小電伝虫は、人の手に乗せられれば落下すまいと大人しくなる。しかし今は眼前に居る私が手を伸ばす素振りがないからか、テーブルの上をのんびり這っては止まる事を繰り返していた。

「……うん。よし」

 脳内で反芻する数字の羅列は、アルト個人へ繋がる番号だ。問題なく暗記出来ている確信と共に小電伝虫を持ち上げ、天井を見上げつつ指の感覚だけを頼りに発信を試みる。

『────俺だけサニーの女部屋の番号知ってるのもアレだし、何か釣り合い取らなきゃなとは思ってたんだ。仲間より知り合いにかける方が、緊張感あって練習にならない? 繋がったら、一回鳴いた後切ってくれればナミちゃんだなって分かるから』

 そんな言葉と共に番号を渡してきたアルトは、親切だ。私が何時頃に練習するかも分からないのに、電伝虫がいつ鳴いても良いと言う。

 出来る範囲で協力を、助力を、惜しまずに居てくれる人でもある。
 私の護身に関する頼み事にしても、勿論アルトには断るという選択肢があったし、アルトが無理だと言うなら食い下がるつもりはなかった。けれどもアルトは引き受け、恐らく『覇気が扱えない非能力者の女性』でも実行可能な抵抗手段を考えてくれたのだ。

 親切だ。優しい人だと、パンクハザードで再会したその日に分かっている。

 ──なんか、すっきりしない。

 そんな一言が脳裏に浮かんだ瞬間、指が意図と違う動きをした。

「あ。…………」

 あと一押しでアルトへ通信が繋がるところだったのに、間違えて遮断してしまった。
 見下ろした先では、小電伝虫がぼんやりと宙を眺めている。

 落とさないよう手の角度は水平に保ちながら、ソファーに移動して腰から上を横たえる。

 知り合い、とアルトに称された事が、妙に引っかかっている。
 しかし何と呼ばれたなら納得いくのかと自問しても答えは出ない。他には同盟相手、ぐらいしか言い様が見当たらない。

 ルフィはアルトに限らずローの事も友達だと言って憚らないが、あれは本人の性格と実力があって許されているものだ。何だかんだと共闘する機会に縁のある強者同士、戦友と呼べる程度には積み重ねたものもあるだろう。
 けれども私はアルトと共に戦った事はない。違う船の海賊なだけに、仲間と呼ぶのは違う。

 ならば友人かと言えば、そこまで近い距離ではないように思う。
 買い物も、食事も、談笑も。アルトと二人きりで興じた事はない。今回の発端とてロビンに絡むナンパを処理してくれた礼だった。

 きっかけがあれば食事の席へ誘うのを躊躇わないが、特にきっかけがなければ別段誘わない。
 この関係は確かに、知人以外の表現が無い。

「んー」

 小さく唸ると、用事だと思ってか電伝虫の両目が此方を向いた。

 一日二日の付き合いではない。麦わらの一味と最も長らく関わっている海賊がハートの面々だ。
 仮にも敵同士と言いながら、本格的な衝突はなく今日まで交流を続けてこられた。基本的に立ち寄る島に顔見知りなど居ないだけに、上陸先の港であの鮮やかな黄色い潜水艦を見つけると、街中でローやアルトと会ったら挨拶しようという気持ちになった。出会い頭に交戦する筈がないと思える相手だからだ。

「……ま、そりゃ、知り合いよね」

 此処までぐるぐる考えて、腑に落ちた。落とした、の方が近いかもしれない。

 改めて思い返せば、私はアルトについて殆ど知らないのだ。
 サンジと並んで厨房に立てる程に食材の知識があり、料理が上手で、ゾロと斬り結べる実力を持ち、年上には礼儀正しく年下だからと侮らず、敵対した相手へ情を抱かず、ローに忠実。ついでに、何でも美味しそうに食べる。
 これ等は私に限らず、一味の皆が知るアルトの姿だ。そしてこれ以外を知らない。

 仲良くなった気がしていたけれど、アルトの存在が時折日常へと加わる事に慣れて親しみを覚えていただけなのではと気がついた。

「…………」

 思考が途切れる。腕の素肌が座面と擦れる僅かな音がはっきり聞こえる傍ら、今度は瞼を伏せ、無心を心がけて指を動かす。

 最後の一押しを終えてから薄目を開けると、小電伝虫は口を尖らせて『プルルル』と鳴き始めた。

「はー……! 出来た」

 小さな達成感が吐息に変わる。全身の力を抜き、再び視界を閉ざした。

 静かな部屋で、且つリラックスした状態でこれだ。もしも良からぬ事態に巻き込まれ、大っぴらに電伝虫を使えないような状況に陥った場合、こう落ち着いてはいられない。

 個人の電伝虫を持つ案はロビンに話したところ賛成して貰えたし、諜報の得意なロビンと、空模様をいち早く読むべき立場の私が所持してはどうかと言われた。専用電伝虫が手に入るまでは、アルトの言葉に甘えて何度か練習させて貰おう。

