暁の少年 | ナノ


 6



 部屋に入る前に、深呼吸。

 今日は変態オジサンを客としてとるつもりはなかったから、体の傷を隠すために肌にコンシーラーをつけている。普通の嗜好の人は、痣だらけの売り専とか見たらドン引いちゃうから。そんなわけで、あんまり汗をかいたりするとコンシーラーがとれて痣が見えてしまうため、今日はあんまりハッスルするわけにはいかない。

 まあ、普段もぐちゃぐちゃになるまでイったりはしないんだけど。とりあえず、頭は常に冷静に。何かの拍子にめちゃくちゃにイったりしないように。落ち着いて、誠心誠意を込めたサービスを白柳さんにしなければいけない。

 ……なんだけど。


「あれ、君さァ……そこ化膿してんじゃん? 普段どんな激しいプレイしてるの?」

「……」


 ……普通に、傷がバレた。コンシーラーで隠しても、化膿していた部分はさすがにごまかせなかったらしい。さすが医者、目敏い男め。

 俺はすぐに誤魔化すことを諦めた。にっこりと笑ってみせて、なんでもないですよを装ってみる。変に誤魔化したほうがめんどくさいことになる。こういうのはさらっとかわすに限るだろう。


「いやあ、ナンバーワンになりたかったので。激しいプレイもアリにしないとなんですよねえ! 白柳さんもします?」

「いや、私は結構」

「ですよねー! じゃあ、さっそくエッチしましょ! 大丈夫、俺、普通のエッチも大好きですよ!」


 まあ、見ての通り白柳さんは普通の人だ。彼にSMプレイなんて御法度。特殊プレイの追加料金はとれなそうだから、中出しの追加料金をとる方向でいこう。ゴムをつけたくなくなるくらいに彼を興奮させることができれば、俺の勝ちだ。

 俺は白柳さんをベッドまで連れて行って、彼の服を脱がせようとした。しかし、彼のシャツのボタンに手をかけたとき。彼が俺の手をとって、にこっと笑う。


「……私はねェ、可愛くないクソガキがキライなんだよね」


 ……なんだって?

 俺は笑顔を崩さないように彼を見つめ、彼の真意を探る。

 何か、彼の機嫌を損ねるようなこと、言っただろうか。俺は自分の発言を振り返ってみたが、特に変なことを言った覚えがない。いや、全くの普通の人からみたら俺は変なことばかり言っているかもしれないが、こんなゲイ専門風俗店にくるような男にとって気になる発言をした覚えはない。

 なんだこの男。ひやかしでもしにきたか。


「悟ってんじゃねえよ、クソガキ」

「わっ……」


 結局彼の考えていることがわからないでいると、彼は俺の手を掴んでベッドに引き倒す。そして、ずるずると体をひっぱられて最終的に彼に後ろ抱きにされるように座る形になると、彼が俺の服を脱がしてきた。ぐいっとシャツの裾をめくりあげて、あらわになった俺の体をじっと見下ろしてくる。


「はあ、すごい傷の数」

「……伊達にナンバーワンやってませんからね! あはは! SMプレイもお手の物です!」

「お手の物っていうか、君、SM好きなんでしょ?」

「ん〜? ドMですからね、俺! いじめられると感じちゃいます」


 俺の体を見つめる彼の目つきが、恐ろしく冷たい。何がしたいのだろう。欠片の熱すらも感じない、その瞳。そんなに傷だらけの俺の体が気味悪いのだろうか。

 俺は居心地の悪さを感じながらも、されるがままになっていた。そっと俺の体を撫でる彼の手。人相の悪さに反して綺麗なその手は、……医者の、手だ。細く、暖かく。たくさんの人の繊細な体をいやしてきたのだろう。俺の大っ嫌いなタイプの手。


「……SMっていうか、暴力を振るわれていたみたいだね」

「――……合意の上ですから。『SM』ですよ」

「ふん……そうかい」


 ……暴力、とは言ってくれたもんだ。そりゃあ、ほぼ全身にコンシーラーを塗りたくるレベルですごい傷の量がある俺の体をみれば、普通の性癖の人にとっては「暴力」に見えるかもしれない。けれど、俺は血塗れになっても、失神しても、それを気持ちいいと思っているからそれは「暴力」じゃない。たとえ、記憶の中の暴力をなぞっていたとしても。今、俺がやっているのは「暴力」じゃない、あくまでプレイの上での「SM」だ。


