23

 アザレアとの一件があったあとも、ラズワードの不貞行為は納まることはなかった。ラズワードがアザレアを以前のどろりとした目つきでみることはなくなったものの、ワイルディング家の財産が危なくなっていくにつれてその行為はむしろ加速していったように思える。じわじわと広がる屋敷内の不安を払拭するように、皆の憎悪に応えるように、ラズワードは毎日のように誰かのものになっていた。

 アザレアはなにも言うことができなかった。ラズワードがいつかこの屋敷をでて本当に愛せる者を見つけることができたらいい、そう思うのだが、そう簡単に屋敷をでることなどできない。そして出たところでいくあてもない。結局それは夢物語で終わってしまうのかもしれない、そんな諦めがわずかにあったのだ。

 そして、アザレア自身、ワイルディング家崩壊の危機に怯えていた。自分の家が壊れてしまうのはもちろん怖い。しかし、それ以前にワイルディング家か崩壊すればアザレアは騎士でいることができなくなってしまう。そう、エリスの傍にいる資格がなくなるのだ。



「……アザレア?」



 最近はエリスを見るたびに胸が締め付けられるような感覚を覚えた。あとどれくらいこの人の傍にいることができるのだろう。この人のために剣をもつことが許されるのだろう。そんなことを考えて、毎日が不安で仕方がない。



「最近、元気ないよな。……大丈夫か?」

「……」

「アザレア……?」



 ぐるぐると頭の中で巡る恐怖で、エリスに悟られるまでにアザレアの顔は青ざめていた。大丈夫、そう返そうと思っても、それが言えない。



「……あのさ、アザレア。話、あるんだけど」



 一日の護衛が終わり、エリスの部屋でちょっとした仕事をしていたアザレアに、エリスは言う。なんだろう、そう思ってアザレアが瞬くと、エリスはじっとアザレアを見つめた。ふう、と小さく深呼吸までしている。



「……なん、でしょうか」

「あの、な……いろいろ順序すっ飛ばして言うけどよ」

「はい……?」



 す、とエリスはアザレアに歩み寄る。心なしか彼の顔は紅く染まっていて、アザレアまで緊張してしまう。

――まさか……

 そこまで、鈍くはない。彼が自分に好意を抱いてくれていることくらい、知っている。今、それを言われるのだと気付いたアザレアは、怖くて震え始めた。

 そうだ、ずっとこの関係でいたかった。でも、彼に告白されてしまったら、それが終わってしまう。アザレアの「NO」の返事で全てが終わってしまう。「YES」なんて言うことはできない。自分は彼を守るために存在しているのであって、ただの女という存在に甘んじることはどうしてもできない。

 怖かった。「エリスを守りたい」という決意が鈍って、自分が「YES」と言ってしまうことが、怖かった。



「アザレア……」

「……、」

「――俺と、結婚してくれ」

「――ッ」



 頭が真っ白になる。

――結婚

 思っていたことを上回る彼の言葉にアザレアは固まった。ただの告白だったら……いや、断言はできない、でも断ることができたかもしれない。しかし、結婚は……



「ごめん、いきなりこんなこと言われて困るのはわかっているんだ。でも、俺……アザレアのことずっと好きだった。……これからも、ずっと一緒にいたいってそう思うんだ」

「……あの、なんで……今更……そんなこと……だって、結婚なんてしなくたって……傍に……」

「……いれないだろ……だって、ワイルディング家は……」

「……!」



 エリスがぐい、とアザレアを抱き寄せた。いよいよアザレアは心臓が爆発しそうになって何も言えなくなってしまった

 ワイルディング家が危ういこと、レッドフォード家のエリスが知らないわけもない。それはわかっていたが、アザレアはその事実をすぐには受け入れられなかった。知られたくなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。



「このまま……ワイルディング家が崩壊すれば、アザレアはもう俺の傍にいることができない……レッドフォードでワイルディングを支援することはたぶんないだろう。きっと、別の騎士を雇うようになる。……だから、アザレア。おまえに傍にいてもらうためには……」

「で、できません……! だって……エリス様、……私、ワイルディング家の女じゃなくなったら……ただの、女になるんですよ……それじゃあ私の存在の意味がない……ワイルディング家の崩壊と同時に、私は……!」

