「ねえ、知ってる? 陸ではね、人魚と人間が恋する御伽噺があるんだけど、人魚は人間と同じ場所で生きたいあまり海に棲む魔女と契約して、下半身をヒトにして貰うんだって。しかも声……喉だったかしら? 話せないって対価と引き換えによ。大人になるのも待てないぐらい激しい恋、って言いたいのかもしれないけど、やっぱり人間が造った物語よねェ。何だか最終的には声は取り戻せて、惚れた男とも結ばれるらしいんだけど、泳げはしないの。一生。それって私達にとって、本当に悔いの無い選択に成り得るのかしらね」



【ピカロの追憶】



 友人のそんな雑談に、そうだよね、といった適当な相槌で応じた明くる日。私の尾ひれは海面を目指して翻っていた。

 ヒトに都合の良い話など、掃いて捨てる程存在するに違いない。
 この世に種族は数多生けども、手長族も足長族も巨人族も、言ってしまえばヒトの子等だ。私達人魚や魚人のように、ヒトではない生き物と溶け合わさって生まれる命はやはり少数派なのだろう。

 珍しいから忌まれる。幻想を抱かれる。蒐集と、鑑賞の対象に含まれてしまう。

 もしも世界中の海に人魚が散らばって、其処に居る事が当たり前な程にヒトの視界に馴染んで暮らしていたのなら、私達は幼い頃から繰り返し親に「シャボンディ諸島に近付くな」と言われ続けなかったかもしれない。ヒトと人魚の婚礼譚も、存外有り触れた題材の一つになっていたかもしれない。

 けれども現実は、視えない蓋の被さった海中に魚人島は在る。特に不便も無く、暮らしの質が停滞するでも無く、訪れる沢山のヒトが陸地から目新しい物を持ち込んでくれて刺激に飢える不安も無い。たった一つ、太陽が欠けているだけで。

 父も母も姉も、幼馴染みも、ワカメスープが評判のカフェのオーナーも、口を揃えて「太陽を欲しがっても仕方がないよ」と言う。太陽は空に浮かぶ物で、海の底まで降りて来る事は無いのだからと。陽樹イヴの恵みを授かれるだけで充分だと、誰も彼もが私を宥めた。

 それでも私は、気付けば太陽に憧れていた。見てみたかった。アルバイトをしているカフェで食事をする渡航者が時折語る、"夕焼け"を眺めてみたくて堪らなかった。
 陽樹イヴの根が灯すまばゆさはいつも柔らかさを失わない。変化が無く、それこそが安寧の印だと父は穏やかに笑うが、何時だったか客のヒトが語った"真っ赤に染まる太陽"の話は私の中の何かを強烈に惹き付けた。そのヒトが、とても晴れ晴れとした顔であった事も影響はしただろう。

 そして昨日友人が恐らく何の他意も含まず零した、「大人になる」という一言が私の背を押した。

 歳が三十へ届けば尾ひれは二股に分かれてヒトの脚を模し、歩行が叶うようになる。ただしそれには後、十年。これまで生きた時間の半分、更に待たなければならない。改めてそう考えれば、あと十年間も健気に焦がれてなど居られやしないと思ってしまった。

