3

―――――



―――




―……





「はあー……」



 堅いベッドに四肢を投げ出す。施設に来てひと月と少し。毎日行われる戦闘の訓練は大分慣れてきたものだった。始めの頃は明らかに手を抜いていたノワールも、少しずつ本気をだしてくれるようになってきた。それに伴って訓練のあとの疲れは増していくのだが。



「お疲れ」



 一緒に牢に戻ってきていつもの定位置に座ったノワールが言う。少しずつ彼は優しい言葉をかけてくれるようになってきた。「奴隷に情を見せるつもりはない」らしいのだが、流石に毎日ずっと一緒にいるとなると、素も出てくるのだろう。彼は善人ではないが、無駄に気の利く、そんな人のように思われた。



「まだ調教まで時間あるね。休んでいていいよ」

「……調教」



 戦闘訓練には慣れたが、この調教ばかりはそうもいかなかった。その言葉を聞いた瞬間、ラズワードは気が重くなるのを感じた。



「……今日は、誰ですか?」

「ん? 調教師?」



 ベッドに寝転んだまま、ラズワードは尋ねた。

 ノワールに対する敬語も慣れたものである。少し前に彼の本性をチラリと見た時からだっただろうか。自分は美しいものに触れられないのだと、自分をひどく貶したあの時。その時から、彼の中にある弱さ、悲しさ。それを感じてしまってから、ほんの少し、極僅か、彼への嫌悪感というか対抗心というか、そんなものが薄れてしまったのだ。心を持っていないとか言われていたこのノワールという人も、同じ人間なんだ、そう心のどこかで感じたからかもしれない。だから、別に彼を尊敬しようなんて思わないが年上なんだし身分も上だし敬語を使ってやろうと、そう思って使い始めたのはいつだったか。



「ラズワードは、誰がいいの?」

「……は?」

「どの調教師がいい? 参考にするから」



 ノワールは相変わらずの冷たい目でラズワードを見ながら尋ねる。しかし、気のせいかもしれないがその声は少し優しげである。



「いままで……何人くらいかな。全員覚えている? 調教師によって全然違ったでしょ?」

「どれがいいとか……全員嫌に決まっているじゃないですか……」

「ちゃんと言ってくれないと君が好きじゃないタイプの調教師ばっかりぶつけるよ」

「え」



 まるでラズワードがどの調教師の調教を好んでいるかをわかっているようなノワールの口ぶりに、ラズワードは驚き体を起こす。ノワールはフ、と微笑んでラズワードを見ている。



「わ……ワイマンは嫌です……あとヘーゼルも……あと……」



 ただ、ノワールは観察力も優れているから、ラズワードが調教されている様を見ていればわかってしまうのかもしれない。その上で苦手な調教師をぶつけられるのは御免だと、ラズワードは必死に記憶を辿る。好きな調教師をあげるのはまるで自分の性癖を言うようなものだから恥ずかしくてできなかったが。



「うん、なるほどね。そうだと思ったよ」

「……やっぱり、わかっていたんですか」

「君は感情をぶつけられるのが好きじゃないでしょ? 調教の中に、その調教師の欲望とか君への劣情とか……そういうのが見えるようなのは好きじゃないよね。ラズワードは残念ながら容姿が良いものだから、調教師の人たちも君に欲情しちゃったりもしているみたいだよ。自分がラズワードの担当になったと知って目の色変える奴らも少なくない。ただ、そういう調教師の調教はやっぱり違ってくるものだね。調教することよりも君と性交することばっかり考えている」

「……いつも見ないふりして……そこまで見ていたんですか」

「見なくても声でわかるよ。調教師達の異様に高揚している声とか。それから反応が僅かに薄い君の声とか」

「……っ」



 人の痴態見て冷静に分析するなよ、そう心の中で毒づきながらもラズワードは自分の声を聞かれていたということに今更のように恥ずかしくなって俯いた。ノワールは調教には一切手を出そうとしてこなかったため、ラズワードの中で彼は性に関することとはほぼ無縁な人、と勝手にカテゴライズしていたのかもしれない。