「君は、どんなことをされてもそれを『SM』って言うのかい」

「ええ」

「殴られても?」

「もちろん」

「殺されかけても?」

「……はい」

「――じゃあ」


 ……彼の手が、俺の胸を、鳩尾を、そして――腹を、撫でる。

 なぜか、ぞわぞわする。彼の目には、何が見えている。得体の知れない恐怖が、俺を襲う。

 この、悪寒は一体なんだ。今まで誰にも触れられたことのなかった場所に触れられた、そんな感覚。そう、初めてこの体を犯された時のような。なんなんだろう、これは。俺の体に、触れられたことのない場所なんて存在しただろうか。


「――『この傷』をつけられた時も、君は合意していたのかい」

「……っ」


 ――ひとつ、あった。

 この男が触れているところ。それは、俺の胸のなか。隠し通してきた、俺の心。誰にも見られたことのないソコを、この男はのぞいている。

 男は、俺の腹についた刺し傷に触れて、囁いた。俺が、無理心中に巻き込まれたときの傷。俺の地獄が始まったきっかけ。

 ――まさか。その傷が、合意でつけられたわけがないだろう。気が違えているのかこの男は。この世界のどこに、望まれてナイフで刺されて死にかける少年がいるってんだ。俺があの恐怖を思い出すたびに気が狂いそうになるのに、どんな思いで耐えてきたと思っている。


「……ふ、あはは、変なことをいいますねえ、白柳さん。この傷は……」

「この傷は?」

「――……」


 腹の傷について、触れられたことは何回かある。その度に、俺は言ってきた。「ちょっと刺されちゃった」と。いつもなら、言えたのだ。

 ……でも、言えない。なぜか、この男の前では、それを言えない。真実を言ったなら、その瞬間にすべてを暴かれてしまいそうだったからだ。

 この男の目が、手が、何もかもが苦手だ。見るな、俺を見るな。

 ――見るな。


「……一番、気持ちよかったところですよ。」


 ――一瞬。あのときの光景が脳裏に浮かぶ。封印していたはずの過去が、蘇る。そこから始まった地獄の日々の、苦しみが、フラッシュバックする。

 狂ったように叫び家族を殺していった母、メッタ刺しにされた家族たち。それから……。自分の断末魔のような叫び声、頭の中に木霊した「助けて」。

 もがこうとした。しかし、手首をまとめ上げるようにして掴まれて、身動きがとれない。

 怖い、怖い。いやだ、犯される。


「体を縛り付けて、気を失うまで犯してやろうか」

「……あっ、……、」


 目の前が真っ暗になり、あのころの暗闇が脳内を支配する。その瞬間。俺の体がベッドにうつ伏せに押し倒され、手で口を塞がれた。


「助けは、呼べないぞ」

「……、……ッ」


 ――待って。口を塞がれたら、「助けて」って言えない。


「っ、!」

「皮膚が裂けるまで、鞭でなぶってやろうか」

「……!!」


 襲い来る記憶の波に、俺の体のすべてが悲鳴をあげる。怖くて怖くて、涙がぼろぼろとでてきて、声にならない叫び声をあげて、俺は力の限り暴れた。それでも、体勢のせいか男の拘束をほどくことはできなくて、俺の心には恐怖がひたすらにせりあがってくる。

 助けて。たすけて、たすけて、たすけて――

 頭の中で、叫んだ。助けなど来ないと絶望していたあのころのように。虚空へ消えてゆくであろう叫びをあげ続け、「助けて」の意味を忘れて。永遠の地獄をみるのだろうと全てを諦めた。

 意識が遠のいてゆく。強烈な不安感のせいで、体が熱を持ち始め、言うことをきかなくなってゆく。頭がガンガンとしてきて、お腹が苦しくなって。不快感が一気にこみ上げてきて……俺は。


