手元の紙に直線と丸バツだけで描かれた簡単な図と、眼下に造られた床穴の中を見比べる。昨日までは海楼石の物が在った場所にただの鎖が置かれた事を確認して床下収納庫の扉を閉めた。

 このローを脅かしかねない隠しアイテムを見つけて以降、ローの頼みで少しずつ中身をすり替え続け、早一ヶ月が経とうとしている。
 周囲の床にはもう埃のカーペットは無い。廊下で囚人達の横を通る際、物置がこれだけ汚い状態をシーザーが見たら何と思うか、という会話をローと交わしてみた次の日には綺麗に掃除がされていた。彼等にしてみれば"マスター"は何処までも尊敬してやまない恩人らしい。

 危険物が無いからか基本的に鍵は開いており、足跡が残る懸念も払拭されたこの場で鎖のすり替えを行うのは、俺には何の苦労も無い作業だった。悪魔の実など食べていないのだから、海楼石に触れたところで不調のふの字にも見舞われやしない。

 今日までにおよそ半数を交換し、且つ庫内へ残す海楼石製の品の内二本だけは一部の輪を半壊させておいた。これでは拘束具の役割を果たすには不安だし、もしもの時ローに触れるのは単なる普通の鎖である確率が少し上がる筈だ。

「…よい、しょっ」

 パキ、と小さな音が鳴る。親指と人差し指の間に挟んだ部分に亀裂が走った。

 念には念をという事で、素材を問わず幾つかの鎖にはいざとなったら力技で引き千切られる細工を施すのも忘れない。
 実際この穴の中の鎖を使う必要に迫られた時、まさか能力者のシーザーやモネが態々自分で取り出す事はしないだろう。仮にやろうとしても信者と化した囚人達に止められそうである。

 作業工程が一目で判るように、紙面に描かれたバツの外側を丸で囲む。今後新たに海楼石の錠が補充される可能性もある為定期的なチェックは欠かせないが、今日で工作は一段落した。

 麻酔要らずで流血もさせずに生き物を切断出来る能力を買われ、ローは午前中から実験に使う動物の解体を請われてシーザーの元へ出向いている。
 木刀を預かって貰っているので久々に手ぶらでランニングしようと物置小屋を後にし、正面玄関を出て頭皮まで冷やすような寒風に思わず目を細めたところで、吹雪の膜の向こうで動く人影に気付いた。

「…あ! アルトさんだ!」
「良かった! 能力者が居てくれりゃ百人力だ、ありがとうございます!」

 何の礼だ、と首を傾げる。後方を指すような仕種と共に駆け寄って来た半身が馬のケンタウロス達の台詞の意味が汲み取れない。
 けれども息を切らす彼等から緊迫と安堵が混在した瞳を揃って向けられれば、何か良くない出来事が発生した事ぐらいは伝わった。

「どうしました。俺、ただ日課のランニングで出て来たんだけど」
「え!? じゃあ通信が入れ違いに…、いや、とにかく緊急なんです! 一体どうやって潜り込んだのか、氷の土地にローさんの奴みてェな刀持った大男の侵入者が現れて、巡回してた仲間が次々やられちまって…! 助太刀してください!」
「俺達は現場まで案内しようと思って先に戻ってきたんっすよ! 背中乗りますか!?」
「あー…いや、鞍も鐙も手綱も無しに乗ってられる自信ないんで気持ちだけ貰います。方角は?」
「こっちからだと……北西です! 多分直線で一キロはあります」

 部屋でストレッチはしてきたが、身体はまだ然程温まっていない。出来れば万全のコンディションで臨んでみたかったものの、そうは言っていられない状況だ。不慮の戦闘に見舞われた場合の模擬訓練と思って動けば良い経験にはなる。
 相手が刀を扱うのに俺は今日に限って木刀を携えていない点が少し悔やまれるが、これも攻撃回避の修業だと思って気を引き締めるしかない。ローの指導を受けているお蔭で多少は相手の動作から太刀筋が読めるようにもなった。