「そうだな……調教師の性格とか……君の反応から見て君が一番好んでいそうな人は……」

「は、反応とか言うな……」

「……アベルかな。ほら、昨日の調教師。覚えているでしょ」



 ラズワードはその名を聞いた瞬間、ぞわっと背に寒気がはしるのを感じた。



「き、昨日の人だけは嫌です……! あの人……!」

「そう? 一番感じていたでしょ?」

「だ……だから……その、か、感じすぎて……怖い……」



 自分で言っていて恥ずかしくてラズワードは片手で軽く顔を覆った。そんなラズワードの様子に、ノワールは笑う。



「いいんだよ、それで。それくらい感じているってことは君との相性が良いってことだ」

「う、うるさい……! あんな暴力的なのと相性がいいとか……まるで俺が……」

「いいんでしょ? ああいう血も涙もない、ひたすらに快楽だけを与えてくれる人。余計な感情の混じり合いを求めない彼みたいな調教師が好きなんじゃないの?」

「……」



 てっきり自分がマゾヒスティックなのではないかと馬鹿にされると思ったが、ノワールに言われて気付く。そういえば彼は他の調教師と違って無駄に触ってくることもなかったし淡々と調教をしていた。ゆえに生理的な嫌悪感も感じなかったし、体こそ苦痛を感じたが心は楽だった。



「どう? アベルが君の調教するように、調整しておこうか?」

「……じゃ、じゃあ……」

「了解」



 ノワールは口元だけで笑って手帳のようなものに何かを書いていた。




「……それで……ノワール様……今日は……」

「そんなに気になるの?」

「いや……心の準備」



 ラズワードがぶすっとして言えばノワールは吹き出した。

 どうせ準備をするくらいには調教に慣れたんだ、とか嫌がらなくなってきた、とか思っているのだろう。非常に不愉快である。



「んー、でもね、ラズワード。今日は初めての人だから準備はできないんじゃないかな」

「……初めて……ああ、そうですか……」

「だってね、今日の調教師は」



 ノワールは身をかがめてラズワードの傍に寄る。そしてぽん、と手をラズワードの頭に置くと、にこっと笑っていった。



「俺だから」

「へ」


 
 布団にくるまった状態で、ラズワードは目をパチクリとさせる。一瞬ノワールの言ったことが理解できなかったが、何度か彼の言葉を頭の中で反芻させ、意味を考え……



「なっ……え、ええっ!?」



 ようやく今日の調教師がノワールだと理解して、ラズワードは間抜けな声を上げてしまった。それと同時に飛び跳ねるようにノワールから離れ、ベッドの端まで逃げる。




「あら、そんなに俺嫌われていたかー」

「え、本気で言っているのか……!? だってあんた今まで……」

「ローテーションなんだよ、ごめんね、今日は我慢して」

「……っ」



 ノワールは笑っている。

 確かに一度、ノワールがラズワードの調教を引き受けたことはあった。しかし、それはラズワードに自慰を強制するといったもので、ノワールは直接手をだしていない。つまり、今回のように、ちゃんとした形で調教をするというのは初めてなのだ。

 いつもストイックに戦闘の訓練を共にしていた人。ほかの調教師なんかよりもずっと長い時間、共に過ごし、それゆえにその中身を少し知ってしまった人。

 その人に、性奴隷の調教をされる。

 ラズワードはなぜか恥ずかしくなって頭から布団をかぶった。まともに顔を見れない、そう思ったのだ。調教師に対してこんなことを思ったのは、初めてのことだった。



「あと30分くらいで始めるからね」

「う、うるさい!」



 布団の外から、ノワールが声をかけてくる。その声を聞きたくなくて、ラズワードは叫んだ。

 調教は嫌いだ。

 見知らぬ人にベタベタと体を触られること、体温を共有すること。気持ち悪くて、そして自分が自分でなくなってしまいそうで。だから、その日にあった調教のことは一刻も早く忘れようと努めてきた。きっと、脳もそういったラズワードの気持ちを理解しているのかもしれない。実際に、調教は嫌な記憶と脳は判断したのか、あまり鮮明には覚えていない。