「う、……ぉ、え……」


 吐いてしまった。

 男の手のひらの上に、吐いてしまったのだ。


「……、は、……あ、……」


 吐いてしまうと、なんだかすっきりしたような気がした。頭の中を支配していた恐怖がすっと引いていって、そして、自分のしでかした事の重大さだけが残っていく。

 俺……客の目の前で、吐いた? しかも、手の上に。


「……す、すみません……あ、あの……ごめんなさい、俺、……ちょっとさっき飲んでたので……」

 血の気が引いてゆく。俺は……客に向かってなんてことをしたんだ。

 そして……俺は。ただの客に、なにを見せた。

 一瞬前のことを思い出して、俺は逃げ出したくなる衝動に駆られた。俺はこの客の前で、くだらない過去のことを思い出して、パニックに陥った? 他人に見せるようなものでもない、穢い過去を彼にさらけ出してしまったというのか。

 嘘だろ。俺が、なんでこんな屈辱を受けなければいけないんだ。あんな過去、もう……どこかへ押し込めたはずなのに。ただの客のこいつに、なんで俺は。

 どうしたらいいものかと、とりあえず上辺の謝罪をしてみれば、男は黙って俺を見つめてくる。吐瀉物をかけてしまったのは事実。俺がやったことが悪いことなのは揺るぎようのない事実だから、彼が怒るのも仕方ない。どうすればいいだろうと迷って、とりあえず何度も謝ろうと体を起こし彼に向き合えば……彼はちらりと瞳を動かした。


「なんだ、もうちょっとで可愛げのある顔を見れると思ったんだけど」

「……、」

「泣いても、よかったのに」


 ――カッとなって、思わず彼の胸ぐらを掴みそうになった。

 誰が、赤の他人に涙など見せるものか。ほんの一瞬の動揺を見たくらいでいい気になりやがって。俺はおまえなんかに弱みを見せるつもりはない。

 一瞬頭の中が茹だったが、意地で沈めた。タオルを使って汚してしまったこの男の体と、俺の口元を拭く。


「泣かせたいなら、俺とセックスしてイカせてください。白柳さん」

「……ふー、可愛くねえ」


 ともかく、この男に一瞬の弱みを見せてしまったのは事実。それだけで、俺はこの男に下に見られてしまう。俺は、それが気に食わなくて仕方なかった。

 何がなんでも、立場を逆転させたい。俺を弱者を見るような目で見てくるこの男の頭を踏みつけてやりたい。俺はそんな意地で、この男をセックスに半ば無理やり誘う。ヤツは、やはりというかなんというか。「可哀想だから優しく抱いてやるよ」なんて目で俺を見てくる。ああ、腹立たしい。

 二度とそんな目で俺を見るな。俺に遜って必死に媚び売ってくる汚えブタ共と同じになってしまえ。


「おまえホント可愛くないねえ、抱く気にもならないわ」

「ええ〜? そんなあ。お金払ってるんですから、エッチしていきましょう? 勿体無いですよ?」

「そうだねえ、じゃあ、君の可愛い顔が見れることを願って、ちょっとだけ」


 なかなか乗り気にならないこの男を、俺は半ば無理やり押し倒した。挿れさせれば、もう、俺の勝ちだ。俺を抱いて俺の虜にならなかった人間はいない。俺はこの男に跨って、勝利を確信していた。


 ――しかし。

「君、下ね」

「え?」

「君は動かなくていいよ。下りて。私が動くから」


 こいつ、あろうことか俺のことを押し倒し返してきたのだ。なんだ、騎乗位はさせたくないっていうのかコイツ。どこまでも、俺を下に見やがって。「気持ち良くしてあげる」なんて、思っているのだろうか。死んで欲しい。

 けれど、俺は一応お金をもらっている立場なので、コイツの言葉に従った。されるがままに押し倒されて、ヤツを見上げる形になる。


「クソガキがいっちょ前に色づいて、腰なんか振らなくていいよ。君はおとなしく、大人の私に抱かれて可愛く鳴いていればいい」

「……ん、な」

 この男、屈辱極まりない言葉を発したかと思うと――ガバッと俺の服を一気に脱がせてきた。ムカつきすぎる言葉に衝撃を受けていた俺は、咄嗟に反応できず「うわあ!」なんて情けない声をあげてしまった。そんなにいきなり服を脱がされるとは思っていなかったのだ。

 ヤツは俺の服を脱がせたと思うと、そっと、俺の体に残る傷に触れてきた。不思議な触り方で。慈しむでもなく、抉るわけでもなく。何を考えているのかわからない触り方をされて、流石の俺も戸惑った。何を思ってこの男は、この傷に触れているのだろう、と。

