▼ douze
水の中の気泡のような――そんな、ふつふつとした機械音が聞こえてくる。
「――んあっ」
夢か幻か、まだ沈んでいられるだろうと思ったのはほんのひととき。この音がアラームだと気付いて飛び起きた俺は、呆然と部屋を見下ろした。
カーテンが空いていて、テーブルの上にバタートーストとサラダが乗っている。まさしく、ブレックファーストといったその光景に、俺は混乱した。はっと傍らを見てみれば、智駿さんがいない。
「――ああ、おはよう、梓乃くん」
「……えっ、智駿さん!? おはようございます」
なんと、智駿さんが朝ごはんを用意していてくれた。昨日あんなに疲れていたのに、俺よりも早起きをして。
「まだ、寝ていてもいいのに……俺のためにご飯作ってくれたんですか?」
「あはは……いつも早く起きているから、体が勝手に起きちゃって。今日は僕が休みの日だし、朝から学校にいかなきゃいけない梓乃くんのために、朝ごはんくらいはつくってあげようかなって」
「智駿さん……!」
「……っていうか、その……昨日はごめん……」
「え?」
「いや……なんか、あんまり覚えていないんだけど……ものすご〜〜〜く甘えてしまったというか」
「ええ〜、いいんですよ、たまにはあのくらい甘えてくれないと。恋人なんだから」
智駿さんは紅茶を淹れながら、照れたように視線を俺から外す。まあ……普段が優しいお兄さんな智駿さんは、ああして思いっきり甘えるということに照れを覚えてしまうのかもしれない。俺はそんな智駿さんが可愛くていいなあって思うけれど、本人はやはり恥ずかしいのだろう。
照れているところをあまりつつくのも悪いので、昨日の話はあまり振らないようにした。「疲れはとれましたか?」って訊くくらいだ。「だいぶ」と答えてくれたので、ほっとする。
二人分の朝食がテーブルに並んで、俺たちは二人でそろっていただきますをした。テレビを付ければ、にこにこと笑った女子アナがおすすめグルメについて話している。
「あれっ、このサラダのドレッシングって……作ったんですか? うちにある調味料で?」
「うーん、まあね。僕、料理は苦手だけど軽食をつくるのはそこそこ得意だよ。朝食なら、カフェ並のブレックファーストをつくってあげられるかも」
「……軽食がつくれるなら料理がつくれるんじゃ……」
「あはは、やる気がおきない」
「ええ……」
オリジナルのドレッシングで和えたグリーンサラダは、冷蔵庫のあまりものの野菜とは思えないくらいに瑞々しくて美味しい。朝のからからの体に染み込んでいくようで、今日一日の養分になっていくようだ。トーストは絶妙に焼き上げられていて、カリッと噛めば染み込んだバターがじわりと舌の上に広がっていく。ただのバタートーストがこんなに美味しくなるなんて、一体どんなわざをつかっているのだろうか。
ほどよい塩気のある朝食に、少し渋みのある紅茶がよく合った。しん、と紅茶が体内に入っていけば、消化したグリーンサラダとバタートーストが整理されていくようだ。最後まで飲み干せば、すっかり今日を乗り越えるための体が出来上がる。
ちらりと時計を見てみれば、もうそろそろ家を出なければいけない時間だ。俺がお皿を片付けようとすれば、智駿さんが「片付けておくよ」と声をかけてくれる。ではお言葉に甘えて、と立ち上がろうとして――俺はふと、大切なことを思いだした。
「そういえば、智駿さん……このあと、もう少しここでゆっくりしていきますよね」
「うん。鍵は……ポストに入れておけばいいかな?」
「……いえ」
智駿さんの前に立って、智駿さんの手を掴む。きょとん、とした智駿さんに「手を開いて」と言えば、智駿さんは頭にはてなを浮かべながらぱっと手を開いた。俺はその上に、ずっと渡しそびれていたものを置く。
「――あ」
「合鍵。俺の部屋、智駿さんの二個目の家だと思ってください」
「……梓乃くん」
俺の部屋の、合鍵。初めて智駿さんがこの部屋に来た時には、まだできていなかった。ようやく渡せて――俺は胸の中が暖かくなる。この部屋が、智駿さんがただいまを言う部屋になってくれたらいいな、と。
