16
――最後の仕事のある、金曜日。日中、俺は荷造りを終えていた。仕事を終えたら、すぐに引っ越してしまおうと思っていたからだ。
「セラ、本当に今日、行っちゃうのか」
「……引き留めるの? 和泉さん」
「あたりまえだろ」
「――あっは、それは、ブレッザマリーナの優秀なボーイとして? それともセフレとして? 和泉さん――いや、店長?」
俺は――自分の家を持っていない。いつも、点々と男の家に泊まっては、そしてこの人――ブレッザマリーナの店長・和泉さんの家に帰っている。
和泉さんは、俺がこの町に来たばかりのころに出会った人だ。適当な男を捕まえてはセックスして、寝床を借りて――ということをしてなんとか生きていた俺は、ある日ヤバい男につかまってしまい、激しい暴行を受けた。命からがら逃げてきたところを和泉さんに発見され、ブレッザマリーナで働くことを条件に和泉さんの家に置いてもらうことになった。
和泉さんは俺が住んでいるマンションのほかに、もう一つマンションを買っている。そのマンションの方には、本命の彼女がいるらしい。普段はそっちの方で過ごしているが、週に二・三回ほど俺のマンションに来ては俺を抱きつぶす。
お互い、愛情など全くないのがわかりきった、そんな関係だった。和泉さんは俺の容姿に惚れ込んだらしく、ブレッザマリーナのナンバーワンにするために、俺の体にいろんなことを教え込んだ。
ただ、和泉さんは俺のことを商品としてしか見ていない。俺はそれがわかっていたから、和泉さんにはとことん媚びを売った。屈辱的なプレイでも笑って受け入れられるようにとキツい教育をされても、商売仲間だとかいう厳つい男たち数人との乱交を強要されても、和泉さんに「大好き」と言い続けた。
「……どっちでもない。一人の人間としてだ。おまえは一生、ここにいろ」
「意味わかんないし。俺がここにいることで、和泉さんになんの利益があるっていうの」
「おまえは一人で生きていくことなんてできない。おまえには何もないだろ。どうせ前までと同じようにいろんな男に媚びを売って生きていくくらいなら、ここで暮らしていればいい。俺は、おまえを見捨てることなんてできない」
「――ぶっは、すげえわ。あんた、俺のことなんだと思ってるの? ねじ巻いてもらわないと動かない人形か何か? 偽善という名のエゴを押し付けて、俺をあんたのもとに縛っておくつもりか。侮辱も大概にしろよ。あんたに愛でられるくらいなら、独りで死んだほうがマシだね」
もう、この男のもとは離れるのだ。媚びを売る必要はない。いい人ぶりたいばかりに俺のことを人とも思っていないこの男に言いたいことを全て言ってしまえば――気付けば馬乗りされて殴られていた。
「てめえ! 恩を仇で返すのか! ちょっと顔がいいからってつけあがってんじゃねえぞ! おまえなんて生きてる価値ねえんだよ! おまえの代わりなんていくらでもいるんだからな! 死にたいならさっさと死ね!」
どのくらい殴られたのか、わからない。顔はなんとか庇ったけれど、完全に衝撃まで防げたわけじゃない。口の中を何回も切ったし、痛みで呼吸をするのも大変だった。
和泉さんが飽きるまで、俺は殴られ続けた。その痛みで俺は、思い出す。俺は男の慰みになり、そして男の気分で殴られる。そういう生き方をしてきたのだ。白柳さんのもとにいて忘れかけていたけれど、俺はそういう生き方しかできないのだ。
もう、どうでもいい。けれど、和泉さんとはさよならだ。俺は、白柳さんのいるこの町からでなければいけない。優しい思い出から、逃げたかった。
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