トラファルガー・ローは、おれの憧れだった。

 忘れもしない、去年の今頃。週に一度の、スリ仲間同士で成果を披露し合う集まりで、一人が持ってきたゴシップ紙にその記事は載っていた。

 ──"天竜人"が危害を加えられた。
 ──現場に駆けつけた海兵が多数負傷した。
 ──主犯は麦わらの一味。

 そんな内容の、記事と共に。
 海賊と海兵がぶつかったらしい、シャボンディ諸島の何処かの広場の写真が大きく添えられていた。

 人体のパーツがめちゃくちゃに組み合わさって、更にごちゃごちゃとした武器や金属の寄せ集めとくっつけられた、遠目に見ればまるで無数の切断された死体が無造作に積まれたかのような、"小山"の写真が。

「うげっ! 気味が悪い……」
「イカレてるよ……」

 そう言う奴も居た。確かにこんなもの、誰もが手に取る機会の多い新聞には、とても載せられやしない。

 だけどおれは、背筋が痺れる思いだった。
 圧倒的な暴力。絶対的な強さ。
 そして、紙面に書かれた、『"死の外科医"トラファルガー・ローの振るう悪魔の実の能力のおぞましさは、切り刻んだ対象が死なない点こそに集約されている。彼が蹂躙した地に限っては、流血を伴うショッキングな光景がそこかしこに広がる事は滅多にないからこそ、今回どうにか現場のありのままの姿を本誌に載せる事が叶ったのは、まったく皮肉なことである』という、文。

 強いのに、殺さない。
 何という格好良さだろうと感動した。悪の美学を見事に体現していて、容赦などなく、しかし人として最後の一線は越えない。

 まさに、理想だった。

 こんな風に生きられたらどれほど気分が良いだろう。誰もが恐れる能力を使いこなし、船員を率いて、海をゆく。立ち塞がるもの全てを切り刻むのに、歩んできた道には不粋な屍など無いのだから。

 海兵ぐらい殺したって良いのに、と口の中で呟く。
 海兵は嫌いだ。おれ達は親が居ないから、生きる為に、食べ物でも服でも沢山持っている誰かから少し貰っているだけなのに、追いかけ回す。凄んで、怒鳴ればおれ達が言う事を聞くと思っている。保護する気もない癖に、おれ達を責める。
 写真の向こうの"小山"は是非とも放置して欲しいところだが、この事件は先週起きたらしい。せっかくローさんが刻んでくれたが、とっくに救助されてしまっただろう。

 世の中にはこんなに格好良い海賊が居たのだ。
 いつか会ってみたいと、そう思いながらも相変わらずの生活を再開して、程なく。

「おい、見ろよコレ! ローさんがマリンフォードに乱入して、あの"麦わら"のルフィを逃がしたって!」
「え? ロ……誰が何だって?」
「ローさんだよ、知らねェのか!」
「あ、海賊か。海賊気にしてたら、メシ食える訳じゃねェし……」

 また、ローさんの活躍のニュースが舞い込んできた。何だか盗むのは気が引けて、おれにしては本当に珍しく、硬貨をかき集めて新聞を買った。
 詳しい事はよく分からないが、海軍と海賊で大きな戦争があったらしい。何とローさんは現地に乱入して、おれでも最近何かと名前を聞く"麦わら"と海賊をもう一人船に乗せ、その場から逃げおおせたと書かれていた。

 またしても感動した。かつて共闘した海賊の窮地に駆けつける、義の人でもあったのだ。
 きっと、泣いて礼をする"麦わら"に、「礼を言わせる為に助けたんじゃねェ」というような事を、何でもなさそうに言うのだろう。新聞なんてまともに読んだ事がなかったが、ローさんの記事だけはしっかり読んだ。"麦わら"は兄をこの戦いで亡くしたとも書かれていて、それは素直に可哀想だと思った。

 ひょっとして、今度はローさんが兄代わりになるのかもしれない。
 羨ましい。おれもローさんを兄貴と呼びたい。きっと厳しくて、でも優しくて、誰より格好良いに決まっている。
 ───そう、思っていたのに。

 他人に媚びないから、サインなんて頼まれてもしない。
 おれが良くない事をしたら叱ってくれる、想像通りの人だと思ったのに。この島にやってきたと聞いて、本当に嬉しかったのに。第一印象が「変な奴」でも良い、とにかくおれを見て貰う為に最初の接触の仕方も沢山考えたのに。

 本物のローさんは、レストランで長話をして、一緒に居る奴の頬を、どう見ても力なんて入れずにつまんで遊ぶような、だらけた人だった。
 もっと、時間を無駄にしなくて。船員の誰もがいつだってローさんの為に動く、カリスマ性のある人だと思ったのに。

