「……っハァア!?」

 目覚めてからこれまでで一番大きな声が出た。

 紙面のおよそ半分を占める、人相がはっきりと判る顔写真。
 名前、数字、ジェニーではないが何かしらの貨幣を表すものであろうマークに、『DEAD OR ALIVE』の一文。海軍の事だろうか、右下には『MARIN』と書かれたロゴ。

 どう見ても指名手配書だ。俺と青年、トラファルガー・ローの手配書を何度か交互に見下ろし、説明を求めてローを見つめる。
「悪いがその手配書が発行、配布されるに至った経緯の説明は省く。お前が海賊で、その首に懸賞金が懸かっているのは事実だ。そしてこの事実がお前が記憶を失った原因の一端でもある。俺にも責任は在るがな」
「ブラックリストハンターに狙われた、って事?」
「……いや、成り上がりてェ三流の同業者が吹っかけてきた。お前、確か"能力者"については知ってるんだったな?」

 自分がハンターとは言えど、多種多様な在り方が認められる職なだけに余所の畑は詳しくない。俺も含めてハンターは己の趣味や好みを突き詰めたがる人間も割と多い印象が拭えないが故に種類を把握しきれない、というのもある。
 ストーンハンターやUMAハンター、古文書ハンターなどは特に自らの好奇心や知識欲に忠実なイメージが強い。
 一方で難病ハンター、ポイズンハンター、テロリストハンターなどは他人の為にこそ尽力しようと活躍する者が多い。

 ブラックリストハンターもある意味世の為人の為になる生業かもしれないが、嫌な言い方をしてしまえば、正直ライセンスを手に入れた時点で勝ち組なのだ。それでも武術を磨き、敢えて賞金首を標的に定める彼等は、謂わば戦闘に特化した技能の持ち主である。
 もしそんな相手に狙われているなら堪ったものではないので、違うと知れて一安心だ。

 ただ次の問いには、ほんの一瞬反応に迷い、結局小さく頷いた。
 ローの口振りからして、何より彼の戦い方を思い返せば念に目覚めている事は明らかだ。秘匿する意味が無い。
 鍛錬を詰めばこの人と同じ位置まで昇れるのかと憧れをも抱きそうな程、体表を覆うオーラの姿が一般人と変わらない。こうも「纏」を自然に抑え込めたなら奇襲するにも先手を打つにも有利だろう。

「相手が他人の記憶を抜き取る能力者だった。向こうは俺のものを抜くつもりで技を仕掛けてきたが、其処をお前に庇われた。言い換えりゃお前の現状を招いたのは俺だ、……責任は勿論取る」
「取るって、」

 初めから代わりに攻撃を喰らうつもりで居たにせよ、防御しようとして失敗した結果にせよ、庇ったのは俺の自己責任ではないのだろうか。
 そう自責を負わなくとも、と思わず口を開くが、ローは緩やかに首を横へ振る仕種で俺の発言を途切れさせる。

「此処にある通り、俺もお尋ね者でな。向こうは俺とお前、二人の首を獲る……か、或いは傘下にでもしてェんだろう、交渉の場を設けてきた。明日の夜に取引が在る。こっちの材料は俺とお前の身柄、あっちの材料はお前の記憶だ」

 最後の言葉を耳に入れた瞬間、にわかに興奮が湧いた。記憶を抜き取る、という表現から一方的に奪取されてしまったとばかり思ったのだが、まさか復元可能なのだろうか。

「えっ、俺の記憶まだ無事……って言うか、存在してるの!?」
「ああ。向こうが今後それを盾にして俺達を良い様に扱いてェなら、少なくとも交渉の開始時点まではお前から抜かれた記憶がどうこうされる心配は殆ど無い筈だ。お前はともかく、俺を脅す為の貴重な道具を雑に手放すとは考えにくい。単純な戦闘力で言や確実に俺とお前の方が敵連中より上だしな……。交渉すると見せかけて奇襲すりゃ、取り戻すのも別に苦労はしねェだろう。借りは必ずお前に返す」
「うわ、良かった嬉しい……、……あ……」

 はっきりとした語調で思考を述べるローの姿に、今更不信感は芽生えない。記憶を抜く念能力そのものは初めて耳にしたし厄介だが、他でもないローが発動の光景を間近で見ているのだから対策の立てようもある。
 どんな相手でも発動が成功してしまえば確実に隙を誘えるなどという能力だ。リスクや手順の複雑さも並の「発」の比ではないと予想出来る。