『はい、こちらアルト』
「…………えっ!?」

 聴こえる筈のない声に両目を開ければ、電伝虫と視線がかち合った。慌てて身体を起こす。

『ナミちゃん? こんばんは、どうしたの』
「ごめん! 昼間言ってた、手元見ないで連絡する練習してたんだけど、ぼーっとしてて直ぐ切るの忘れちゃった……!」
『ハハハ、意外』

 アルトが──目の前に居るのは電伝虫だが──何の含みもない声で笑った。その反応にほっとする。

「何、意外って?」
『ナミちゃん、しっかりしてるイメージ強かったから。そういう事あるんだなあって』
「だから、鳴らしちゃったのはごめんってば」
『怒ってないよ』
「……今、話してて平気なの?」
『大丈夫、周り誰も居ないから。不寝番なんだ』

 自然と、顔が窓の方を向いた。

 サニー号の中でも高所に位置する測量室は、より遠くまで外の景色を楽しめる。けれども離れた場所に停まるポーラータングは曇り空も相俟って夜闇へ溶け込み、船体側面のランプの灯りが辛うじて見えつつ、船上の人影など判りやしない。

「今夜の空と風の感じだと、夜明け近くは冷え込みそうよ」
『ああ、ベポも同じ事言ってた。俺は自分の能力で防寒出来るから大丈夫、ありがとう。この電話、何回目で成功したの?』
「三回目」
『早いね。なら、一日一回でも試してればその内指が慣れると思うよ』

 早い、と即答で言い切られ、再びささやかな満足感が沸き起こった。

「そっちがポポル島に着くまでには慣れておくようにするわ。それに、もしポポル島で電伝虫が売ってたら、私とロビン専用の子を買うつもりなの。そしたら二人の間で練習出来るし」
『…………』

 あれ、と小電伝虫の顔を見つめる。アルトの反応がない。瞼は開いているし、目玉も斜め上を見上げているのだから念波が途切れた訳ではない筈だ。

『あの……それ、俺が聞いても問題ない奴……?』

 僅かに口角を下げた電伝虫の面持ちも相俟って返答に詰まる。

『俺が余所に情報売るような人間じゃないって信用してくれてるのは嬉しいよ。でも誰が電伝虫持ってるかっていうのは、誰を襲えば仲間も脅せるかって情報になるから……、あー、と。口煩いかな』
「ううん。ロビンも言ってた、それ」

 ロビンからは、小電伝虫の購入をサンジかフランキーに代行して貰おうと提案されていた。
 例えば私が小電伝虫を買うところを賞金稼ぎなどが目撃し、襲撃して小電伝虫を奪えば、待っているだけで一味の誰かから連絡が来る。サニー号へ近付くリスクを負わずに皆へ要求をつきつける事が可能だ。
 調達の時だけでも持ち主は誤魔化し、店主が海軍や賞金稼ぎと繋がっていたとしても撃退可能な誰かに買いに行って貰う方が良い、とはロビンの談である。

「気にしてくれてありがと。今はまだこの番号しか練習してないし、ロビンの覚える前に何かあったらアルトにも巻き込まれて貰っちゃおうかしら」
『同じ島に居る間だったら呼んでいいよ』
「……。えっ」

 事も無げに応じられ、言い出した私の方が声を揺らしてしまった。
 何せ冗談のつもりだった。一味の仲間ではなくアルトに頼りたい場面、というのも想像がつかない。

『ん? "麦わら"を誘い出そうとしたらハートが来た、みたいに敵の意表突きたいって話じゃなくて?』
「そこまでは考えてなかったんだけど……」
『そっか。取り敢えず、連絡するのに遠慮はしなくて大丈夫だよ。何か頼まれたとして、手を貸すのがどうしても無理なら無理って言うしかないからさ、俺も』
「そう、よね」
『でもルフィ達なら大抵の────はーい? 了解。……ううん、平気、このまま手伝う。……ナミちゃん、こっちログが貯まったから、先に出航するね。夜中に長々ごめん』
「ううん、かけたの私だし。気を付けてね」

 今夜は満月なのでそれなりに明るいが、ハートが夜更けに出航するとは思わなかった。彼等の船の速度を計算した上でポポル島へ程好い時刻に到着する為なのだろうが、夜間の航海は気を遣う。
 そんな思考から生まれた、ごくありふれた見送りの台詞に、小電伝虫は両目を瞬かせた。

『……ありがとう、そっちも気を付けて。おやすみ』

 小電伝虫の口角が元の位置へ戻る。

 アルトから眠りの挨拶を聞くのは初めてではない。果たして受け取ったものが声だけであるが故なのか、船内の誰とも響きの異なる一言は、やけに耳の奥に残った。
 



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