「おはよう」
「おはよ、ペンギンさん。今日は買い出し無しなんだよね」
「前回の島と距離も近いし、海も荒れなかったからな。米も昨日買ったから観光だけしても良いだろう」
「じゃあ、何人かで自然公園行きたいんだけど……」
「あの、自分達でバーベキューやれる所か? べポも行きたがってたぞ」

 滞在二日目の朝。身支度を済ませてホテルの部屋を出たところでアルトと会い、若干残る眠気と戦いつつ階段を降りる。

「本当? ある程度の人数で行っても問題なさそうだから、行きたい人集めて昼は其処が良さそうだなって。この島、林檎の生産が盛んで、バーベキューの肉を漬けてるタレにもすり下ろした林檎使ってるんだって。ペンギンさんもどう?」
「バーベキューか。少し手間はかかるが、食い放題に近いか。結構腹が減ってるし俺も行くかなァ……。しかし、お前はそういうのを良く前以て調べてくるな。感心する」
「食道楽を自称するまではいかないけど、美味しいもの食べたいし、…………」
「ん? どう…………」

 踊り場に差しかかりロビーが見えたところで、半歩前を下っていたアルトが急に足を止めた。
 おまけに大きめの蜘蛛でも見つけたような、何とも言えない顔になる。前触れなく穏やかでない目付きになる理由が分からず、その視線の先を追って手すりの下を確認し、俺の言葉も半ばで途切れる。

 昨日の青年が、口元までマフラーを巻いてニット帽を深く被ったのみの雑な変装で、ロビーの一番隅のソファーに座っていた。挙動に落ち着きがなく、数秒眺めている間だけでも身体を小さく左右に揺すり、俺達が今居る階段よりも更に立派な大階段の上方を凝視している。

「……ホテル側が漏らした訳では、なさそうだね?」
「この辺で聞き込みして、ハートの海賊団が此処に入ったのを見たって目撃情報だけ得たんじゃないか」

 今回利用したホテルは、島内では中程度のランクの宿だ。迷惑料とは別に口止め料も支払い、宿泊するフロアとロビーの行き来は従業員専用の通路を使わせて貰っている。青年の様子では、その事実をホテルは教えていない。
 困ったものだ。昨日あからさまに船長が渋い顔をして見せたのに効いていない。

「敢えて大階段から出るか」
「んー……そうだね、特別措置がバレる方が面倒くさい事になるかな。そもそもアイツは客なの……?」
「確かにそれは気になる」

 身体を反転させて引き返し、二階に戻ってフロアの反対側に在る大階段を目指す。長い廊下を歩きながらアルトが歩調をやや緩め、コートのポケットから小電伝虫を取り出すとダイヤルを回した。

『どうした』
「昨日の変な子、ロビーに来てる。多分クルーの出入りを見たか、近所に聞くかしたんだと思うけど」
『面倒くせェ……』
「フロントで金積んで、追い出して貰いますか?」
『いや、いい。泊まる場所自体を変える方向で検討する。建物から出しても、玄関先で待ち構えられたら同じ事だ。アレに思考を割かなきゃならねェ方が苛つく』
「同感」
『裏から出て、条件に合う別のホテルが見つかればお前に連絡する。小電伝虫はそのまま持ってろ。後は……何人か普通にロビーを歩かせて、俺達が此処に泊まってる事を印象付けておけ。別に相手はしなくて良い』
「分かった」
「了解しました」

 船長の最後の指示にはアルトと共に返事を述べ、瞼を閉じた小電伝虫を仕舞うアルトの頭を片手全体で撫でてやる。

「何だ、今回はえらくピリピリしてるな?」
「……ローが怖がられるのは、別に良いんだよ。最近じゃ酒場で絡んだり、喧嘩ふっかけてくる海賊団も減ったし」

 アルトの足が止まる。

「ああいう感じの反応する子の方が、何だか良い気分じゃない。ローの能力は誤解されやすいのも分かってるけど……」
「船長、戦闘で碌に負けた事が無いからなァ。銃も大砲も喰らう以前に躱せるし、能力は少し刺激が強いしで、そういうのが好きな奴からは崇められやすい人だよな」