 あんな風に、優しい目をするなんて。
 あんな風に、誰かと気安くじゃれるなんて。
 あんな風に、部下に付き合うなんて。
 あんなの────ローさんじゃない。

「……………………」

 裏切られた気分だった。いや、事実、裏切られたのだ。
 信頼を。期待を。おれの未来を。

 何とかローさんにおれの気持ちを分かって欲しくて、だけどホテルを追い出されて暫くは入り口にスタッフが立っていたから顔を見られたおれは近付けなくて、日が暮れてから必死で探したのに。あんな光景を、見せられて。

 大体、あの"ケルベロス"も何なんだ。
 ローさんの船に乗る賞金首だから二つ名は覚えてやったが、武器が木刀だなんて、ローさんの美学を汚している。それなのに、まるで自分の方がローさんの事を知っているかのような態度。
 そして、おれのスリの腕がみみっちいものとでも言うような発言。思い返すだに腹が立つ。ハートの海賊団の仕業だと知られずに金を得られる技が、ローさんを助けない訳がないのに、奴はそんな事にも考えが及ばない。

「……悲しいな」

 自然と、本音が零れた。

 おれが憧れたローさんは、居なくなってしまった。何か、きっとそうなってしまうだけの出来事があったのだろう。今、目の前のドアの向こうで眠っているのはローさんの抜け殻でしかない。そして、その事を正しく"理解"しているのは、きっとおれだけなのだ。
 だから、おれは。これ以上ローさんが堕落しないよう、殺してあげなくてはならない。

 深く、息を吐いて。
 右手に持った包丁を、握り直した。

「空っぽだよ。その部屋」
「──────!?」

 耳の直ぐ後ろで、男の声がした。

 あまりの驚きに喉が勝手に引き攣れて声が出せず、心臓が一度おかしな跳ね方をして、ぶわっ、と背中に汗が噴き出した。
 有り得ない。
 廊下には誰も居なかった。確認した。振り返りながら歩いてきたのだ。

「意識しての完全な「絶」は久々だったけど……思ったより身体は覚えてくれてるモンだな。お前、俺が隠れてる扉の前を素通りして行ったし、これだけ近付いてもちっとも気付かなかったしね。……まあ、万が一お前如きに勘づかれたら、屈辱の余り窓から飛び降りたくなったろうけど」

 何の話をしているのかさっぱり分からない。ただ声には聞き覚えがあって、背後に居るのが恐らく"ケルベロス"である事だけは判った。

 だけど、今朝聞いたばかりの声の筈なのに、正体に自信が持てない位には。
 空気の重みが、今朝感じたものと比較にならなかった。

「っ……お、お前、が……ローさんを、匿ってるんだな……!?」
「……………………」
「ヒッ!?」

 そっ、と、おれの項を何かが掠った。
 一拍遅れて、それが淡く温もりを持った、"ケルベロス"の指だと感触で伝わる。一瞬、刃物を当てられたとばかり思った。

「もう少しさ、考えてから発言してくれないかな。あの人が誰かに匿われるなんて発想、ローに失礼だから。部屋を移って貰っただけ。ベッドに紅茶零す手口で、ホテルには悪い事しちゃったけど」

 "ケルベロス"が話す毎に、冷たくて"とろり"とした、重たい空気がのしかかってくる。
 震えが止まらない。奥歯が鳴る。膝が笑う。

 それでも、おれは。
 おれが、やらなければ。
 ローさんの"最後の理解者"として。

「ぉ……っおれが、ローさんを解放するんだ!」

 叫ぶ。ありったけの感情を込めて。

「本当のローさんはあんなじゃない! お前に、お前みたいな奴に、あんな……っ、気安く接したりしない人だ! おれには分かる! おれだから、分かる! お前らがローさんをおかしくしたんだろっ!」

 叫ぶ。負けてなるものか。屈してなるものか。
 こんな、人を威圧する事しか出来ないのに、ローさんと同じテーブルで、あまつさえ隣の席での食事が許される、能力者だというだけでローさんが仕方なく使ってやっているのだろう男に。
 ローさんに笑いかけて貰うという、おれの未来の居場所を奪って、今も尚ローさんの為に行動するおれを妨げる男になど、絶対に負けてはならない。

「あの人のっ、ローさんの戦いは芸術だ! でもお前には"理解"出来ないだろ! ざまあみろ! おれが、おれだから共鳴出来るんだ……!」

 教えなければ。ローさんはお前とは違うのだと。
 せめて現実を突きつけてやらなければ、ローさんが可哀相だ。部屋を移動したと言うのなら、このフロアの何処かに居るかもしれない。

 おれの声が届いたら、ローさんは帰ってきてくれるかもしれない。まだこの世界には自分の"理解者"が居るのだと、気付いてさえくれたら。

 萎えていた指に、僅かだが力が戻ってくる。

「おれは、ローさんの理解者だ……!」

 そう口に出すと、勇気が湧いてくる。そうだ、おれは理解者だ。だったら今のローさんにも寄り添って、元の気高くて凛々しい孤高の心を取り戻す手伝いをするのがおれの使命になる。

 どうして一度でも、ローさんは殺してあげなければもう救えないと諦めてしまったのだろう。
 おれは、番犬気取りの邪魔者を退治する為に、立ち上がるべきだった。

 ──動け! 動け!

