しばらくして、コンサートの開演時間となった。まず岩隈が登壇し、挨拶を始める。ミニコンサートへの想いや、生徒たちへの激励などを、三分ほど話していた。岩隈は「白鷺派」の支持者として神藤にとっては注視すべき男ではあったが、彼の人となりはそう特別なところはない。挨拶もごくありふれたもので、神藤が聞いていて違和感を覚えたところも特になかった。
挨拶が終わると、ようやくコンサートが始まる。梨瑚の順番は、一番最後のようだった。岩隈の教え子の生徒がそれぞれ一、二曲ほど演奏していく。ほとんどが神藤も知っている曲で、神藤はすっかり聞き入った。彼らは、ずいぶんと俺と違う曲の解釈をするんだな、なんて思いながら。
ラストの、梨瑚の順番となる。曲目は、先に伝えられていた通り――ベートーヴェンの『月光ソナタ』。
「……」
……美しい、『月光ソナタ』だった。
静かに揺らぐ水面の下に、哀しい恋心をとじこめているような。夜の湖のほとりで、誰にも聞かれぬように唄をうたっているような。
誰に向けて、弾いているのだろう――それがわからないほど、神藤は鈍くなかった。
『月光ソナタ』は、梨瑚にとって神藤への憧れの象徴。なぜそれを、梨瑚は神藤に聞いて欲しかったのか――それは、神藤にはわからなかった。ただ、この演奏に、強烈な情念が込められていること……それだけは、恐ろしいくらいにわかった。
曲は、第二楽章後半へ。もうすぐ――第三楽章へ、さしかかる。
息を呑んだ。神藤が今まで心の奥に封じ込めてきたこの曲を、彼女はどう奏でるのだろうと――
「――……ッ」
――舞台は、血に染まる。
何が起こったのか、わからなかった。第二楽章が終わったその瞬間――梨瑚の体を、何かが貫いて、梨瑚が体から大量の血を流しながら椅子から崩れ落ちたのだ。