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「なんで仮面とローブつけていないんです」

「車運転するのに邪魔でしょ」

「そんな適当な……」



 窓をあけて車を走らせると、車内に風が入り込んでくる。ラズワードはノワールの黒髪がぱさぱさと揺れるのを、ぼんやりと見ていた。

 雨の日に会ったあの時よりも元気になったように一見は見えるが、たぶん、なにも変わっていない。こうしてノワールが自分と一緒にいたがるとき、彼が何を思っているのかラズワードは知っている。どうしようもなく苦しいとき、彼は自分を求めてくる。



「……」



 なんだか、切なくなった。なにかがすれ違っているような気がした。……自分でも、わからない。ノワールが自分を求めることで楽になってくれて、そして自分は彼を楽にしてあげて。情を交えるのはハルへの罪悪感を覚えるから嫌だとは思うが、こうしてただ綺麗な道を一緒に走ることに苦しさを覚える必要はないはずなのに。なにが変なのだろう。



「……ノワール様」

「んー?」

「髪型変えましたか」

「変えてはいないかな……ああ、スタイリング剤新しくしたからかも」

「今日は香水の匂い、いつもよりも強いですね」

「手が滑ってワンプッシュ多くつけちゃったからかな」

「ノワール様がつけている時計、このまえ街でみましたよ。すっごい値段だった」

「お金、ほかに使うところないし」



……なにが、変なのだろう。

 涼しげな表情をしている彼をみて、胸が痛くなる。俺は、こんなにももやもやと貴方のことを考えているのに、なんて思って。この人は、俺のことは自分を救ってくれる存在としてしかみていない――



(……あれ)



 今、何か変なことを考えたな、とひやっとしたところで、車内の空気が変わる。



「あ……」



 外をみれば、海が見えた。海沿いの道路に入ったらしい。潮風が車内に入ってきたのだ。独特の冷たさと、ぬるさ。ちり、と胸のなかでなにかが焦げ付いた。



「海……懐かしいね」

「……あ、」



 夜明けの、海を一緒に見に行った。たしかそれは、ラズワードが施設を出る前日のこと。闇を裂いて朝日が昇って――そんな景色を、一緒に見た。その記憶が脳裏によぎったらしい。ぎゅっと胸をしめつけられる感覚が生まれでて、ラズワードは戸惑った。



「……!」



 車が、突然とめられる。道路の脇にそれて、なぜか車はとめられてしまった。他に車は通らないから邪魔になることもないが……どうしたのだろうとラズワードは不思議そうな顔をしてノワールをみつめる。



「……少し、潮風を感じてみたいなって」

「……え、」



 ノワールはそう言うと、ラズワードの手を掴んだ。びく、とラズワードは震える。する、と指が絡められ……ラズワードの心拍数は急上昇した。



「の、の……ノワール様!?」

「似てるよね……本当に、ラズワードの眼の色。夜明けの空の色に。きらきら綺麗な、深いブルー」



 カチ、と音がする。ノワールがシートベルトを外した音だと気付くと、いよいよラズワードはパニックに陥った。頬に手を滑らされて、ぎょっとしたようにラズワードは身を引く。



「ちょ、ちょっと待って、ノワール様……」

「……嫌?」

「い、嫌にきまっているじゃないですか、俺にはハル様がいるって、」

「……本当に嫌?」

「嫌……ですってば、」



 ず、と詰め寄られて、ラズワードはごつ、と後頭部を窓ガラスにぶつける。否定の言葉が、弱々しく尻すぼみしてしまう。じっと見つめられて、目を逸らしたくなる、顔が熱くなってくる。



「ね、ねえ……ノワール様……だめ」



 ラズワードは片手で軽くノワールを押し返した。しかし、ノワールは全くそんなもの気にしない。更に詰め寄られて、息のかかるほどに距離は近くなる。



「ノワールさま……だめ……」

「……だめならもっと抵抗してよ」

「だめ、だから……」

「……ラズワード」



 ふ、とノワールの唇がラズワードのそれに触れる。ほんの一瞬の口付けだったが、離れたかと思うとまたノワールは唇を重ねてくる。両手で頬を掴まれて、角度を変えながら何度も繰り返されるキスに、ラズワードはふらふらと酸欠になるような感覚を覚える。