 しかし、どうしても離れない記憶がある。そう、一度ノワールがワイマンとかいう調教師の代わりに調教をしてきた時のこと。実際に体を慰めたのは自分だが、少しだけ、彼も触れてきた。

 あの時……彼はどう触ったっけ……

 布団の中で、ラズワードは服に手を滑り込ませて記憶を辿る。ゆっくりと……焦らすように、肌を滑らせるように。指の腹で優しくなぞっていく。



「……っ」



 何をしているのだろう。外にはノワールがいる。いや、そんなことじゃなくて。誰に強制されたわけでもないのに、自らこんなこと……



「……ぁ」



 まずい、声が出た。ラズワードは慌てて自らの口を塞いだ。

 聞かれたら、バレたら一巻の終わり。おまえも性奴隷らしくなった、とそう言われてしまう。それだけは絶対に勘弁だ。プライドが許さない。性奴隷になんて絶対になりたくない。

 そう、頭の中で自分に向かって叫ぶ。だから、手を動かすな。これ以上はいけない。

 それなのに、手は止まってくれない。あの時の熱を思い出したい。彼の、熱。

 人に触られるのは好きじゃないのに。どうしてあの記憶はあんなにもはっきり残っているのだろう。耳元で囁く声。抱きしめられた背に感じた体温。全部、覚えている。



「……」



 声が出ないように、必死で口を塞ぎながら。もう片方の手で、あの時の熱を探していた。



「……は、」



 くに、と軽く乳首をつねる。びくん、と動いた身体に、すっかり調教されきった自分を恨む。

 しかしそんなまともな思考が存在したのも一瞬で。すぐにそれはあの記憶でかき消されてしまう。

 責めるようにぐりぐりと摘まれて。いつも穏やかな声をしているくせにあの時は冷たい声をしていて。ああ……今日も、あんな風にやられるのかな。



「……ぁ、ぁ」



 口を塞ぐ手が、ブルブルと震えてくる。声を出すな、声を出すな。バレたらヤバイ。

 そうやって理性を保とうとする自分の中に、いうことを聞いてくれない欲望がいる。あの時に耳元で言われた言葉を思い出しながら、あの冷たい声に責め立てられる自分を想像しながら。ぐにぐにと指で自分の乳首を苛めた。



「……ん、ぅ」



 動けば布団の擦れる音で怪しまれる。声を出せば速攻バレる。自分で自分を追い詰めながら、ラズワードの中で快楽は限界に達していた。



「は、ぁ……あっ」



 ビクッと体が弓なりに沿って、視界が暗くなる。びくびくと小さく痙攣を続ける体と、ハアハアと吐息の漏れる唇をどうにかしようと、ラズワードはぎゅ、とシーツを掴む。目を閉じ、快楽の余韻に浸りながらも、なんてことをしたんだろうと自分を苛(さいな)めた。

 自慰をしてしまったこともそうだ。しかも、乳首を弄ってイくなんて、本当に性奴隷に近づいていってしまっている。そして、何よりも。ノワールのことを考えながらやってしまったということが、一番の問題だった。

 確かにノワールは、思っていた人物像とは違っていた。人の苦しみを悦とするほどには腐った性格はしていない。しかし、だからといって、ここまで心を許していい人物ではないはずだ。いや、もはや心を許すとかいうレベルでなくなってきてしまっている。



(こいつは外道だ……許されるべき人間じゃない……!)



 一度イって頭を支配していた変な気分から解放されたというのもあるが、ラズワードは思い直し、体を起こす。つい数分前まで自慰のネタとして使った人を視界に入れるのはなんとなく罪悪感を感じたが、決意を新たにしようとラズワードはノワールを顧みた。



(今日はこいつの言いなりになってたまるか……!)



