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「どうぞ、こちらへおかけください」
レッドフォード家当主、エセルバートが客人をもてなす。老体なれどもしっかりとした体格と美しい白髪が当主としての威厳を放つエセルバートの後ろにハルは立っていた。おまえも次男なのだからレッドフォードが贔屓にしている客くらい顔を合わせておけとのことである。
しかし、わざわざこんなことをしなくても、ハルはこの客人とは面識がある。今日ここにでてくる必要はないと断ろうとも思ったが、流石にそれは大人気ないかと思ってハルはでてきたのだった。それから、その理由とは別にハルはその男には会いたくなかった。
理由は単純明快。その男が嫌いだからである。
「本日はわざわざこのような場を設けていただきまして、ありがとうございます。エセルバート様、ハル様」
恭しく男が頭をさげると身につけているローブが揺れた。前に見たときと何も変わらない、闇を纏う男。
「いえいえ……ノワール様、最近のそちらはどうですか? ルージュ様が変わったばかりで落ち着いていないようですが……」
「いえ……そんなこともありませんよ。彼女は無事、ジャバウォックとの契約も済ませたようで……」
そう、奴隷市場で会った男、ノワール。彼が今日の客人であった。規則らしく仮面もローブも外さないためその素顔はわからない。しかしハルはその仮面の下の彼の表情を想像しただけでも虫唾が走った。今日もどうせ奴隷の取引に来ているのだ。奴隷を人と思わずただの商品としてみている冷たい目を想像しただけで嫌悪感が湧いて出る。
ラズワードへ部屋をでるなと言ったのも、ノワールが来ているからである。ラズワードを買ったあの日ノワールを顧みたときの彼の表情、ノワールの話をだしたときのただならぬ様子。もしも今ラズワードをノワールに合わせてしまったらどうなってしまうのだろう。それを考えると怖くてハルはそんなことを言ってしまった。
でも、正直に言えばこれはラズワードのためではないと思う。彼がノワールを見たときに辛い顔をするからそれがみたくなくて……などとまるでラズワードのことを思っているかのような理由をつけてはいるが、たぶんこれはハル自身のために言った。ラズワードがノワールに向けている想いは一体なんなのか、はっきりはわからない。しかしそれは確実にラズワードの心を支配している。そして、わからないといえども、もしかしたら……という憶測はある。
たぶん、ラズワードはノワールに「愛」に酷似した感情をもっている。ハルがラズワードに抱いているようものちは同じようで違う、深く重く、苦しい感情だ。ハルはラズワードを見ていてそんな風に感じていた。
ハルはラズワードのことを考えたとき、心が暖かくなるような感覚を覚える。彼が苦しんでいるときは心も痛むが、彼を腕に抱いたときにはとても幸せを感じる。しかしラズワードがノワールに抱くものはこれとは違うだろう。ラズワードはノワールのことを想ったときに幸せなど感じやしない。ラズワードがノワールについて語るときはいつも辛そうな表情をしているのだ。それでもきっとラズワードはノワールのことを「愛している」。ハルのように触れたい、抱き寄せたい……そんな想いがあるかどうかはわからない。しかし確実に共通しているのは、相手の苦しむ姿を見たくないという想い。
そう、ラズワードにとってノワールは特別な人。二人の関係が一体なんなのか。調教師と奴隷なんてものではないだろう。ましてや恋人なんてこともない。友人とも違う、執着とも違う。はっきりしないからこそ、恐ろしい。「普通」ではない関係。つまり「特別」な関係。
ただの主人と奴隷なハルとラズワードとはまったく違う。もしかしたら、その関係よりも一歩進めるような気がしないでもないが、それでもノワールとの「特別」に敵う気がしない。そうだ、ハルは怖かった。ラズワードが自分よりもノワールのことを想うことが、怖かったのだ。
簡単にいってしまえば嫉妬だった。今ノワールに対して強い嫌悪感をもっているのも、もしかしたら初めて会ったときのことよりも嫉妬によるものが大きいかもしれない。
幼い。なんて自分は幼いのだろう。そう思いながらハルは自戒する。エセルバートと話すノワールの声が耳に入るたびに心がざわざわと動くのを感じながら、ハルは拳を握り締め耐えた。
何をしたらあのラズワードの心をあそこまで捉えることができるのだろう。確かに最近こそはラズワードも表情を出しつつある。笑うことも多くなった。しかし、やはり他の人に比べれば表情に乏しいと感じる。ハルの前であってもそこまで大きく表情を変えることはない。ただひとつ、あるときを除いては。ラズワードはノワールのことになったときのみ……激しく心を動かしているのだ。
何をした。あの施設で二人に何があった。その手でラズワードに触れたのだろうか。俺の知らないラズワードの表情を全部知っているのか、おまえのその口から吐いたどんな言葉でラズワードの心を捉えたんだ……
「……ハル様?」
「え?」
自分の名を呼ぶ声にハルはハと顔を上げる。そうすればノワールが真っ直ぐにこちらを見ていた(仮面をかぶってはいるが、首の向きでそう判断できる)。
「ハル、お客様の前だ。ぼーっとしているな」
「……すみません」
エセルバートが横から小さな声で叱声を飛ばしてきた。普段から厳しい父親ではあるが、客人の、しかも憎たらしい男の前で叱られたことでハルは少しだけむっとした声で謝る。そんな様子を見ていたのか、ノワールが少し笑っていた。