 しかしそうして上向きかけた気分も、ローの発した戦闘という単語で今一度凍りつく。
 俺は、目の前の男と、ほんの数十分前に戦っていた。しかも此方は必死でだ。

「何だ」
「さっき、俺……思いっきり、ロー……さんの事蹴ったり殴ろうとしたり……あの、ご、ごめんなさい……。今更だけど……」

 俺がこの人を呼び捨てにしてしまうのは何かが違う気がして、敬称を付ける。

「別に怪我もねェから気にするな。気ィ失って目が覚めた所に武器持った野郎が居りゃ、咄嗟に身を守ろうとしても可笑しな事じゃねェよ……特にお前はな。断片的にだがお前の過去はお前から聞いてる。つうか、此処は浅い仲でもねェお前に対して言葉より力に物言わせようとした俺を責める場面じゃねェのか」
「いや、ローさんの方は仕方なかったんだろうなって納得出来るし……。そういう事情で自分の事忘れてる奴が襲ってきたら、俺もきっと力で対抗しちゃいそうだから」
「………、お前の格闘能力と、痺れ粉を出す能力は、今日までに暴力沙汰や事件に巻き込まれる中で共闘した時に見て知っている。疲労回復、怪我の治癒の能力についても目で見たり体感したりで確認している。戦闘の場において遠慮はしなくて良い」

 さらりと零された吐露に、行き交う会話がふつりと途切れる。

 まさか、三種類全てを明かしているとは思わなかった。
 身内とさえ呼んで貰える程に俺とローの距離が近かったのなら自然な事なのだろうか。自らの手札を晒すハンターなど先ず居ないが、ローが言うには俺は海賊との事だ。価値観が様変わりする、しても良いと思えるだけの日々を過ごしたのかもしれない。

 何より俺が、それ程までにローを信頼していたのかもしれない。

 紙の中のトラファルガー・ローは大層悪どい表情をしている。顔立ちが随分と整っているので不思議と品が無い訳ではないのだが、妙に気圧されるものを与える写真だ。

 それに比べて今実際に目の前に居るローは幾分尖りの失せた眼差しで此方を見ている。唇が引き結ばれていて表情こそ無愛想だが、雰囲気に棘はない。
 手配書に記載された名前を見て、この人が日誌の『Law』なのだと知れる。
 その上で話を聞いて、聞きながら光景を想像して、日誌の内容を思い返して。つい、笑ってしまった。

 俺は決して生粋のお人好しではない。どうにも女性は庇ったり護ったりする対象に見てしまいがちではあるし、大概の動物は基本的に無条件で好きだと思う。
 ただ、それだけだ。

 人の為ではなく自分の為にハンターを志し、自分の好奇心と知識欲や満足感を満たしてくれそうな美食ハンターの職に就き、先輩や同期と持ちつ持たれつで仕事をしながらもなるべく後ろめたくならない任務を選んで、極力汚いものを見ないようにしてきた、何処にでも居そうな性格をしている。
 お互いが嫌な思いをしない為に仕事相手に愛想良くしたり、時にはある程度の厚意で手を貸す事はあるものの、誰にでも優しくする程にお綺麗な人間ではない。
 親しい間柄の人には試作品の味見も兼ねて進んで手料理を振る舞いはするが、店を開く程の情熱は無い。

 その俺が、ローや彼の周りの人々には進んで料理の腕を振るっていたのだろう事が日誌の文面からは窺えた。
 食事を誰かと共有した時の楽しさだとか美味い物を食べた時に自然と出る笑顔だとか、料理が持つそういった明るい側面に惹かれたのも美食ハンターを目指した理由ではある。
 それでも今までに、あんな風に自分以外の人の事を手ずから何かに記した事など無い。周りからのレシピに対するアドバイスや改善点を書き留めはしても、食べてくれる人の事を、それもあんな他愛ない日常の欠片を態々書き出したりはしなかった。

 俺がローの事を庇った時、攻撃内容からして特質系の線も濃そうではあるし、敵が能力の発動条件に『自分の能力について喋る事』を組み込んででもいない限り、きっと技が発動された時は喰らう効果も相手の念系統も俺は予測出来ていなかったと思う。
 それでも、ローを庇った。万が一があっては堪らないので相手からの攻撃を先ず避ける癖の染み付いている俺がだ。

 手配書を見下ろす。
 自然と、とある感情が湧いてきた。

「……良いなあ。俺、きっと幸せになってたんだね、ローさんの所に来て」

 俺は果たして何をやらかしたのか、六千万などという大金を首に懸けられている。暗殺稼業で有名なゾルディック家や、危険度が際立って高い犯罪者集団である"幻影旅団"レベルの相手との取引でないと動かなさそうな程の高額だ。
 だが恐らく後悔はしていない。危機が迫ったら庇ってしまう位、護りたい人が出来たのだろう。

 それは、今の俺には無いものだ。
 時々短期のツアーガイドや個人からの依頼で臨時収入を得ながら、ライセンスの恩恵を駆使して美食ハンターとして各地を探索する日々を繰り返しているだけの俺では、見つけられていないものだ。

 そしてこれは、他の誰でもない俺自身の身に起きている話なのだ。記憶さえ戻ればきっと、その有難みも嬉しさも一層噛みしめられる筈だ。
 そこまで考えて、ふと疑問が浮かんだ。