 本来自分は特別な存在であるだとか、そう思いたがるような思春期の少年には、船長は特にウケが良い。特にシャボンディ諸島での"天竜人"の一件が拍車をかけたように思う。
 他人の肉体を思いのままに操り、恐怖を与え、心までも屈服させる。命は取らないが精神的に勝利する。完全武装の海軍に相対しても、抜刀せずに圧倒的優位に立ててしまえる事すらある。英雄願望や承認欲求が強い同性にはさぞ刺さるだろう。

「あの子も口振りからしてそうなんだろうけど、ローの二つ名を海賊としての異名だとしか思ってないって事は、ローが医者であるとさえ知らない訳だろ。それなのに憧れです、みたいな顔されるとイラっとする」
「ハハハ」

 唇を尖らせるアルトが直球で人を悪し様に言うのは珍しくて、思わず笑ってしまう。
 他人の悪口を言うのもそれを笑うのも褒められた事ではないが、確かに自分の大切な相手を上辺だけで判断されてしまえば良い気はしない。

「お前は船長が大好きだもんな」
「そりゃ、昨日の子よりはね」

 アルトは間違いなく、船長からある種の特別扱いをされている。同族意識を持たれている、と表現する方がより正しいだろうか。
 お互いが唯一能力者としての苦労を分かち合えるのだから、俺やシャチのように付き合いが長かったり、出身地が同じである事で生まれる気安さとはまた違った距離感や関係性を構築し得るのは、当たり前の結果ではある。

 酒の話題については、船長も根っからの酒好きのクルーと語らう方が盛り上がっているし、調理法や食材の話ならアルトも厨房担当のクルー達と意見を交わしているのが一番楽しそうだ。四六時中アルトと船長がべったり寄り添って離れないという事はない。

 それでも、ふとした時自然と並んでいるのがこの二人で、アルトが最も懐いているのは船長だ。
 自覚があるだけにその点を擽られるとアルトはとにかく気恥ずかしいらしく、大体こうして少し素直でない台詞を言う。
 航海が進むにつれて大分海賊らしくなった弟分が、まだ二十歳そこそこの男だと思える反応が故につい時々つついてしまうのは、本人には言っていない。

「さて。……ガッツリこっち見てるなァ」
「マジで?」

 疎らに人が行き交う大階段を降り始めた途端、青年が椅子に腰かけたまま前のめりになるのが見えた。明らかに此方を見ている。

「ハートに用があるのか、船長目当てなのか分からん。後者なら空振りに出来るんだし、一先ず目は合わせずに行こう」
「分かった」

 あの様子からして、何もしてこないとは考えにくいが────そんな胸中の独白も終わらない内に、青年が小走りで階段の下にやってくる。隣人と浅い溜め息が被った。

「なァ! アンタ、"ケルベロス"だろ! ローさんは!?」
「おっと」

 思わず一言漏れた。

 社会的地位と年齢の上下に対する、一般的な感覚というものを、アルトは重視している節がある。両親が言葉遣いや礼儀を重んじていたのだろう。
 基本的に年下には砕けた口調で、しかし相手が働いていると礼儀として敬語を使う事もある。年上との会話は必ず敬語だ。全て、対象が民間人である場合に限り、の話だが。

 そして自分がそういう価値観で育ったからか、生意気な年下には──主に船長に迷惑をかけそうな生意気で馴れ馴れしい年下には、厳しい顔を覗かせる時がある。

「………………」

 隣を見れば案の定、アルトは答える事なく無言で青年を見返すのみだ。睫毛に触れてみたら案外本当にひんやりとしているのでは、という位、眼差しが冷え切っている。

 返事を貰えないとは思わなかったのか、青年が戸惑った様相で数秒固まる。しかしアルトが視線を切って歩き出そうとすると、慌てた様子で進行方向へ回り込み、妙に得意げな笑顔で自らを指した。

