いやだいやだ、怖い……!体を無理やりこじあけられてゆく、他人が自分に入り込んでくる……柊にとってそれは怖くて怖くてたまらないことだった。群青にだったらされても大丈夫かもしれない……そう思っていたが、こうして無理に触れられて、それが吹っ飛んでしまった。触れられるのは、怖い。嫌だ。嫌だ……!
「ん、……う、……ぁ、あ!」
それでも、濡鷺にいれられた「毒」は快楽を生んでゆく。恐怖に震える心と反して、体は感じていた。触れられるたびにびくびくと体は跳ね、口からはあられもない声が漏れてゆく。惨めになって、わけがわからなくなって……柊は気付けば泣いていた。やめてほしいと首をふり、涙を零しながら甘い声を上げ続ける。
「はは……ちびっと肌に触れたやけでこないなになるんや。挿れられたらどないなるんかいな?」
「……っ、や、やめ……!」
それだけは絶対に嫌だ――それは、群青に初めてして欲しかった。柊が目を見開いて、拒絶の言葉を吐こうとした――そのとき。
蒼い光のようなものが目の前に迫ってきた。ずっと遠くからだ。濡鷺はそれに気付いたのか体を翻し避けたが……その光はそのまま柊にぶつかってくる。何者かが濡鷺に向かって放った攻撃、それが彼が交わしたことで自分に直撃してしまった。突然自分に迫ってきた危機に、柊はふっと「ここで死ぬ」と思うしかなかった。光はよく見たら炎だった。蒼い炎。焼死は苦しい――これからの苦痛に柊は震えたが……一向に熱さも痛みも襲ってこない。不思議に思って炎に包まれた自分の体を見下ろせば……先ほどまで巻き付いていた大蛇が炎に焼かれて死んでいた。
「……狙ったもののみを燃やす蒼い炎……ああ、犬神か」
濡鷺がふらりと振り返る。その表情は先ほどまでとは別人。感情を感じさせない、氷のような眼差し。
「邪魔するなよ……犬神」
蛇に開放されずるずると座り込んだ柊は、視界に飛び込んできた――群青に、柊は全身の力が抜けるような心地がした。そして、安心すると同時に大量の涙が溢れてきた。もう大人になる自分がこんなに泣くなんてみっともない、そう思ったが涙は止まらない。
「……群青、なんで……僕は、おまえを呼んでいないのに……」
「貴方の声がきこえたような気がしたから迎えにきました」
群青の声色は、ひどく優しかった。そのせいでまた、嗚咽がこみあげてくる。
「いやに真っ直ぐな目。真っ直ぐな愛情。なんの面白みもない。僕は君にはさらさら興味ないんだよね、犬神。せっかく愉しいところだったのに邪魔しやがって」
「今すぐ消えろ。殺すぞ」
「はっ……怖い怖い。はいはい、退散しますよ。今日はまだ「そのつもり」できたわけじゃないから」
濡鷺はつまらなそうに笑うと、再び柊を顧みる。そして耳元で囁いた。
「次に会った時は、もっとかわいがってあげる」
そして濡鷺はあっさりと消えてしまった。
群青が慌てて柊のもとに駆け寄ってくる。彼の姿をみるとほっとして、柊はまた泣いてしまいそうになった。
「柊様……大丈夫ですか、何もされていませんか……!」
「うん……大丈夫」
群青が柊を抱きしめようと手をのばしてきた。早く彼の腕に抱かれたい、そう思って柊はその抱擁を待っていたが――群青の指先が肌に触れた瞬間。
「……ッ」
咄嗟に、彼の手を払ってしまった。
「……ご、ごめん」
自分でも驚いた。触れられた瞬間、とてつもない恐怖が襲ってきて……群青の手を払ってしまったのだ。驚いたような彼の表情に、柊は罪悪感でいっぱいになった。彼は自分のことを優しく愛してくれているとわかっているのに……ぶりかえした臆病が、群青を傷つけてしまった。
「……ごめん」
「……いいえ。帰りましょう、柊様。立てますか?」
困ったように群青が笑った。柊は自力でよろよろと立ち上がって、歩き出す。手を貸したそうに、心配そうに見つめてくる群青と、目が合わせられなかった。
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