 布団を放り投げて、ラズワードはノワールを睨みつける。例のごとくの定位置に彼は座っていた。

 ……が。



「……え」



 そこに座っていた彼は。てっきりまた何か作業でもしているのかと思ったが。



「……」



 ……寝ている。

 腕を組み、頭(こうべ)を垂れて。



「……本当に……?」



 あまりにも珍しい光景に、ラズワードはただただ驚いていた。いつも、戦っている時はもちろん、その他の時間も、絶対に隙を見せることはなかった彼である。よっぽど疲れているのだろうか。身体的な疲労は魔術で回復できるから、精神あたりが。

 おそらくもう二度とお目にかかれない光景に、ラズワードは興味津々であった。

 ベッドから静かに降りて、彼にそろそろと近づいていく。下を向いているから寝顔は見えないが、近づいても反応がないところをみると、本当に寝ているようである。




(馬鹿か……)



 そこでラズワードが真っ先に頭に浮かんだのは、ノワールへの罵倒の言葉であった。

 気を許しすぎである。散々虐げた人の目の前で寝るなど、ツメが甘いにも程がある。そう、恨みを買っているとは考えないのだろうか。こうして寝ている隙に殺される、とは考えないのだろうか。

 ラズワードは、ノワールの寝ている姿を見ている内に、沸々と何かが湧いてくるのを感じていた。

 ……今なら、殺せる。この牢は魔術が使えないようになっている。もし、途中で目が覚めたとしても、先に手をだしたこちらのほうが圧倒的に有利だ。

 そう、世界を占める悪の根源を。多くの人を苦しめる組織の頂点を。

 今なら、殺せる。



「……」



 グラリ、と視界が歪むような感覚を覚えた。

 始めの頃の、業務連絡だけの会話。最近になって、他愛のない話を少しするようになった。彼の、本来の笑顔を少しだけみることができるようになってきた。

 目を閉じる。奥歯を噛み締める。



「――っ」



 殺せるのは、今、この瞬間のみ。俺だけだ。



「……あ」



 ラズワードは上げた腕を止めた。

 目が合ったのだ。ノワールと。起きていたのか、今起きたのかは定かではないが。彼はその黒い瞳で、しっかりとラズワードを見ていたのだ。

 今を逃したら、もうない……!

 ラズワードは勢いよく、その首を掴んだ。殺す方法など考えていなかった。
しかし、何も武器のないこの状況。ぱっと浮かんだ方法がこれであった。



「……ひっ」



 しかし、ラズワードはすぐに手を離した。見つめてくるノワールを恐れたのではない。

 その首が、細かったから。

 悪の頂点。世界を占める男。数々の悪名を轟かせる、闇を支配するこのノワールという人。

 その人は、どんな兵器だろうと軍隊だろうと、殺せないとまで言われていた最強の男で。素性を知っている人すら少ないその体は、闇の粒子でできているとかまで言われていた。

 しかし。その人の首は、思ったよりもずっとずっと細く。下手したら片手でへし折れそうなくらいに、細かったのだ。

 普通の人間と、同じように。

 ノワールは何も言わない。ただ、狼狽えるラズワードを見つめている。

 まるでその瞳は。「■してくれないのか」、そう言っているようで。

 

「……っ」



 ラズワードは逆らえなかった。震える唇を噛み締め、恐る恐る手を伸ばし。
 
 もう一度、その首に触れた。



「――」



 少しずつ、力を込める。

 手の震えが止まらない。冷や汗がダラダラと吹き出てくる。

 

「……っ」



 苦しそうな吐息が、ノワールの唇から漏れた。それでもその瞳は、ラズワードのことを見つめ続けている。

 早く、手を離せ……! 本当に死んでしまう……!

 そう頭の中で叫んでも、なぜか手が動かない。

 そうだ、きっと。ノワールが抵抗しようとしないからに違いない。

 なぜ……なぜ、抵抗しない……!?