「アンタ、懸賞金から言ってナンバーツーだよな! おれをハートの海賊団に入れてくれるよう、ローさんに口添えしてよ! ローさんの近くに居たいんだ!」
「あっ」

 もう一度素で声が出た。次の瞬間には即、その場から五歩は離れる。

 例えるなら船長の殺気は肌を刺す鋭利な針で、身体を竦めたくなる。アルトの殺気は皮膚に貼りつく水で、身体が重くなる。どちらにせよ浴びたくない。
 青年は俺の動きに怪訝そうな表情をして此方をちらりと見てから、視線を戻して。

「──────は?」

 普段からは想像するのも難しい、地を這うような低音がアルトの口から一つだけ放たれた瞬間、あっという間に顔を青褪めさせた。

「君を入れて、ウチの海賊団に何か得があるの?」
「えっ……」
「鍛えてるようにも見えないし。能力者?」
「……いや……違うけど……」
「俺は今、少し"真面目に"質問をしてるだけなんだけど。この程度でそんなに血の気引いた顔して冷や汗かく君を迎えて、ウチはどんなメリットが得られるのか、答えてくれる?」

 今のお前の殺気を浴びたらクルーの大半が顔色悪くするぞ、などとは言うまい。舐めてかかってきた相手の潰し方が船長に似てきたなと、離れた所からしみじみ眺める。

「……っお、おれは、スリの腕は一流だ! それで役に立てる!」

 だが直後に天井を仰いだ。シャンデリアが眩しい。
 中々にふざけた発言だが、俺の苛立ちは今のアルトの怒りには及ばないだろう。

「そう」

 アルトの声に、温度が無い。
 ただ声帯を震わせて、音の種類と順番を選んで出しているような、平坦な声だ。

「お前は、ウチが──ローが、何の咎も無い堅気の人達からせしめた金品を貰って喜ぶような、程度の低い集団の長だと思ってるんだね」
「えっ、違ッ……違うよ!」
「お前が言っているのはそういう事だよ」

 遂に、青年に対するアルトの呼び方が「君」から「お前」になった。完全に邪魔者と認識したという事だ。

 ロビーは静まりかえっている。とは言え距離がある客や従業員は揉め事の気配を感じて遠巻きにしているだけで、事態を把握しているのは、大階段を昇る客の荷物運びを手伝うべく手すりの傍に控えていたが為にアルトの殺気にあてられて、気の毒なほど震えているボーイだけだ。
 俺が頭の角度を戻すと同時に、丁度アルトが方向転換した。俺の横を通り過ぎてフロントへ歩いてゆく。

「あの青いマフラーを巻いてる彼は、宿泊客でしょうか」
「いえ……ラウンジご利用のお客様です」
「彼の先程の発言、聞こえてました? 自分はスリが巧いとかどうとかって。それを自慢するような子を館内に通したままでいるのは、どうかと思いますが」

 聞こえてくる声の調子は、すっかり元に戻っている。所謂外向きの喋り方だ。
 そしてアルトの意見を受けたフロントスタッフは、はっと顔を強張らせた。スリの前科があると自白し、且つ現在も犯行を重ねている可能性もある人間がホテル内に居るなど、偶然に発覚した事であっても話が外に出れば信用問題になりかねない。

 ハートの海賊団という無法者集団を泊まらせてはいるが、少なくとも現時点で俺達は何一つホテルへ迷惑をかけていないし、諸々を上乗せした料金を現金で前払いして、大人しく過ごしている。

「っ君! お引き取り願おうか!」
「何でだよ、おれ此処では今日何も盗んでないよ!」
「そういう問題じゃあないだろう! 大人しくしなさい、警吏を呼ぶぞ!?」

 男のスタッフが複数人走ってきて、状況の変化におろおろとするだけで居た青年を取り押さえる。雑にでも顔を隠すような格好をしていたのは、俺達に見つからない為ではなく、ホテルから出されないようにだったのかと合点がいった。



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