「ちょっと待つだすやん、ロー! おれ達に手を出せばいよいよお前は裏切り者! 今ならまだ脱走だけ────はが、へぁうあ、ァ……ッェホ、グ、ゲホッ!?」

 よくぞその巨体を支えていられるものだと感心する、妙に細い足をばたつかせて脅しにもならない言葉を並べ始めたバッファローの面持ちは、早々に混乱の色で染まった。

 仮にも眼前で得体の知れない何かを自分に吸わせようかという会話が交わされたというのに口を開く、その不用心さに呆れる。
 舌の動きを鈍らされたであろうバッファローの言葉は途中から明らかに呂律が回らなくなり、驚いた拍子に一層粉を吸い込んだか盛大に噎せた。顔面の大きさに見合う唾が飛んで来そうで思わず何歩か退がる。

 先程も、ハートの席がどうだとか言っていた。俺がドンキホーテファミリーの離脱を、面と向かってドフラミンゴへ宣言していないから今も籍は在るとでも言うのか。
 そう聞かされているとしたらそれはドフラミンゴの嘘だ。オペオペの実の能力者である俺を飼い慣らせないのなら、殺害し、世界の何処かに再び現れる実を探す方が話は簡単になる。

 だが悪魔の実はそれを食べた対象が命を落とせば果実の形で復活するとは言え、出現場所も時期も予測は出来ない。俺を支配出来るならそうした方が勿論手っ取り早いが、ドフラミンゴの為に能力を使う気が微塵も無い事は、今回の『SAD』破壊でより明確に伝わった筈だ。

 そしてヴェルゴも言動からして、心臓を利用して俺をドレスローザへ連行する意思は無かった。己の力を過信するが故に人を悠長に甚振り、その慢心がスモーカーの参戦を許した事で敗北したが、武装色の覇気を纏った手で心臓を握り潰されでもしたら俺はあそこで死んでいた。

 結果として俺は生き残り、ヴェルゴは倒れ、シーザーは此方の捕虜になっている。
 ドフラミンゴの想像図とは違う状況ではあろうが、それでも俺が"未だに裏切り者でない"という事は有り得ない。そもそもの、互いの"裏切り"の定義が違えども。

「アルト、ソイツの髪を首より上に纏めろ」
「え、纏め……こう?」

 鞘を掴む五指の内の一本を伸ばしてベビーファイブを示すと、アルトは腰を屈めて眼下の髪型を確認するように顔を傾けてから隣へ移動し、両手をベビーファイブの項へと差し込んで長い黒髪を掬い上げた。併せて細い首がかくりと前に傾ぐが、凍った睫毛の寄り添う瞼が開く兆しはない。

「動くなよ」

 逆手に握った柄を真上に引いて手首を返し、その儘露わになった切っ先のみで斜めに宙を薙ぐ。飛来する斬撃は前方の首を刎ね、抱える重量が途端に増しただろうアルトがぎょっとした表情で手元を見下ろす相変わらずの反応をした後、稀代の極悪人でも見るかのような面持ちを此方に向けてきた。

「何つう顔してんだ」
「いやいやいやコレどうすりゃ良いの、女の人の髪を鷲掴みにするのは気が引けるけど首だって鷲掴みには出来ないじゃん。確かに髪ごとバッサリいくのは可哀想だけど…」
「左右から頭を持てば良いだろ」
「スイカじゃないんだから」

 文句は言うが、鬼哭の鞘を渡せばベビーファイブの顎を前腕に乗せるよう脇に抱えて片手を空けるアルトは予想したよりは騒がない。生首が喋らず、その顔を自発的に見なくても良い点が大きそうだ。

 痺れている感覚が不快なのか口をもごもごと動かしているバッファローの、まるで珊瑚のように特徴的な生え方をした髪の束を自由になった手で一つ掴んで動きを制限させつつ、服の襟と顎の境へ刃を滑らせて同様に頭部を斬り落とす。
 ずん、と重量が肩にかかった。身長が二メートルに満たない人間であれば頭部の重さはせいぜい五から七キロ程度だろうが、体躯も骨格も常人の倍以上ありそうな巨漢のバッファローのパーツはそんな平均値に収まりやしない。

「チッ。重てェ」
「じゃあ俺の持ってるこっちの首と交換しよ」
「いや、いい」
「何で!」

 現出しているサークルの範囲を、タンカーを飲み込むまで更に拡大させる。膨れる膜の端に宴会中の幾人かが触れ、近くに居る面子がこぞって振り向くも、自分達が何かされる訳ではなさそうだと分かると直ぐに食事に戻った。