「いいんだよ! 俺の女になってくれ!」



 ふ、と視界が暗くなった。心臓が止まったかと思った。何も考えられなくなって、今、自分に何が起こっているのかわからなくなってしまった。唇に感じた柔らかな感触に気付くのに少し時間がかかった。キスをされているということを認識した瞬間、体中の熱が顔に集まってくるような気がした。ドクドクと早る鼓動が、頭の中に響いている。



「……俺だけで、ワイルディングを支えることはとてもじゃないけどできない……でも、おまえ一人ならできる……俺のところにこいよ、一緒に住もう」

「……え、リスさま……」

「ごめん……他の家族のことまではできない……そこまでの決定権は俺にないんだ。でもお父様も俺の妻として迎える女を養うことは当然のように許してくれるだろう。お父様もアザレアのことを気に入っている。……アザレア、だから……」

「でも……でも、私……」



 エリスに抱きしめられたまま、アザレアは口ごもる。この人を守りたい、その気持ちは絶対だ。しかし、どうせワイルディング家が崩壊すればエリスの傍にいることはできなくなってしまう。

 でも……そもそも、家が潰れるというのはどうなることなのか。アザレアはそれがわからない。土地と権利を奪われる、それだけなのか。今まで没落した貴族のその後を調べたことがあるが、彼らの消息は不明になっているのである。

 ここで、安易に頷いていいのだろうか。もしも、自分がすぐにエリスの前から姿を消すことになったのなら……ここで婚姻の約束をすれば、それが永遠にエリスを縛り付けることになる。



「……エリス様……できません……私、貴方と結婚することはできません……」

「なんで……」

「……私が、貴方を幸せにできないからです。私は貴方に幸せでいてほしい。きっと私と婚姻の約束をした貴方に幸せの未来はありません。この世界の没落貴族の娘を抱えることは、決して楽なことではないから……」

「……」



 エリスは黙り込む。じっとアザレアの目を見つめ、そして何かを決意したように目を閉じた。



「――わかった」

「……」

「……俺、おまえの目に弱いのかな。……本当ならさ、ここで男は押し切るところなのに……おまえを見ていると、そんなことをしたらおまえのプライドを折ることになるんじゃないかって思えてくる。……諦めるよ、アザレア。おまえに従う」

「……エリス様」



 どこか辛そうに顔をしかめるエリスは、やはり完全に納得したという様子ではなかった。少し迷ったように目を泳がせ、そしてふう、と軽く息を吐くともう一度エリスはアザレアに向き直る。



「……でも……俺は、おまえといるだけで幸せになれるってそう思っているよ。たとえ、どんなことがあったとしても」

「……」

「……アザレア」



 そっと後頭部に手を添えられる。その手はゆっくりと髪をかきまわし、そしてそのままエリスはもう一度アザレアに口付けた。

 ああ、ここで突き放さなくちゃ。断っておきながら本当は好きだなんて、そんなことを悟られてはいけない。そうわかっているのに、アザレアはいつの間にかエリスに身を委ねていた。手を彼の背にまわし、何度も何度も繰り返されるキスに応えた。



「エリス様……ごめんなさい、ごめんなさい……」

「アザレア……」

「ごめんなさい……好きです……」

「……俺も、好き」



 アザレアの目から流れた涙をエリスは指で拭う。泣き声を塞ぐようにまた唇を重ねて、お互いを求め合うように深く口付けた。



「……なあ、これから、ここにいる間だけでいい……俺の恋人になってくれ」

「……はい」



 静かに体を押される。なんだろうと思って後ろを見て、アザレアの胸はドキリと大袈裟に高鳴った。あ、と思っている間に、そのままベッドに押し倒されて、見下ろされる。



「――ずっと、好きだった」

「……私も、です」

「……忘れない……俺は、おまえのこと絶対に忘れない」

「……私も、忘れません」

「……うん。――だから」



 触れるだけのキス。そして、



「体に刻んでいい? おまえの存在を俺の体に。……俺の存在を、アザレアの体に」



 涙がでたのはなぜだろう。

 きっと、ただ、ただ……嬉しかったのだ。

 自分を殺し、恋心を殺し、女を捨て、ただ愛する人は「守る者」とそう考えていた。それは間違っていなかったと思う。でも、エリスと一つになれた瞬間に、初めて思った。

――女に生まれて良かった、と。
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