「…………あれ?」
「どうした」
「いや……、記憶が戻ったら、今現在の……この、こうやってローさんと俺が会話してる記憶ってどうなるんだろう? って思って。そもそも、俺は何を何処まで忘れさせられたの? その辺りの事何か知ってる?」

 問うと、ローの眉間に浅い皺が生まれた。長い指が顎へ添えられ、黙したローは自らの膝に頬杖をつきながら壁の方を見つめる。
 俺の問いかけを無視しているのではなく思案を始めたが故の沈黙だと判るので、あまりその横顔を見つめ過ぎないようにしながら暫く待つと、やがてローが頬杖を解いて上体を此方側に捻った。

「敵が結構な阿呆で、自分の能力の特徴を自ら多少喋っちゃくれたんだが……精神的、または外傷に因るショックじゃなく、特殊能力が原因での記憶喪失だ。復元後の事を仮定するのが難しい。憶測の話しかしてやれねェが構わないか」
「うん。推察して貰えるだけ有難い」
「ソイツの能力は細く、赤い光線の見た目をしていて、俺を指した指先から発射された。本人が言うには光線一センチにつき一日分の記憶を抜き取れるらしい。口振りからして長さは能力者本人が調節出来るみてェだった」
「指さす、って動作も発動成功の条件だったのかな」
「少なくとも標的の捕捉には必須の動作であったとは俺も思っている。お前を襲ったのは四十五センチ。つまり今日を含めた四十四日前までの記憶が丸ごと奪われた。何の偶然か、俺がお前と実際に初めて会ったのも四十四日前だ」

 今日から俺がローと出逢った日までの期間の記憶が抜かれた、と聞いて納得はした。
 俺本人の実感としてはあのスープマッシュルームの群生地で念の罠に引っかかって意識が途切れ、起きた時にはローが刀片手に此方を見下ろしていたという事が事実であり現実なのだ。

 念トラップによる失神を境に周囲の景色が切り替わっている点は、あの罠の効果が発動範囲内に入った生物の転送または転移であったが故だと踏んでいるのでそこまで不思議な現象だとは思わない。この辺りも記憶さえ取り戻せたなら正解が解るだろう。

「じゃあ、記憶が全部戻ってくれば何も不足なくちゃんと思い出せるんだよね」
「だろうな。だが、……」
「ん?」

 言葉を切ったローの目線が、ふ、と斜め下に逸れる。
 次に続ける言葉を捜すように、薄い唇がほんの僅かばかり開いては閉ざされる。

 だが、の一言を最後に黙られてしまえば流石に気にもなり、意図的に首を傾げる仕種で言外に発言の続きを求めると、ローは擡げた片手の指先で自らのこめかみ付近を軽く突いてみせた。

「個人的に問題だと感じるのは、失った記憶をお前が自力で徐々に思い出す訳じゃなく、外部から一気に復帰させられるって点だ。短期間で何度も強引に記憶の整理が行われるとなると脳がダメージを受けるか、或いはダメージを未然に防ごうとする可能性が高ェ」
「……まあ、頷ける」
「しかもお前は今、既に俺やウチの連中と"二度目の初対面"を体験してる。その上で記憶が戻れば、俺達の事を知らないもう一人の自分を思い出すような感覚になる筈だ。実際に奪われた記憶が脳へ入った時、その二重三重に積もった多様な映像と感情の記憶がお前の心身にどんな影響を及ぼすのか、正直想像がつかねェ」
「ん、……ああ……、あー……。うん、なるほど、ややこしそう……」

 言われてから気付いたが、確かにそうだ。時系列だけで言えば俺は念トラップに巻き込まれ、ローと出逢い、海賊に転身して賞金首になり、記憶を失い、今こうして、またもやローを見ず知らずの他人として認識している。

 これではいざ記憶を取り戻した時に混乱必至だ。
 特に、現在一緒に航海をしているのだろう仲間に向かって貴方は誰ですかと尋ねるに留まらず、いきなり蹴りつけもした。
 記憶に欠けの無い本来の俺からすればローは他人などではない。自分の言葉に、態度に、行動に、誰より俺自身が困惑しそうではある。

 そうなると、考えられる策は自然と一つに定まった。

「なら、リセットしたら元通りになるんじゃないのかな?」
「……お前。それ、どういう意味で言ってる」
「言葉の通り。もしその敵の能力者が他人から抜き取る記憶の量を本当に調節出来るんだとしたら、そいつを生け捕りにして、今の俺から……えーと、明日の夜に待ち合わせか。なら俺がさっき目を覚ました辺りの時刻までおよそ一日分の記憶を抜かせて、その状態で盗られた方の四十五日分を戻せば良い。そうしたら多分、記憶の繋ぎ目も自然に馴染むんじゃないかと思うんだけど」

 忘れた、という事実を、忘れてしまえば済む話だ。
 




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