「だ、め……」



 くらくらしてくる。鼻孔をくすぐる、いつもの香水の匂い。つけすぎたらしいそれが、体の熱を煽ってゆく。



「……あ、……だめ……」



 新しいスタイリング剤は、微香性のものなのだろうか。いつもと違う香りが彼に混じっている。少し彼が変わったような気がして、とくとくと鼓動が高なってゆく。



「だめ……ノワール、さま……」



 腰を抱かれ、頭を引き寄せられた。そして、唇を舐められる。ぞく、と下腹部から甘い波が這い上がってくるような感覚がして、ラズワードは堪らず体をくねらせる。何度か舐められて、とうとう舌の侵入を許してしまって……後悔した。熱い。咥内を舌で掻き回されて、ずるずるとなかに侵入されていくような心地がする。どこかを舌で触れられるたびに、びく、びく、と身体が跳ねてしまう。



「ん……ふ、……」



 舌を、もっていかれる。気付けばラズワードも舌を伸ばして、ノワールのものと絡めていた。あまりにも気持ちよくて、頭のなかが蕩けてしまいそう。もう、夢中でそのキスの虜になって、彼を求めていた。



「あ……」



 唇を離されると、ラズワードはくたりとノワールに身体をあずける。はーはーと熱い息を吐き、火照った身体を冷まそうとする。ノワールは軽くラズワードの肩を掴んで、そのとろんとした顔をのぞき込むと……囁く。



「そっちいっていい?」

「え……」



 頭がぼんやりとして返事のできないラズワードに、ノワールは静かに微笑みかけた。あ、あの夜の顔……そんな風にラズワードが思っていると、ノワールはラズワードの座っているシートのレバーをひいて、倒してしまう。仰向けに横になる状態にされ、その上にノワールが乗ってきて……そこで、ラズワードはノワールの言葉の意味を悟る。



「の、ノワールさま……」

「10分」

「え、」



 ノワールが腕時計をちらりとみる。



「10分、好きにさせてよ」



 はっ、と顔が熱くなった。ノワールが時計を外し、ダッシュボードに置く。その仕草を見上げ、ラズワードは自らの心拍数がものすごい勢いであがってゆくのを感じた。逆光で影のできた、ノワールの顔。時計だけが光を反射して、それが腕から外されていくことが、これからの行為の始まりを意味している。



「……カーセックスしたことある?」

「な、っ……」

「ないよね。俺も、初めて。今日は時間ないから最後までできないけどね」



 ふ、と微笑んだその顔に、くらりと目眩を覚えた。は、は、と自分のあがっていく息にラズワードは焦りを覚え、さらに呼吸は激しくなって……悪循環。

 ノワールはするすると自らのネクタイを外し、ほどいたそれを持ちながら、ラズワードの手を掴む。



「……結構激しいことしてるじゃん」

「あっ……」



 ラズワードの袖をめくりあげ、現れた手首についた痣をみて、ノワールが笑いながら言う。ハルと、手錠を使ったセックスをしたときについた痣だ。指摘されると恥ずかしくなって、ラズワードは目をそらすがノワールは手を離してくれない。しかも……その手首を頭上にまとめあげ、ネクタイで縛ろうとしている。



「や、やめてください……」

「どうして? 好きでしょ? 虐められるの」

「だめ、なんです……ノワールさまとこういうことしちゃ、だめ……」

「……は、」

「あっ、やだ……」



 ラズワードのささやかな抵抗も虚しく、手首はネクタイで縛り上げられてしまった。きゅ、と手首が締め付けられた瞬間、ぞく、と変な感覚が襲ってきてラズワードはぎゅっと目をとじる。ノワールはそんなラズワードの顔に、手のひらを滑らせた。すうっと指でラズワードの唇を触り、静かな声で言う。