 見つめるその瞳は、時折首を絞めるラズワードに制止を求めるように睨んでくるが、それならばどうして体で抵抗しようとしない。その手はラズワードの腕を掴んで、時々引き離そうともするが、ノワールの全力はそんな力ではなかったはずだ。

 死を拒む素振りを申し訳程度に見せてはいるが、それは建前で、本心はまるで■されることを望んでいる。

 なぜ……? この人は、■されることを望んでいるとでもいうのか……?

 なんのために?

 

「……っ」



 グラグラとゆがみ始める視界の中、ラズワードは記憶の片隅にある、ノワールとの会話を思い出した。

 自分は醜いから。そういって、ラズワードの手をおそるおそる握ったときの、顔。泣きそうな、その表情。



「……」



 ミシ、と骨が軋む感触が、手に伝わってきた。気管が苦しそうに、びくびくと動いている。

 ラズワードの腕を掴んでいた手が、何かを諦めたようにするりと落ちていく。まだ意識を失ってはいない。自分の意思で離したのだ。

 そして、ラズワードを見つめていた瞳は、閉じられる。

 その顔は。苦しみ、喘いでいるのか。それとも――殺されることを、歓んでいるのか。




「――ふざけんなっ……!!」



 ラズワードは叫び、手を離した。その瞬間、ガクリと体が崩れ落ちてノワールの膝の上にもたれかかった。

 勝手にボロボロと涙が溢れてくる。涙で歪む視界の中、ノワールはゲホゲホと苦しそうに咳をしている。



「ふざけんなよ……!! 抵抗しろよ……!! おまえ、今殺されようとしていたんだぞ……!?」



 ラズワードは口元を抑えるノワールの腕を振り払って胸ぐらを掴み、引き寄せる。苦痛から解放されたばかりのその虚ろげな瞳を無理やり自分のそれと合わさせて、叫んだ。



「そんなに……!! そんなに、おまえは……死にたいのか……!!」



 溢れる涙を鬱陶しいと、そう感じる余裕もないほどに、ラズワードは必死に叫んだ。

 自分でも、わけがわからなかった。



「……っ、」



 白い首に赤黒く跡が残っている。苦しげな吐息が聞こえてくる。
いっぱいいっぱいの表情で見上げるラズワードを、ノワールは静かに見つめた。何を考えているのかわからないその瞳は微かに揺れている。そして一瞬、その瞳が苦しげに歪んだ。



「……ラズワード」

「……!」



 名前を呼ばれた、そう思うと同時に強い衝撃が体を襲った。何が起こったのかもわからずラズワードが目を白黒させていれば、世界が反転する。

 思い切り蹴り飛ばされ、そして押し倒されたのだ。抵抗する隙も与えないその技はノワールだからこそできるもの。ラズワードは押し倒されるその瞬間まで、なにがどうなっているのか理解することもできなかったのだ。



「……ノワー……」



 いきなり何をするんだ、そう抗議しようと思ったその瞬間。眼前に迫ってきた物体に、ラズワードは肝を冷やした。それは眼球まであと数ミリ、といったところで止まる。



「……寝込みを襲うのに絞殺を選ぶとはあまり感心できないな。相手が死に至るまでに時間を要する。自分よりも強い相手にそんなことをして、抵抗されてしまうということは考えなかったのか?」

「……な」

「滅多にこないチャンスだからこそ、慎重にいくべきだ。その状況において確実に相手を仕留められる方法はなにか。絞殺よりも優れた方法は本当にないのか……そんな判断もできないようなら、お前はいずれ……」



 ノワールがラズワードの眼球に突きつけたのはペンであった。そんな本来武器として使えないようなものを突きつけられ、それでもラズワードは命の危険を感じて動くことはできなかった。



「……死ぬぞ」

「――っ」



 本能的な恐怖からだろうか。ラズワードは何も言葉がでてこなかった。ノワールに言いたいことはたくさんあるのに、彼の眼光が今まで見たどの時よりも鋭くて、見えない圧力となってラズワードに襲いかかっているのだ。



