私は、自分の肉体的な弱さを恥だと思った事はない。殴り合いも蹴り合いも剣術も出来ないけれど、クリマタクトを操る事にかけては揺るぎない自信がある。

 覇気が使えなくても、発想と機転と応用力で補い、その場の天気を支配する。それが私の戦い方であり、この先に広がる海で空島の雲のような未知の気象に出会ったなら、必ず糧としたい。
 その気持ちは今日も変わらないものの、劇場でただの一般人へ碌に抵抗出来なかった悔しさが尾を引いていた。

 意識がぼやけかけていたとは言え、前後不覚にまではなっていなかった。あの時何か、相手を転ばせるなり手を離させるなり、何かひとつでも反撃方法を知っていればと、自分の知識不足が不甲斐ない。
 僅かな時間でもあの男にされるがままであった事が、堪らなく不快だった。

「それで。ナミちゃんが知りたいのは、どういう時に使いたい技?」
「やっぱり変態を撃退出来るやつね。あとは……もし私が人質になっちゃった時、敵の隙を作れるやつとか?」

 移動してきた測量室の壁に木刀を立てかけたアルトが、私の言葉を受けて視線を宙へと投げる。

「一対一の想定?」
「うん」

 此方の発言に対して何も言わず、当てはまる技を思い浮かべているのだろう様子に内心ほっとする。襲われる前提を「自意識過剰だ」と言うような人だとは思っていないが、そう言われかねない発言である自覚ぐらいはあった。

 我ながら、容姿に恵まれた。海賊と知られていなければ、立ち寄る島々で写真やランウェイのモデルとして声をかけられる事もある。
 買い物をした店でサービスを受ける事も、男女問わず不躾な視線を浴びる事も、カフェのテラス席で休憩していたら見知らぬ男に断りなく相席される事もある。

 けれども、何だかんだ一般人相手ならば危ない目に遭わずに済んできた。チンピラと海賊が歩き回るような島は、流石に一人きりで出歩く事はしなかった。
 その積み重ねでいつの間にか少し油断していたのだろう。武器を持つ者だけが敵ではないのだと改めて突きつけられた気分なだけに、アルトが茶化さず掘り下げずの態度で居てくれて有難い。

「不埒な事するにしても、人質目的で拘束するのでも、基本は背後から襲われるだろうから……こればっかりは実際やってみないと分かりにくいね。実戦形式で大丈夫そう?」
「うん。痛いのはイヤだけど……」
「痛い事はしないよ。そこ立って貰える? 両腕はだらーって下げたままで」

 壁とソファーの間に立つ。アルトの足音が遠ざかってゆく。

「小走りで近付いて、後ろから拘束するから、自分なりに逃げ出そうとして」
「分かった」

 単なる練習なのに、宣言されると途端に緊張してきた。『何が起きるか』は分かっていても、『どう拘束されるか』は不明なものだから具体的な想像が浮かばない。

 ゴッ、ゴッ、ゴッ、と靴底が床板を叩く音が真後ろに迫る。

「──きゃっ!?」
「ぁ痛っ」

 顔の横から飛び出してきた掌に驚き、反射で仰け反った瞬間、後頭部が硬いものとぶつかった。

「え!? やだごめん、頭突きした!?」
「平気平気。びっくりさせちゃった?」
「びっくり、した……」
「あー、ごめん。ただ、相手が口塞ごうとしてくる可能性もあるよ。……いや、でも、どっちかで言ったら誘拐の手口か…」

 アルトが喋る度、微かに吐息が髪を掠める。

「ちょっとやり方変えるね。此処から抜けようとしてみて」

 両腕が左右から胃の辺りに巻きつく。アルトは自分自身の腕を掴んで密着し過ぎない形にしてくれているものの、腕ごと閉じ込められて肘が曲げられない。

「え!? えっと……」

 両手が使えないだけで思った以上に焦る。脚を蹴ったところで緩むとは考えにくい。
 背後へ抱き寄せられているのだから反対方向に力を加えるのはどうかと、深くお辞儀をするように前傾姿勢を取り、足も前に踏み出す。