 自分の身体に、必死で呼びかける。
 先刻から、背にのしかかる圧迫感が重さを増そうとしない。"ケルベロス"がおれの言葉に動揺しているのだ。
 "ケルベロス"だなんて、まるでローさんの供みたいな名前を付けられて浮かれた男。その点だけは、最期に同情してやっても良い。

「……なるほど。"彼女"の時、ローが俺に何も言うな、って言った気持ちが何となく解った」

 また、自慢話。おれよりも自分の方がローさんとの思い出が多いのだと遠回しに告げてくる。もう、そんな事でしかおれに張り合えないのだ。哀れな。

 自分の呼吸が煩いけど、心臓が痛いけど、包丁は何とか持ち直した。
 背後から接近した"ケルベロス"は、包丁に気付いていない。しかも俺の首に触れているのだから、片手は確実に塞がっている。振り向きざまに刺せば、勝てる。

「つまり」

 まだ何か言いたいらしい。
 落ち着け、と頭の中だけで繰り返す。これは好機だ。喋らせておけば、より油断する。

「お前はローに会った事は無いんだし。主に新聞とかだろうけど、外部が発信するローの情報だけでローを解った気になって、自分の理想の型に捻じ込んで。いざ本物に会ったら想像と違ったから、八つ当たりしてるのもある上に」

 我慢だ。聞き流せ。戯言だ。

「理想と違った原因を、ローじゃなくて俺に求めて文句言う、って事は」

 耐えろ。こんなの何でもない。自分を理解しない連中を引き連れ続けなくてはいけなかった、ローさんに比べたら。

「要は。お前、ローにがっかりしたんじゃなくて、ただ俺に嫉妬してるだけだろ」

 耐え、

「────ぅあアアぁああああああぁァあアっ!!」

 感情が決壊した。喉から口蓋にかけて口の中がびりびりと震え、おれのものではないような、獣のような咆哮が飛び出して、全身の緊張が解ける。

「違ぁあああああァアうぅウウウ!!」

 頭の中を赤く塗り潰す怒りの源が何か分からないまま、無我夢中で身体ごと後ろへ振り返って。

 ガシャンッ!

「え?」

 分厚い本か何かで殴られたような、バヂッ! という重い衝撃を右手に感じたと思ったら、手の中には包丁の柄の部分しかなくて。

「頼むから、もうこれ以上、お前があの人を語らないでくれるかな。本当に、この数分間は────多分俺の人生で、一番不愉快な時間だったよ」

 上からそんな声が降ってきて、直後に意識が寸断された。









「片付いたのか」
「……バレてたか」

 今晩泊まる予定の部屋に戻ってきたアルトは、起きて待っていた俺と船長を見るなり気まずそうに苦笑を浮かべた。

「今朝のガキが、ハートの代表である船長に謝罪しに来たら部屋番号を教えてやってくれとホテルスタッフに頼んだのは良かったと思うけどな。口止めし忘れたろ」
「あー……してない……。アイツが来るかどうかも賭けだったし、念の為ぐらいの気持ちだった」
「だから俺とすれ違ったスタッフが確認してきたんだよ。本当によろしいですかってな。ホテル側は揉め事を起こさないでくれって意味だったんだろうが」
「詰めが甘かったと」
「ガキはどうした」

 船長の問いに、アルトは自分の腹の周りに円を描く仕種をする。

「こめかみ殴って気絶させて、縛って空き部屋に転がしてある」
「それだけにしちゃ随分と時間がかかったな」
「あっち刃物持参だったんだけど、中々向かってこなくてさ。ちょっと威圧し過ぎたのかな……。図星突いたら動いたから刃を折った。うっかり向こうの首とか掠ったらと思って様子見てたら、ホント時間喰ったよ……」
「感想はそれで終わりか?」

 唐突に、船長が変わった質問をする。

 アルトは船長をじっと見て、それから何故か、少し照れくさそうに笑った。

「……何で、こんなのにローを語られなきゃならないんだろうな、馬鹿馬鹿しい。って、思ったよ」




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