「調教が足りなかったか? 調教師に向かってこんな態度をとるなんてな」

「……の、ノワ……」

「……俺が死にたいかって? 馬鹿を言うな、ラズワード」

「な……だ、だって……」



 こんなに感情的になっているノワールは見たことがない。はっきりと言い表すことはできないが、いつもの彼とは明らかに違う。声色もいつもに増して冷たくなっていて、その瞳の闇は深みを増していて。

 まるで本心を隠しているかのような。



「……世界が平和になるときは、くると思うか? 平和の定義を、「世界から悪者がいなくなること」だとして」

「……何……」

「答えはNO。悪者がいなくなるときなんて絶対に来ないからだ。なぜなら本人にその意思がなくとも、全体から見た少数派の者は異端とされ、悪者とされるから」

「……」

「ただし、既に悪者が存在したならば、新たに悪者は生まれない。少数側に回るはずだった人間も、その悪者を避難する多数側に回るからだ」

「……ノワール、様……貴方は……」



 黒い瞳は、何を見ている。



「……もちろん例外はあるだろう。既存の悪とまったく別の、多数側からみて受け入れられない価値観をもつような人がでてくる、とか。……でも、俺はその例外だって許さない」

「……それは、ノワール様、貴方が」

「……俺は絶対的な悪だ。他の誰ものが悪になることだって許さない。世界の頂点、闇を支配するもの……なんとでも呼ぶがいい。その名を背負えるのは俺ただひとり。弱者が背負おうだなど考えれば自滅するのがオチだ」

「……だから……だから、貴方は――」



 ラズワードはノワールを睨みあげた。

 その道理でいけば。おまえは悪を「背負い」、そして他の者にそれを背負わせない、そのために。生きたいのではない。

 死にたくないのでもない。



「――だから俺は……「死ねない」」
 


――そら、みたことか。

 おまえは生きたいのではない。死にたくないのでもない。

 「死ねない」。

 どんな経緯でそんな義務感に囚われるようになったかしらないが、それはおまえの意思ではないということだ。聡いだの最高の頭脳を持っているだの言われているおまえも、そうした言葉の端に自分の本当の望みが表れてしまっていることに気づかないのか。

 馬鹿はおまえだ、ノワール。生きたいと思っている奴は、そんなこと言わない。死にたくないと思っている奴も、そんなこと言わない。

「死ねない」。

 そう言うのは――「死にたい」、そう思っている奴だけだ。



「――っ!!」



 ノワールがビクリと体を揺らす。動揺に、その瞳は揺れていた。

 ラズワードが、ノワールのペンを掴み、自ら眼球に突き刺したのだ。



「……おまえっ……何を……」

「……誰が、「悪」だって? 世界の頂点……闇を支配するもの……まさか、おまえだとは言わないよな? ……こんな……奴隷ひとりが血を流したくらいで動揺するような奴が……全てを背負う……!? 笑わせるなよ、ノワール!!」

「な……」



 ラズワードはペンを引き抜き、投げ捨てる。強烈な痛みに意識が飛びそうだったが、歯を食いしばり、眼前の愚者を睨みつけ、なんとか耐えた。言いようのない怒りと苛立ちが湧いてきて、この馬鹿者に全て言ってやらねば気がすまなかったのだ。



「……だったら、さっき俺が首を絞めた時に抵抗しなかった理由をいってもらおうか……! ……どうせ、死ねない、そう言って自分をごまかしてきたお前は、実際に死を目の前にしてそれが欲しくなったんだろ……!! あんなしょぼい抵抗ばっかりみせて……死ぬわけにはいかないとか思っていたんだろうが、おまえは死にたいって欲望には適わなかったみたいだな!!」