「……こんな顔で抵抗されても、燃えるだけなんだけど」



 ぐ、と太腿を掴まれて、押し上げられる。開脚させられると、ノワールがそのまま覆いかぶさってきた。狭い車内、必然的にラズワードの脚はノワールを抱き込むようなかたちをとってしまう。



「……期待しているような顔して」

「……や、だ……ノワールさま……」

「ネクタイなんてすぐとれるだろ。そんなにきつく縛っていない。嫌なら、とれば?」

「……っ」



 ノワールはふるふると震えるラズワードを至近距離でみつめ、意地悪に微笑んだ。すうっとその黒い瞳が細められただけで、ぞくぞくと身体の芯が熱くなってくる。顔を真っ赤にして潤んだ瞳で見上げてくるラズワードをみて、ノワールは満足気に口角をあげる。



「……興奮してるでしょ。息あがってる」

「……、」

「……俺も、してるよ」



 ノワールは、そうラズワードの耳元で囁いた。びく、とラズワードの身体が跳ねる。甘いその声が脳を犯して、理性を破壊する。

 ノワールの手がラズワードのシャツの中に入り込んできて、胸元を弄った。指先で乳首を弾いて、つまんで、こねて、じりじりとラズワードを責め立てる。



「あっ、あ……あ……」



 もう片方の手は、ラズワードの手と重ねて、指を絡めしっかりと掴んでいる。露出も殆していないのに、全身で繋がっているような。狭い、密着空間がそんな錯覚をさせてしまう。ノワールの体重を受け止めて、そうすれば彼に支配されているような気がして。身じろぎもできない小さなシートの上では、まるで彼に囚われてしまっているよう。



「あ、あ……だめ……あっ……」



 ノワールはラズワードの耳を集中的に唇で責め立てた。自分が開発してやった、ラズワードの性感帯。ここが一番、ラズワードは弱い。それを知っているノワールは、しつこくそこを舐めてやる。耳孔に舌をねじ込んで、みみたぶを唇ではさんで、息を吹きかけて、意地悪な言葉をささやいて。ときおりラズワードの表情を確認すれば、ラズワードはすっかりとろとろと熱に耽っていた。うっとりとしたように目をとろんとさせて宙をぼんやりと見上げ、薄く開いた唇から甘い声をこぼしている。



「のわー、るさま……」

「気持ちいい? ラズワード」

「きもちいいです……あ、あぁ……」

「もっといやらしいことしてあげようか?」

「……う、……のわーるさま……」



 ふ、と笑うノワールを、ラズワードは懇願するように見つめる。頷いてはいけない、でもして欲しい。



「……言えよ」

「……ふ、ぅ」

「俺に犯されたいって、言え」

「あ……」



 さら、とノワールの前髪が目にかかる。黒髪から覗く、闇の瞳。どく、と血の気の引くほどの熱さ。急速に、血流がどくどくと波打ち始める。



「……して、」

「ん?」

「犯して……のわーるさま」



 ノワールが笑った……ような気がしたが、彼はそれ以上動かなかった。ダッシュボードに置いた時計を手にとって、つまらなそうに言う。



「……10分たった」

「……え」



 ノワールがため息をついて自分からのけようとしたものだから……ラズワードは思わず彼の腕を掴んでしまった。ぱちくりと目をまたたかせる彼に、ラズワードは切羽詰まったように言う。