「すごく疲れた時は、ここにまた来てください。また、甘やかしてあげますから! もちろん、なんでもない日でも勝手に入って来ていいですよ。もう、ここは智駿さんの家ですから」
「……、ふ」
「……智駿さん?」
智駿さんは合鍵を受け取ると、目を細めてまつ毛を震わせた。「あ」、俺は声を出しそうになる。
――その、表情は。
「……僕もきみも、心ではもう決めているのにね」
「ちは―ー」
あのときの――少年のような、顔。
はっと息を呑んだとき、智駿さんに抱きしめられた。俺は頭が真っ白になって――まるで、初めて智駿さんにキスをされたときのように、心臓がばくばくと激しく鼓動を始める。
「僕も梓乃くんも、今が好きだから……ずっとこのままでいたいって思っている。けれど、あたりまえみたいに、一緒に夜を過ごして、朝を迎えたいって思っている。……リードディフューザーは、ひとつでいいって、そう思っている」
……あ。
まって――頭に浮かんだのは、その言葉。その先の言葉を言われたら、俺は、なんて言葉を返そう。
嬉しい、そう、すごく嬉しい。けれど――俺と智駿さんが求める未来へどうやってたどり着くのか――その道が、まだ俺には見えていない。まだ不完全なこの俺が、軽々しく智駿さんのこの先の言葉にどう返事をするべきなのか――それが、わからない。
智駿さんの肩口に顔を埋めながら、俺はぐるぐると考えていた。その緊張は、智駿さんにも伝わっているだろう。ぎゅ、と思わず智駿さんのシャツを握りしめてしまったから。
「……僕ね、昔からちょっと達観してたんだ。まともに恋愛とかしてないし、無駄に大人びていた」
「……?」
……けれど、智駿さんの口から出てきたのは、思いにもよらなかった切り口。すっかり「一緒に住もう」と言われるものだと思っていた俺は、拍子抜けしてかくんと肩から力が抜けてしまう。
「だから――遅れて、青春がやってきたみたい。何も考えないで、我武者羅に恋に生きてみたい。今は、そんな気分。けれど、きみはもう大人でしょ? 僕の青春と正面からぶつかるのは……ちょっと、恥ずかしいんじゃないかな」
「そっ……そんなことないです、俺だって、」
「……だからね、待っていてほしい。今の、少年さながらの僕が、恋に恋して突っ走ったら大事故が起きちゃうかもしれない。本当はね、今すぐに梓乃くんに言いたいことがあるんだけど――……それは、僕が青春を終えてからがいいと思う。僕が大人になって、きみとの未来を目に据えた時に」
「えっ……それは、」
「まだ、焦らない。焦らない、けれど――予約だけ、させて」
智駿さんは一歩後ずさると、俺の左手を手に取った。そして――薬指に、キスをした。
「……ッ」
あまりにベタなそのキスに、かえって俺はドキドキしてしまう。かあーっと顔が熱くなって、鏡を見ずとも自分の顔が赤いと自覚したそのとき、智駿さんがちらりと俺を見上げて、いたずらっぽく笑った。
その顔は、少年のようだった。智駿さんは――云う。遅れて青春がやってきたのだと。それは、言われてみればそうかもしれない。俺と恋をしている智駿さんは、まるで初恋をした少年のように楽しそうで、幸せそうで、きらきらしている。青春の中にいる彼は、思ったのだろう。好きな人と、一緒に住みたいと。それがあたりまえなのだと。
「予約、受け付けました。キャンセルは不可ですよ」
「もちろん」
大人は、ずるいしめんどくさい。たくさんの理由を付けて、たくさんのことを否定する。けれど、大人だからこそ――たくさんの理由を付けて、ひとつの幸せを掴み取る。
智駿さんが少年時代を終えたなら、俺がたくさんの理由を集めたなら――そのときは、一緒に歩きましょう。遅すぎることなんて、きっとない。
部屋に飾るリードディフューザーは、交代で買いましょうか。智駿さん。
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