「……?」
おまえのせいで怒られたんだよ、と八つ当たりに近い苛立ちを抱えながらノワールを見つめたとき、ハルは少しだけ違和感を覚えた。その笑い方……いや、仕草? 抑え気味の静かな笑い声、口元に手を持ってくる仕草。どこかで見たことがあるような気がする。
「……失礼。それでハル様、どうですか?」
「……え、何がですか?」
「ええと、先日ハル様がお買い求めになられた奴隷の調子です」
本当に聞いていなかったのか馬鹿者、とまたエセルバートが言ってくる。先ほどのノワールの呼びかけがこの問いだったのだろう。しまったと思いながらハルはノワールへの違和感を一旦忘れることにする。
「先日買ったというと……ラズワードのことですか?」
「そうです。簡単にでいいので感想を教えていただければと思いまして。彼は私たちが力を入れて作り上げた商品ですから」
「……」
また、「商品」。やっぱりこの男は奴隷を奴隷としか思っていない。ラズワードも例外ではないのだろうか。だったらあのラズワードの様子は? 何かあったわけではないのか。頭の中にはハテナしか浮かんでこない。どう頑張って考えても答えがわからない。この男とラズワードの関係性についての答え。この男がラズワードをどう思っているかについての、答え。
「……とても、気に入っています」
「そうですか。それはよかった」
「……関係も良好ですよ」
じっとハルはノワールを睨みつけた。さあ、どうくる。どうしてもこの不安に囚われる状態から脱却したい。ハルはノワールの心理を知りたいと、鎌をかけてみる。ハルの予想は2パターンだ。
まず、ラズワードが一方的にノワールに対して何らかの想いを抱いていた場合。この場合ノワールはハルの言葉などになんの関心も示さないだろう。むしろバイヤーと商品が上手くいっていると喜ぶかもしれない。
次に、ラズワードの想いが一方的でなかった場合。つまり、お互いがお互いに想い合っている……というのも違和感があるが、その場合。このパターンなら、ハルの言葉は多少気になるはずである。自分の大切な人が違う人を想うことが全く平気な人はきっといない。たとえこんな普通から大きく外れた男だとしても。
しかしいずれのパターンにしてもノワールの反応は同じであるとハルは予想していた。
「嬉しい」、そんな反応を示すと。前者の場合その反応は当然。後者であったとしてもこの男は商人だ。客の気に障ることをするはずがない。自分の中にどんな想いがあったとしてもそれを表にだすことはないはずだ。
ハルはそうよんでいた。だから、ノワールの反応に少し驚いたのだ。
「……良好というと?」
「え……」
てっきりノワールがあっさりと「それは喜ばしいことです」とでも言って話を終わらせてくると思っていたため、ハルは間抜けな声をあげてしまった。まさかラズワードとの関係に興味を持たれるとは思っていなかった。
そのときハルの中では同時に幼い嫉妬が更に炎をあげていた。自分でも馬鹿らしいとは思っていたが、どうしてもこの男にラズワードが囚われていることが気に食わなかったのだ。
「……言葉のとおりです。俺はラズワードのことを奴隷としてでなく、一人の人間として愛してる」
「――はあ?」
ハルの言葉に驚きの声をあげたのはエセルバート。当然だろう。ミカエルの意思を次ぐレッドフォード家の当主、卑しい水の天使なんかに息子が熱をあげていると知ったならこの反応が順当である。しかしハルは気にすることなく続ける。
「彼も心を開いてきてくれています。笑顔をみせてくれます。きっと、お互いにとってお互いがなくてはならない存在です」
「……ラズワードにとって、貴方が……」
「……、そうです」
ノワールの口からラズワードの名前がでたことにハルは一瞬動揺してしまったが、それでもハルは怯んではいけないとノワールを見つめる。隣でエセルバートがあんぐりとした顔で見つめてくることなど、どうでもいい。
「……ハル様……彼は……ラズワードは幸せそうですか」
「……。……少なくとも、貴方の下にいたときよりは」
「……そう、ですか。……もっと、彼を幸せにしてあげてください……貴方のその言葉から察するところにまだ、はっきりとした関係ではないのでしょう? そう、まだ曖昧な関係な今よりも、明確に表現できる関係になればより心の中の幸福感は増大するものです。彼の中をそれで満たしてあげてください。今、それができるのは貴方だけですから」
「……」
すらすらとまるでラズワードの幸せを望んでいるかのような言葉を連ねるノワール。しかし、その組んだ指に微かに力が込められたのをハルは見逃さなかった。
「……それ、本当にそう思ってます?」
「……本心です。俺は彼に幸せになってほしい、そう願っている」
「……どうしてですか? 貴方が奴隷にそんな情を持つような人間だとは思えませんが」
「おい、ハル……!」
だんだんと口調が攻撃的になっていくハルにエセルバートは焦りを隠しきれないようである。自分でも抑えきれない怒りにハルは内心怯えていた。今まで人間関係を適当に成してきたハルはこのような感情に慣れていない。心を支配するどす黒い感情に全てが飲み込まれてしまいそうだった。
「なぜ……? 難しい理由じゃないですよ。俺が――」
冷たいのか暖かいのかわからない――そんな不思議なノワールの声が、ハルの胸を射抜くようであった。
「――彼を愛おしいと思っているから……それだけの理由です」
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