「なんで……」

「時間がない」

「そんな……ノワールさま……酷い、です」



 ラズワードはノワールにしがみついて、半泣きでそんなことを言った。ぐずぐずに熱くなる身体が、ほったらかし。そんな状態で放置されることの不満、そして……



「俺、で遊んでいる……」



 彼の気まぐれに抱かれることへの、辛さ。今のラズワードにあったのは、ハルへの罪悪感とか自分自身のプライドとか、そういったものではなかった。自分でもよくわからない、



「俺、今、ほんとうに抱いて欲しいのに……こんな、中途半端……ここまで煽ったの、ノワール様なのに……」

「……」

「……俺は、いっぱいいっぱいに貴方のこと考えているのに、なんで貴方はすぐに頭を切り替えているんですか……なんで俺と違うんですか、もっと俺のことでいっぱいになってください、俺だけが本気なんて――」



――そこまで言って、ラズワードはバッと自分の口を塞いだ。今、自分はなにかとんでもないことを言わなかったか……そう思ったのだ。ノワールも驚いたような顔をしている。それも当然だ。ノワールがラズワードとのセックスに求めるのは愛情なんかではなくて、苦しみの緩和。そこに想いが伴わないことは、お互いがわかっているはずだった。それが「道具として扱うみたいだ」と言って拒絶したノワールに、それでいいから自分を好きに求めてと言ったのは、ラズワード自身。それを「酷い」と思うなんて……自分のなかで、何かが変わってしまっている、ということ。



「……あの、いまの……忘れてください」



 つ、と冷や汗が頬を伝う。自分を失ってしまいそうだ。感情をコントロールできない。



「……ラズワード」

「……ッ」



 そして、ラズワードはノワールの表情をみて、言葉を失った。どこか、焦ったような顔。余裕を失った、その瞳。車内はずしりと重い空気に包まれる。



「……やっぱり、俺のこと見るの、やめてよ」

「え……?」

「あの約束……なかったことにしていいよ」

「……っ、」



 ノワールが哀しげに言葉を吐いた瞬間、――ラズワードは、ノワールにしがみついた。



「な、なんで……貴方を救えるのは、……俺しかいない、貴方を殺せるのは、俺だけですよ……そんなこと言ったら、誰が貴方を……!」

「だから、いいって。ラズワード、自分を傷つけてまで俺に関わらなくていい」

「き、傷ついてなんか……」

「じゃあ、さっきおまえはなんて言った」



 ぐ、とノワールがラズワードを押し倒す。詰め寄られ、見つめられ、目を離すことができない。



「俺ね、欲しいと思った人には酷くしたくなる。自分の檻のなかに、閉じ込めたくなる。でも……わかるよね、俺の「欲しい」の意味は……おまえのそれとは、違う」

「……それ、ってなんですか。よく、言っている意味が、」

「……わかってない? ……わかってないならわかってないで、別にいいんだけど。でもあんなにはっきり言われたら、傷ついた顔をされたら……俺も躊躇する」

「だ、だから……意味がわからない」



 ノワールの手が、ラズワードの髪を撫でた。さら、と髪を耳にかけてくれる。どくんと跳ねた心臓……これは、ノワールの言う「それ」なんだろうか。



「俺はこれからもっとおまえを傷つけるよ。俺に染まっていくおまえをみて、悦に浸る」

「……あなたに、染まる」

「違う人を愛しているおまえの心を、奪おうとする。俺のことだけを見て欲しいって思う。そしておまえを突き放して、追いかけてくるおまえをみて、笑うだろう。完全におまえを支配したって、そう震えるんだ。俺はね、そういう最低な人間だ。……だから、俺から離れて。あの約束がなかったことになれば、もう俺も……全部諦める」



 ノワールが時計を腕にはめた。そして、ラズワードの手首を拘束していたネクタイをほどくと、手早く身につける。

 運転席に戻ってしまったノワールを、ラズワードはぼんやりと見つめた。まだ、体は熱い。

 ノワールの言っていることの意味がわからない。ノワールの言う、自分の胸のなかにある「それ」とは一体なんのこと。なんで、「それ」があると自分は傷つくというの。……なんで、さっき自分はノワールにぞんざいに扱われて傷ついたの。答えを知ってはいけない。そんな気がして。

 ラズワードは、動き出した車窓の景色をぼんやりと眺めてることしかできなかった。
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