 水がするりと肌を撫でる。やがて迫り来る海面は、遠目にも赤々と煌めいている様がよく分かった。

 刹那、海を掻き分ける鰭の動きを止めてしまう。

 後ろに流れていた髪が反動で顔の周りへ広がって、揺らいで、けれども薄い真紅の硝子を敷き詰めたような水面の輝きは髪の隙間から私の眼を艶やかに貫く。

 あの話は本当だった。紅い太陽は実在した。そしてきっと、少なくとも今日、魚人島に住まう命の中では私だけが夕焼けを独り占め出来るのだ。

「…………!」

 数拍遅れて湧いた歓喜の情を声に換える暇すら惜しくて、急いで泳ぎを再開する。頬を擽る泡の一つずつが、その輪郭へ仄かな赤を宿している景色でさえ、夢のようだ。

 ────ざぱ、

 「っは、……はぁ…………っ!」

 息が、上がっていた。憶えている限り、泳いだ後で呼吸が乱れているなど初めての事になる。それなりに冷たい海の只中を泳いで来たのに、私の両手はひたすらに温かい。

 瞬きをして、睫毛に居座る水滴を追い払う。
 私を包むのは、私が知らない世界だった。

 赤と橙を滑らかに混ぜ込んだ光が天を総べている。本の中で見た、"雲"という空の為の飾り物が、少しの灰色と優しい紫で着色されて、彼方此方に浮かぶ。
 私の知る限り何よりもあたたかで鮮やかな赤をたっぷり含んだ太陽が、水平線に寄り添っていた。

 呆然と、陶然と。感動と羨望で震える呼吸を整えられもせず、見つめる事しか出来ない。

「────おや」

 どれ位、そうしていただろう。陽は半分以上が海面に溶け消えて、背後から夜が我が物顔でやって来ている。分かっていても動けなかった私の耳を、知らない声が打った。

「キミは…、人魚だな? 娘さん、この辺りはそんな風に身一つで近寄るものじゃあないぞ」

 ざり、と足音が聞こえた右側へ首を回すと、項が鈍い痛みを訴えた。どうやら同じ姿勢の儘、無意識に尾ひれだけを揺らし続けて重心を保っていたらしい。

 近くの岩場へ向き直り、見上げた声の主は、──其処に当人の故意など介在していて欲しくない程の、肌が粟立ちそうな色香を滴らせていた。
 父よりも歳は上であるかも分からない、確と額には皺が認められる男の顔の、それでも何と整った事だろう。潮風が乱す白髪を一筋も余さず夕陽が彩って、此方を見下ろす瞳にもほんの少し灯が射し込む姿は私の両目を逸らさせない。太陽が口を利けたとすれば、「薄情者」とでも言われたのだろうか。

「…うん? 髪が大分乾いてるな? よもやずっと此処に居たのか」

 問われたと理解して、慌てて首を縦に振る。言葉が咄嗟に出て来ない。

「夕陽が好きかね」
「……初めて、見たの」

 空気が喉を通る感覚を意識して、漸く答える。
 眼鏡の向こうで瞬く目を、手入れの施された顎髭を撫でる指の軌跡を追ってしまう。夕陽の鮮烈な光が私の頭の中も焼き払ったかのように、まともに思考が働いている気がしない。この人から視線を剥がせないのだ。

「そうだったか。確かに今日の夕暮れは良かった。だが……ふむ。娘さん、近付くなと注意した舌の根も乾かん内に何だが。明日の今よりも一時間早い時刻に、此処に来れるか?」

 一旦明後日の方向へ逸れた瞳がまた私を捉える。たったそれだけの所作と、酷く落ち着いた声色に、何故だか胸が詰まる。けれども全く嫌ではない。
 そうして、見上げる先で弧を描く唇が、口角の陰影がじわりと色気を宿す。

「キミの親御さんには、知られたら私が大分怒られるだろうが……そんなにも我々人間が暮らす陸での景色を気に入ってくれたのかと一目で判る表情を見せてくれた礼、だな。特別良い物を見せてやりたいと思えてね。良ければ、私が知る夕陽の美しい場所へ案内しよう。あァ、勿論、不埒な輩がキミに目を付ける事の無いよう気を配らせてくれ」

 明日。また夕焼けが見られる。
 もう一度この人に逢える?
 心臓が煩い、大人しくして欲しい。
 答えなければ。言葉を集めて、組み立てて、早く。向かい合う瞳の中に夕陽と、私が居られるその内に。


 ああ、もしも今の私が二本の脚を持っていたなら、


 

2018.08.25
企画サイト「ships bell」さま提出
 
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