 けれど……こうしてヤツに傷に触れられていると、なぜか、心の強ばりがほどけてゆく。同情されるでも叱咤されるでもない、ヤツの指先から伝わるゆるやかな熱が、傷の奥底で蠢いている俺の穢いものを溶かしてゆく。


「……白柳さん」

「目を閉じて」

「……、はい」


 ヤツの言葉が、俺の胸にすっと染み込んできた。抵抗も覚えることなく、俺は言われるがままに目を閉じる。

 ああ、なんなんだろう。絶対に何者の侵入を許さないと思ってきた俺の内側に、ヤツはするりと入り込んできてしまう。他人をはねのけて、押さえ込んだ記憶に何十も蓋をして、そうしていたはずの俺の中。紐をするすると解いていって俺の殻を開いて、そして……ヤツは俺の中にはいってくる。


「あっ……」


 ヤツの愛撫は、びっくりするくらいに優しかった。そんな触り方で俺が感じるはずがないのに……怖いくらいに、俺は感じてしまった。

 ヤツは「裸」の俺に触れている。誰にも触らせてこなかった、俺の裸に。だから俺はこんなにも感じてしまっているのだろうか。暖かく暗い羊水の中にいるような、不思議な心地よさ。


「あっ……だめ、……だめ、そこ……だめ……」

「だめじゃ、ないだろ」

「は、ぁっ……おかしくなっちゃ、……あっ、あぁ……」


 じんじんと、下腹部が熱い。体中が性感体になって、ヤツに触れられるたびに体の奥が、胸のずっと奥のほうが、じん、と熱くなる。

 なかに指を入れられてかき回されれば、くちゅくちゅといやらしい音が響いた。ローションも使わないでこんな風になったのは初めてだったから、自分の体が本当におかしくなってしまったのではないかと怖くなる。

 ああ、でも、おかしくなんてないのかもしれない。これが、俺なのかもしれない。心の奥に触れられて、体を駆けめぐる熱に蕩けて、そして人肌恋しくなるような切なさに溺れて……それが、俺なのかもしれない。


「あぅ、あっ、やぁ、白柳さ、……」

「ここって本番ありのとこなの? まあいいけど。ゴム借りますよ」

「やっ……ゴム、やだ……そのまま、……そのままいれて……」

「それはまずいんじゃない?」

「おねがい……おねがい、白柳さん……」


 まずい――そう思う。生の本番をおねだりするなんて、売り専失格だ。こんなおねだりを俺の方から客にするなんて、絶対にNG。それはわかっているのに……とまらない。とろとろに蕩けた頭ではもう、理性なんて働かない。

 白柳さんはやれやれと小さくため息をついていたが、俺の頭をくしゃりと撫でるとジッパーを下ろしチンコを出した。まだ完全には勃っていないようで、軽く自分の手でしごいている。


「まあ、ずいぶんと可愛らしい顔を見せてくれたから、ご褒美あげないとな、セラくん」

「……、せら、じゃなくて……」

「?」

「……つばさ、って呼んで」


 もっと、俺を見て欲しい。もっと、慰めて欲しい。

 俺に覆い被さってきた白柳さんが耳元で「翼」と囁く。その瞬間に俺は脳天を突き抜けるような快楽に見舞われて飛んでしまいそうになった。しかも、その瞬間に白柳さんが挿れてきて……俺は弓反りになってイってしまう。


「あぁっ、はぁ、あ、あぁあっ」

 頭が、真っ白だ。突き上げられるたびに爆発するような快楽が体中に広がって、俺は白柳さんにしがみついて声をあげることしかできない。決して激しいピストンじゃないのに俺はめちゃくちゃになって、怖くなって、白柳さんに甘えたくなる。


「可愛いじゃないか、翼」

「ぁんっ、あっ、あぁあっ、しら、っやなぎ、……さっ……はぁあっ!」


 白柳さんに抱きついて、抱きしめられて、そうしながら揺さぶられることが本当に幸せに感じた。心から満たされていくような感覚だ。こんな風になったのが初めてで、どうしたらいいのかわからない。

 俺が果てるまで、白柳さんは俺を優しく抱き続けた。途中から、記憶がない。ただ、暖かな、夢を見ていた――そんな気がした。
 


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