<2016年発行「再生する春」文庫本:特定のセット品の購入特典>



 ふと緩やかな覚醒を伴って機能し始めた聴覚を、"痛い"とさえ錯覚しそうな程の静寂が刺した。

 ある意味可笑しな表現ではあるが、木々も堪らず縮こまっていそうな寒気。今朝降り立ったこの地は冬島の例に漏れず空に厚い鈍色の雲が常々居座り、道路は溶けた雪の水捌けを良くする為に態と隆起させた造りになっていて、けれども絶えず降雪に見舞われる訳ではない比較的過ごし易い島だ。ただしあくまで冬島のカテゴリーの中では、と注釈は付く。

 寒さに悩む土地は暖かさを求める意欲が当然強く、此処では特に建物の外壁と暖炉の改良に尽力しているようだった。
 煉瓦を緻密に積み上げ、組み立て、僅かな隙間も余所から輸入した粘土と樹脂で塞がれた防寒対策の家具は良く出来ていて、屋内に入ってしまえば隙間風とは無縁なばかりかきちんと暖かさをも得られる。
 暖炉の火は薪と炭をめらめらと舐めては熱を生み出し、ホテルのロビーであるこの一室を程良く温めて、何時しか暖炉前のソファーへ座る俺を転た寝に誘っていた。

「………ヤバい…」
「そうだな」

 賞金首が公共の場で居眠りするなど、かなりの間抜けか余程の実力者である。「円」も発動していなかった俺は前者でしかない。「纏」は維持しているので敵意や害意、つまりは悪感情を伴って近付く輩が居れば流石に起きただろうとは言えども、幾らなんでも危機感に欠け過ぎだ。

 そんな反省から自らへの呆れを込めて零した独り言の呟きだったのに、隣から一言相槌が返ってきて其方を向く。帽子の下から覗くライトグレーの瞳は手元の新聞を眺めていたものの、俺が視線を寄越してから一秒経たずに此方側へと焦点を合わせて来た。

 ああ、そりゃ眠るだろうなと内心で自分の弛んだ意識にも納得する。

「年頃の女の方がもう少し警戒心は強いぞ。気を付けろ」
「いやあ、我等が船長が隣に居たら寝こけるよ…。最上の防犯と敵襲対策要素を兼ね備えた状態じゃん、今の俺」
「甘えん坊かお前は」

 真下を向くようにして寝ていたらしく、首の後ろから腰に掛けて少しばかり凝った感覚が在る。
 筋を伸ばそうと座った儘で背凭れに後頭部を押し付けながら思いきり上体を反らしてそう言うと、斜め上を向く俺の額に束ねられた四本の指が降ってきた。ぺし、と何処か間の抜けた音が鳴る辺り、力は全く込められていない。確かに甘えきった発言だが。

 静けさの中へ声を溶かしてみても、やはり空気の端が軋んでいるかのような違和感は消えない。けれどもその引っ掛かりは決して不快になるものではなく、また初めて体感するものでもなくて、まるで思考よりも直感が答えを知っているかのように気付けば自然と目線は窓の方向を向いていた。屋内外の気温差が故に、窓硝子は厚く曇っている。

「さっきから雪が降ってる」
「……ああ。それでか、こんなにしんとしてるの」

 違和感の正体は雪の気配だった。雨と異なり粒のそれぞれが地にぶつかる音など生まれないのに、降れば不思議と肌を撫でる空気が独特の硬さを持つのだ。
 雪が降るという光景自体はどちらかと言うと好きな部類に入りはするものの、喜んで窓に張り付いたり寒空の下へ繰り出してまで眺めたい程では無い。暖かな室内から望むだけなら綺麗でも、その只中に身を置くと四方八方から細かな雪を顔に浴びる事になって案外景色に感嘆する心地ではなくなる。

「シチュー食べたい…」
「昨日食ったばかりだろ」
「昨日はビーフシチューだったから、今日はホワイトシチューで。寒いと食べたくならない?」

 個人的に、寒さの厳しい日には妙に恋しくなる一品だ。大きめに切られた具材がごろごろと入っていると贅沢感もあり、とろみのついた熱さが喉を通り腹へ落ちる時の感覚が何とも言えない。
 コーンや南瓜、ブロッコリーなどを足すだけで全体の味も顔を変えてくれるので、元居た世界での冬場は週に二度は作っていた気がする。つまりは好物の一つだ。ホワイトシチューに関しては主役に据える具が鶏も良し、鮭も良し、茸類をどっさり入れても良し、ウインナーも合う。最早万能である。

 俺の問い掛けにローはほんの僅かに眉の片方を上げて見せ、もしも今居る場所が外であれば口元に薄らと白い靄が舞っただろうと思える程度には分かり易く浅い吐息を洩らしながら唇の端をも上向けた。

「一部の言動は大分海賊らしくなってきたな。遠回しに船長へ奢れと言ってんのか」
「えっ。……あ、」

 唐突に予想外の返しを貰い、そんなつもりでは無かったという感想が先に来て、次に思い出す。
 ハートの海賊団が宿泊先に選んだこの宿は島内一の敷地面積ではあるのだが、島自体がそう広くは無いので、余所の栄えている島と比較してしまえば世辞にも豪華だとは言いにくい。トイレは部屋毎に設置されている訳ではなく一階へ共同用として男女別に拵えられ、食事の為の食堂も十五人ほどが入れば満席になるであろう広さ。シャボンディやウォーターセブンに在ったホテルのように、部屋に簡易キッチンが備え付けられているなどという事も無い。

 それ故ログが溜まるまでの食事は宿の食堂で注文するか外へ出向くかの二択になる訳だが、これまたやはり大きくない島の特徴として、海賊と接する事に慣れている人間が少ない。
 人の往来が盛んな発展した島、娯楽や観光資源が確立されており海賊さえも客になる島は住人側もこなれたものだが、自分達の暮らしを維持しながら工夫と助け合いで以て過ごしている──謂わば良き田舎といった島では最早よくある反応だ。

 勿論此方も人間なので、怯えながら接客されては嬉しさやリラックスを得られはしない。相手のそうした態度を肴にしたがる捻くれた性格のクルーも居ない。結論として、全日程で食事は街中の料理屋で済ませようという話が初日の昼時点で纏まっていた。

 そんな下地が敷かれた中での俺の発言は確かに強請りともとれるかもしれないが、生憎と俺は自船の船長へ無邪気に夕食を強請れるような甘え上手のスキルを所持していない。寧ろ何時もお世話になっていますとサプライズで高級店の個室を予約して連れて行きたい派だ。
 今やそんな事は承知だろうにこういった言い様を持ち出すローは、俺より余程甘やかし上手だと思う。

「まあ、その土地の気候に合った料理なら基本的にハズレはねェからな…。現地の味から何かしら吸収しろよ」
「栄養の吸収で終わるのアリですか」
「あァ、無理強いはしねェよ。何か掴めるまで毎晩シチュー奢ってやる」
「あっ栄養以外の吸収頑張ります、超頑張ります」
「何だ、遠慮するな。寒いと食いてェんだろ。今しがた自分で言ってた事じゃねェか」

 但し明らかに目許は笑いながらスパルタを課してくる事にも定評のある我等が船長なので、冬島で無くとも俺の気は度々引き締めて貰っている。
 

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