17
*
「いったぁー。一応まだ俺はあんたのところの商品なんだからさ、顔に痕つけるなよな、店長」
和泉さんの家を出てからも、殴られたせいで全身が熱を持ったように痛かった。これから最後の仕事だというのに、こんなんじゃあ、勃つ気がしない。全神経が痛みに持っていかれているような気がする。もうブレッザマリーナとは縁が切れるから仕事が失敗しようがどうでもいいが、一応俺を選んだ客に対して失礼なことはしたくない。決して安くないお金をもらうわけだし。
俺は、仕事が終わったらまっすぐ旅立てるように、トランクケースを引きながら指定されたホテルまでやってきた。和泉さんの言っていたとおり、駅前にでかでかとそびえたっているビジネスホテルだ。こんなところに売り専呼ぶとかなかなか肝が据わっているように思う。
ホテルの中に入り、指定された部屋まで向かう。すれ違うサラリーマンを見て、なんとなく申し訳なく思った。あんたが仕事に疲れて部屋で休んでいる間、俺は同じ建物の中で男とセックスをする。まっとうに生きているあんたとこんなゴミが同じ建物に入ってしまってごめんね。そんな風に思った。
エレベーターに乗っている時間が、妙に長く感じられた。まるで、走馬燈でも見ているかのように。この町に初めて来たときのことを――思い出す。東京に比べて建物も低くて自然が多い、この町。電車の本数も少なくて、店もどれもかれもがこじんまりとしていて、すごく地味な町だ。
素朴な町に思えるのに――しかし、人間は東京と変わらない。欲望だけが渦巻く風俗の世界に入ってしまえば、どこの町にいようがどこまでも人間は変わらないのだと思わされた。そんな、当たり前で絶望的なことに、俺は安心したのを覚えている。この町でも、俺は生きていくことができる、と。
何も、俺は変わっていない。また違う町で、同じように生きていくのだ。そう信じている。決して、白柳さんと一緒に居たときのような気持ちを抱くことは、金輪際ないだろう。
……いいんだ。俺はこれでいい。白柳さんだって、俺のようなゴミと一緒にいたら、せっかくちゃんと生きていた人生が台無しになってしまう。
ほんの少し、この町から離れることへの寂しさ。その理由を知りながら蓋をして、俺はたどり着いた部屋の扉に、軽くノックをする。
「――……」
こんこん、と軽くノックして、しばらく待ってみる。少し、緊張した。今まで、ラブホに呼び出されることの方が多く、ビジネスホテルに呼ばれることはあまりなかったから。もちろん、初めてというわけではないが、こういう固い雰囲気のホテルでの性風俗は、どういうテンションで相手に接すればいいのかわからない。
しばらくすると、かたかたと中で人が動く音がした。そして――ゆっくり、足音が近づいてくる。俺は未だに痛む殴られた痕に意識を持っていかれないようにぎゅっとトランクケースの持ち手を握り、ドアノブが動いた瞬間ににこっと思いきり笑って見せる。
「こんにちは、K様でお間違いないですか? 初めまして、私は――……」
中から出てきた人に、初めましてのご挨拶。いつもと同じ定型文を口にしながら、俺は――固まった。中から出てきた人物の顔を見た瞬間に、頭が真っ白になった。
「……え、なんで」
「――久しぶり、翼。会いたかったよ」
ぐ、っと吐き気がこみ上げてくる。脚に力が入らなくなって、ガクガク震える。無意識に後退したとき――ガ、と思い切り手首を掴まれた。
「やっとみつけた、翼」
「……おじ、さん」
逃げなければ――やっと脳に浮かんだ命令は、体に行きわたらない。俺は掴まれた手を振りほどくこともできずに、引きずられるようにして部屋の中へ入っていった。
prev / next