「怪我人は出てます?」
「はい、かなり…」
「じゃあ俺は血の匂い辿って加勢に向かうんで、貴方がたは医療班を連れて竜ゾリで来てください。馬の脚を負傷してる人が居たら、自力で帰るにも肩を貸すにも大変だし」
「了解しました!」

 施設で管理と飼育をしている小型のドラゴンは、しっかり鎮静剤を投与しておけば比較的言う事を聞く。大型の荷物を運ぶだけの力もあるので、接合手術により総重量が百キロ近くなっている馬のケンタウロスも数人までなら纏めて乗せられる筈だ。

 横を通って研究所内に入った蹄の音が背後で遠ざかってゆく中、オーラを普段よりも多く両脚へ振り分けてから最初に右足の靴底で地を蹴りつける。

 駆け出した途端に自然と身体にぶつかる風が勢いを増し、十秒も経たない内に露出している肌がみるみる冷えて、頬と鼻の頭にひりひりと痛みが滲み出した。時折細かな雪の粒が目に入り込むのも煩わしい。
 体感で五百メートルは走っただろうかと思える頃から、顔周りを覆うオーラの量も少し増やす。耳元で唸る風はどうしようもないが声を拾いにくい。

 ────そうして不意の、違和感。金属に似てしかし同じでない、血液が放つ独特の匂いが鼻腔へ滑り込んで直ぐに消えた。

「チクショーッ、何だよこいつ、この……ッギャアア!?」
「だ、駄目だ、銃が当たらねェ!」

 霞む景色の奥で、今や見慣れた馬の四肢が逃げ惑う。
 怒声、悲鳴、打撃音、銃声が混ざり合う騒がしい空間へと目を凝らしつつ走り寄れば、人より頭三つか四つ分は背の高い男性が、牛の体躯を持つ男を斬り伏せるところだった。

 手前の位置で気絶している負傷兵の胴に乗っていたライフル銃を走り抜けざまに拾い上げ、試しに防御の薄い男性の脇を狙って水平に投げ付ける。
 しかしそれなりの速度で飛来した筈のそれは、見聞色の覇気か個人の才か、男性が此方に視線をくれる事なく下から振り上げた刃で叩っ斬られて、木片と鉄屑に早変わりしてしまった。

「あれ。鉄も斬れるんですか、参ったな…」
「何奴か!」
「此方の台詞です。が、先ずは一旦刀を収めてください。貴方に暴れられると俺の船長の仕事が増えかねないんですよ」

 其処ら中で地に横たわる男達から流れ出す鮮血が、衣服を染めるに留まらず白銀の雪をも色付かせている。死者は出ていないようだが軽傷で済んでいる者が居るようにも見えない。
 手首や脇をやられて武器が持てない者、或いは背中や胸を斬られて動くに動けない者ばかりだ。一度に何人もの怪我人が運び込まれれば外科医のローも治療に引っ張り出される事だろう。

「貴様がこの面妖な妖怪共の頭領か!? 拙者の行く手を阻まんとするならば貴様も斬る! 道を開けられよ!」
「妖……モンスターって意味ですっけ、結構言いますね。頭領ではありませんが、貴方が武器を下ろしてくれないのなら俺も口より拳を出すしかなくなります。もう一度言います、その刀を鞘へ仕舞ってください」

 最初から他人の放った言葉を一句たりとも耳に入れる気はないのか、何やら興奮した様子の男性が切っ先を俺の眉間辺りへ突き付けて捲し立てる。
 失神させてしまえれば楽だからと飛び道具で片をつけようとしたのは失策だったかもしれない。確かに無言で銃器を投げてくる相手には警戒して当然だ。

 出来れば、足元に体躯の大柄なケンタウロス達が点々と倒れている此処で一戦交えたくはない。念のエネルギーで覆った足で一般人を踏もうものなら下手をすれば骨折では済まないのだ。
 故にせめてもの意思表示として両手を肩の高さまで挙げ、けれども体内で練り上げたオーラを精孔から放出して「練」を行う。

 決して友好的でない"念"を混ぜたオーラを真っ向から浴びた男性は鼻の頭にまで皺が寄る程に表情を歪め、左足だけを一歩引くと尚も俺を睨みつけた。

 



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