 "王下七武海"は政府直轄の立場ではあるものの、政府や軍が"七武海"加盟者とその部下を守る義務はない。海賊が海賊に何をしようが、当然ながら周りから制止の声など上がらないのだ。

「"シャンブルズ"」

 俺もアルトも両手が塞がっている為、隣の腰へ腕を回してタンカー甲板に移動する。人が居なくなった状態で改めて見回せば目的の物は直ぐに見つけられた。

「備品庫の場所は覚えてるか」
「備品……。ああ、階段一つ降りた階にあった」
「ウチの船で使った事はねェが、発煙浮信号の存在は前に教えたな?」
「海軍が海賊誘き寄せる手段として、遭難船を装う時にも使われるアイテムだよね。シャチが大きな葉巻みたいな奴だって言ってたのは覚えてる」
「あァ、見た目は近い。筒の先端には導火線が着いてねェのが特徴か。遭難用に予め一式揃ってる物がある筈だ。そのセットとマッチ、あと適当な鎖を二本持って海側の梯子の下に来い。ただし鎖の片方は一番太い奴を選べ。これだけデカい船なら、恐らく荷物の固定用だとかで用意はある。首はその辺に置いて良い」
「分かった。鞘返すね」

 伝えた物の名を小さな声で繰り返し呟きながら床にベビーファイブの首を置いたアルトが近くの壁面に鞘を立てかけ、小走りでタンカー内に入ってゆく。
 俺も手を離さなくとも髭が床板と接しているバッファローの頭部を端へ転がし、甲板の壁に取り付けられた扉付きの棚に向かう。

 目立つ赤いペンキで塗られた、三辺の合計が四十センチ程度の金属の扉は、緊急事態に必要とされる鍵や操作盤の収納庫である事が多い。
 潮風に晒されて剥げや錆も見られる取っ手を手前に引くと、金庫専用らしき妙な形状の鍵がぶら下がるフックの隣に『LIFE BOAT』と描かれたプレート、その下に同じく赤で塗装されたボタンがあった。

 滅多に触れないが故に新品のような表面を親指で強く押し込む。床板の下から一度ガコン、と鈍い音が響いたと同時に僅かな振動が靴裏から伝わり、タンカーの海に面する側から微かな金属音が聞こえてきた。
 縁に歩み寄って下を見遣れば、船体側壁の一部が内部から四角く押し出され、中と鎖で繋がれた上部だけがゆっくり倒れてゆく様子が映る。キリキリと鳴く高い音は鎖が擦れる所為だった。

 鬼哭の刀身は仕舞わず甲板の手すりに乗り上がり、真下で跳ね橋状に倒れた壁の上へ飛び降りる。
 船内の地下格納庫だろう内部には、直ぐにも出航出来るよう既に組み立てられて帆を張った救命ヨットが座していた。中央のマストが室内四隅の柱とロープで結ばれている。標準的な体格の人間であれば最低でも六十人は余裕を持って乗れそうな、かなりの大型ヨットだ。

 近寄りながら再び数回手首を動かし、それぞれのロープを直接切断する。流石に僅かな作業にまで能力を使っていては体力の無駄遣いだ。

「…………」

 最後にマストへと括られたロープの結び目を解く。ヨットの中央に来て漸く、ジョリーロジャーが描かれた帆の全体が見えなくなった。

 このジョリーロジャーをまともに見たのは果たしていつ以来の事だろうか。ドレスローザで何か催しがあればドフラミンゴの顔が新聞に載る事もしばしばあったが、露悪を売りにしている新聞社でもない限り、現状の治世に問題が無いとされている国王の記事に海賊旗を態々添えはしない。

 帆の更に上の、小さな三角旗だけでも切り裂いてやろうかという思考がむくりと頭を擡げる。

 ──ゴッ、ゴッ、ゴッ、

「ッ、…………ああ、クソ」

 直後、ブーツの硬い靴底が梯子を叩く物音で鬼哭を握る右手に知らず力が入る。
 次に柄の硬さがはっきりと伝わるその感触を自覚して、口端が歪んだ。

 癇癪を起こす子供じみた姿をアルトに見せられやしない。俺が少しでも仇討ちと自分の命とが乗る天秤を傾ける素振りを見せたら、自信過剰でなく、あいつは俺とドフラミンゴの間に割り込むのだろうから。
 



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