「……っ、」

「弱者はおまえだ、ノワール!! 自分の闇に飲まれて死ぬのは、おまえだ!! 背負った重荷に耐え切れなくて圧死するのは、おまえだ!!」



 ラズワードは起き上がり、呆然とするノワールを弾き飛ばした。いつもの強さなど破片も見当たらなく、ノワールはいとも簡単に突き飛ばされてしまった。ラズワードはそんなノワールの胸ぐらを掴むと、上から怒鳴りつけるように、叫ぶ。



「ノワール、おまえはその責任感から自分で死ねないんだろう、どんなに死にたくても……!!」

「……ラズ、」

「だったら……!! 俺が殺してやるよ……!! おまえのこと、俺が殺してやる!!」



 無事な目から、涙が溢れていた。感情的になって叫んだりしたからかもしれない。ノワールが、いつになく辛そうな顔をしているからかもしれない。

 ペンで貫いた目から、血が流れてくる。ノワールは俯き、その髪で顔を隠した。

 そして、目を覆うように片手を額に当てた。



「……俺は……」



 ノワールがラズワードの手を払う。そしてハ、と息をつくと、立ち上がった。



「俺は死なない……死ぬわけにはいかない……」

「……! おまえ……」

「俺のことをわかったつもりでいるのか……! ラズワード……おまえに、何がわかる……! 俺がどんな思いで今まで生きてきたか……」



 ノワールがジロリと睨む。その瞳は、僅か赤らみ濡れている。



「妄言も甚だしい……! 俺は安安と「死にたい」だなんて口にできる立場じゃないんだよ……!」

「……! そう、言っている時点でおまえは……!」

「黙れ!! 無駄口をたたくな……もう休憩は終わりだ!!」



 ノワールはそう言った瞬間、ラズワードの腹を殴った。いつもなら絶対にやらない。一方的な暴力など、彼は振るおうとしない。

 それほどに、今のノワールはいっぱいいっぱいだ。ラズワードの言葉を否定することで精一杯なのだ。そこまで否定したいほどに、彼の本当の望みは彼の覚悟に相反するものなのだろう。

 倒れ込んだラズワードの胸を踏みつけ、ノワールは見下ろす。忌々しげに、涙に濡れた瞳で。



「……ノワール、さま」



 そんな表情を見たラズワードは、それ以上そんな彼を見ていたくなくて、目を閉じた。

 ノワールが足にグ、と力を込める。その息苦しさに、ラズワードは喘ぐ。目の痛みと、息ができない苦しさと、正体不明の胸の奥の痛みに、ラズワードの意識は遠のいてしまいそうであった。



「ノワール」

「……!」



 そんな殺伐とした空間に、ふと異端の声が響く。ノワールはハッとして弾かれたように振り向いた。



「……ルージュ」

「……失礼。調教の途中だったかもしれないけど、バートラムが呼んでいる。あとは私が引き継ぐから、至急、いってきて」

「……」



 牢の外からノワールを呼んだのは、赤いローブに仮面をつけた少女。彼女を目に映したノワールは、どこか安堵したような表情を浮かべる。それは彼女の存在に対するものか。それとも、ラズワードの調教をしなくてすむことに対するものか。



「……了解」



 ともかくノワールはラズワードからどけると、そのまま振り向きもせずに牢を出ていこうとしてしまった。ガシャ、と牢を開ける音に、ラズワードは痛む体にムチを打って起き上がり、叫ぶ。



「ま……まて……ノワール……!!」



 ノワールは一瞬動きを止めたが、結局最後まで顧みることはなかった。ルージュとすれ違う時に彼が彼女に言った「先に目の治療をしてくれ」という言葉に、無性に腹が立った。ラズワードに聞こえないようにか、小さな声で言ったあたりが特に。

 ルージュがヒールの音を立てながら牢に入ってくる。調教を開始する、彼女はそう言った。その後ろに引き連れた、魔獣と思しき化物。おそらく、それにこれから犯されることになるのだろう。


 でも、そんなこと、どうでもよかった。これから犯されるという恐怖よりももっと違うものが、ラズワードの心を支配していたから――
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