「アウト」
「え。アウト?」
「アウトです」
「何で? そりゃアルトはびくともしてないけど、一般人とアルトじゃ力の強さ違う…」
「君の体勢が、君にとって良くないんだよ」

 体勢を戻すより先に、背中へ熱が拡がった。

「こうやって、相手が身体使って抑え込める」

 項に声が振る。床に落ちる二人分の影が重なる。
 しなやかで硬い温もりが、肩甲骨から背骨の真ん中までじわりと伝う。

「今ナミちゃん膝が曲がってるよね? 俺がこの状態で力抜いてもっと体重かけたら、重さで立ってられずに倒れちゃって、抜け出すのが更に難しくなる。咄嗟に距離取ろうとしちゃうのは分かるけどね」
「そっ、か……」
「頭下げるって行動自体は、一味の誰かと一緒に居る時だったらアリだよ。ルフィ達が相手に攻撃当てやすくなるから。身体起こすね、力抜いてて」

 アルトの腕が片方外れて私の肩を抱き、上半身をゆっくり起こされる。
 同時に体温も離れたが、目には見えない温もりの名残が未だ背中に在る気がする。

「じゃあ、アレね、前に逃げるんじゃなくて後ろに攻撃した方がいいって事?」
「そっちが良さそうかな、とは。投げ飛ばすのは練習が要るし」

 何となくその感覚が落ち着かず、振り払うように言葉を並べる。

 思わぬ至近距離に少し驚いてしまったけれど、襲いかかられる想定なのだから当然の事だ。アルトはやたらと密着しないよう気遣ってくれているのに、教えを乞うた私が意識し過ぎるのも良くない。
 もしかすると自分が思っているより、劇場で味わった不快感が意識の底に残っているのだろうか。

「先ず意識して欲しいのは、こうして後ろから捕まっても、下半身は自由って事。次に、半端な抵抗だと相手をムキにさせる危険があるから、反撃はそれなりのダメージを与える手段を取る事」
「それなりって、例えば?」
「ひとつは、相手の爪先を踏む事だね。踵のとこで。思いっきりやれば指の骨なら折れると思うし、追って来られなくさせられる。けど、ナミちゃん、俺の足見える?」

 言われて床を見下ろす。
 真下は自らの胸が邪魔で、顎を引いただけでは見えない。背中を曲げるデメリットは聞いたばかりだ。

 ならば、と真横を向き、首を伸ばして足元を覗き込む。自分のサンダルを履いた足の斜め後ろにエナメル質のレースアップシューズが見えた。

「こうすれば一応、見えるけど……もし変な奴に抱きつかれたら、こんな風に棒立ちで居てくれる訳じゃないわよね…」
「そうだね。だから誰でも狙いやすい急所ではあるんだけど、あくまで体勢的にやれそうなら選択肢に挙がる技、って感じ。二つ目は、手の小指の骨を折る」

 肩に添う腕が離れ、私の左手が下から掬われて持ち上がる。そのまま小指だけがアルトの四本の指にすっぽり包まれた。

「こういう風に握って、自分の手を一気に手前に引く。小指だけで抵抗するのはちょっと難しいし、どんな体格の相手でも小指一本だったら掴める場合の方が多い。でもイヤな手応えあるから、無理にやる事はないよ」

 手応え知ってるなら折った事あるのね、とはツッコめない。アルトはサンジとも違って手や肘も戦闘に使うようだし、ローに対して中指を立てた敵の指だとかを折っていそうだ。

 指に、僅かばかりでこぼことした感触が触れる。剣ダコだろうか。私の小指の爪がアルトの人差し指の縁へ掠る程度にしか届かないのだから、思ったよりアルトの手は大きいらしい。

「……ナミちゃん? 刺激強い話だった?」

 はっとして顔を上げる。ほぼ同時に指は離され、いつの間にか腹回りの片腕もほどかれて、横合いから窺う眼差しと声色が注がれた。
 



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