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「な……」



 バサバサと紙束が腕から滑り落ちる。ラズワードは自らの腕から落ちた紙を拾おうとしない主人の代わりにそれを拾おうとしゃがみこんだ。しかし、それは阻まれる。



「ら、ラズワード……それは……」



 わなわなと震えながら問うハルを見て、ラズワードはようやく自分の姿の異常さに気付く。べっとりと真っ赤に染まったシャツ。そう、悪魔の血をラズワードは思い切りかぶっていたのだ。

 そこでラズワードはしまったと僅かに焦る。今着ているシャツは一応借り物だ。それを悪魔の血で穢すなんて、酷い失態である。



「も、申し訳ございません。お借りした服を汚し」

「怪我は!?」

「……え?」



 頭を下げたラズワードの頭上に降り注いだのは、怒声とは違うものであった。恐る恐る顔を上げてみれば、そこには心配そうにラズワードを見つめるハルがいる。



「おまえ、その出血……早く手当てしないと……! どこだ、どこをやられた!?」

「い、いや……これは俺の血ではなく」

「早く部屋にいくぞ! 失血死したら大変だ!」

「で、ですから」



 ハルはシャツに付着する血をラズワード自身のものだと勘違いしているようである。ラズワードの言葉を聞く様子もなく、その手を掴み歩きだした。



「は、ハル様! 待ってください、これは違うんです!」



 誤解を解くべくラズワードが叫ぶと、ようやくハルは振り向いた。ぽかんとラズワードを見つめ、血色の良い顔を見て、やっとラズワードの言葉を聞き入れたようである。



「ほ、本当に怪我はないんだな……?」

「はい、レベルAくらいでしたらそう苦労もなく倒せます」

「……じゃあ、ラズワードは特に大きな傷もなにもなくてすんだんだな……?」

「そ、そうです。それに俺はいざとなったら治癒魔術も使えますから……」



 そこまで言うと、ラズワードはハルの表情が変わっていっていることに気付いた。顔面蒼白といった何かを恐るような表情から気の抜けた安堵の表情へ。



「は、ハル様……?」

「よかった……!!」

「え!? ちょ、ちょっと……」



 突然のことにラズワードは驚いた。ハルは笑ったかと思うと、ラズワードに抱きついたのだ。



「ま、待ってください、ハル様……」

「よかった……本当に、よかった」



 ぎゅうと抱きしめられ、ラズワードは目が回るような錯覚を覚えた。情欲もなにも感じさせない、暖かな抱擁。今までされてきたものとは明らかに違うものであった。一体この抱擁は何を意味するのか。自分の頭では処理をすることのできないこの状況に、ラズワードはパニックに近いものを起こしていた。



「ハル様……だめです……」



 震える声で、彼を拒絶する。そうすればハルは少し離れて不思議そうにラズワードを見つめた。



「だめです、ハル様……離れてください……」

「……え?」



 ラズワードが目を逸らしながらそういうと、ハルはパチクリと目を瞬かせた。そしてやがてその表情は激変していく。顔が一気に赤くなったかと思うとすぐに蒼くなって、そしてあわあわと唇をパクパクさせる。



「ご、ごごごめん!」

「え、いや」

「違うんだ、そんなつもりじゃなくて……」



 自分でも自分の行動が信じられないとでも言うように驚きと焦りの表情を浮かべるハル。ハルのそんな様子に、ラズワードは自分が抱擁を拒絶したことがいけなかったのかと頭の中で言い訳を考えた。



「あ、あの……今、俺にそのようなことをすると、ハル様の御召物が汚れてしまうと思いまして……」

「あ、ああ、そうだよな、うん。そうだ、俺はバカだなぁ!」



 ハルがはははと乾いた笑い声をあげる。



「よし、じゃあラズワードはさっさとその汚れを落としてこい。そしたらもう今日は終わりでいいからな」

「は、はい」




 ハルは目をキョロキョロと落ち着かない様子で動かし、そのままラズワードから背けてしまう。そして、背を向けると自分の部屋に向かって去っていってしまった。

 廊下に残されたラズワードはぽかんと立ち尽くす。ハルに抱きしめられたときの感覚が消えない。

 なぜだろう。それは多分、いつものものと違っていたから。じゃあ、何が違うんだろう。

 ハルが朝に見せた不可解な行動。それが、今の状況に関係しているのだろうか。それならば、理解することは難しい。ずっと、この謎に悩まされ続けなければいけないのだろうか。

 ラズワードは、何故か一気に疲れたような気がして、ため息をついた。



「ラズワードじゃないか」



 ふと、自分を呼ぶ声がする。振り向けば、そこにはエリスがいた。



「エリス様……」

「おい、なんだよその格好……品がないにも程があるぞ」

「……申し訳ありません」



 ラズワードが伏し目がちにそう答えると、エリスが押し黙った。少し間をおいて、エリスは静かに言う。



「さっさと、それ落としてこい」

「……はい」

「そ、それから……それが終わったら俺の部屋に来い。わかったな」

「……!」



 そわそわと落ち着かない様子でエリスが言う。その言葉の意味などすぐにわかる。ラズワードはぼんやりとした頭で簡潔に返事をした。



「わかりました」

「お、おう。それじゃあ」



 エリスは完全に自分を性の対象としてみている。彼が自分に向ける視線は、すべて劣情に揺れている。……ハルとは、まるで真逆だ。

 ……ハルは自分を一体何だと思っているのだろう。ラズワードはぐるぐると考え、その結論がいつまでたってもでてこないことに焦れた。次第にその焦れが苛立ちへとなり変わっていき、脳はそのフラストレーションを解消する術を求めはじめる。



「おい、ラズワード……」



 ああ、手段ならここにある。ラズワードは静かに笑うと、顔あげ、エリスを見上げた。



「エリス様、少し待っていてください。この汚らわしい血を完全に落とさなくては貴方に満足に触れられませんから」

「……!」

「エリス様……今夜は、前回よりもずっと激しくしてください」



 ラズワードが笑えば、エリスは硬直してしまった。

 ああ、簡単だ。こうすれば、全ては解決するのだから。

 ラズワードが浮かべた微笑みは、エリスへの誘惑と同時に、自分への嘲笑の意味も込められていた。

 こうして、考えることが面倒になって楽な所へと逃げてしまう自分への。ほんの僅か、ハルへの後ろめたさを、感じてしまった自分への。
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