花の香りがした。

 香水や香料ではなく、道端を歩いている時に風が運んでくる仄かなものでもない。
 花屋の前を通った時のような、瑞々しく匂い立つ生花の香りに、思わず掛け布団を跳ね上げんばかりの勢いでベッドから上半身を起こす。
 同時に枕元へ立てかけた木刀に手を伸ばしたが、柄を握る前に横から腕を軽く掴まれた。

「! ……ロー、起きてたの」
「さっきな。────来るぞ」

 隣のベッドで寝ていた筈のローは、俺の枕元に斜めに腰掛けていた。顎でバルコニーを指されてぞっとする。

「……まさか。此処、三階だよ?」

 ハートの海賊団が泊まっているこのホテルは五階建てで、三階フロアを貸し切っている。
 それ故、客を装ってホテルの従業員に「海賊と同じフロアに泊まりたくない」とでも言えば敢えて宿泊階を教えて貰えるかもしれないが、侵入出来る高さではない。外壁に緊急避難用の梯子が取り付けられている訳でも、足場に出来る配管が剥き出しになっている訳でもないのだ。

 それでも万が一、"婚約破棄"に憤慨したディリアナが乗り込んで来ないとも限らないからと三階以上の高さがある宿泊施設を選び、ローと同室に泊まった。これで充分だと思っていた。

「…………」

 花の香りがする。
 湿度の高い部屋へ風を呼び込む為に開けた窓を覆う、レースで出来たカーテンが揺れて、バルコニーの手すりが見える。

 その、石で造られた格子状の手すりの、床との継ぎ目の所に────下からぬっ、と白く細い指が現れて、絡みついた。

「……嘘だろ……」

 隣の柱も、遅れて現れた反対の手指が確と掴む。

 頭部が、肩が、胸が順番に現れ、華奢な手が更に上に伸びて、手すりの縁を掴み、柱の間に膝が捩じ込まれて。

 裸足の、寝間着だろうワンピース一枚のディリアナが、バルコニーを乗り越えた。
 母親譲りの金髪を夜風になびかせ、肩で息をしながら顔を上げ──俺を見て、少し照れくさそうな笑みを浮かべる。

「えへへ……。びっくりした? 木登り、昔から得意なの。端から順番に部屋の中見てきたら、こんな時間になっちゃった」

 恥じらいを含んだ、それだけを聞けば可愛らしいと言える声の調子が、いっそ怒鳴られるよりも恐ろしい。バルコニーはホテルの庭に面しているが、近くの木を伝ってきたという事か。或いは二階に部屋を取って渡ってきたか。

 ディリアナは俺の筆跡を知らない。メモが誰かの悪戯だと思って事実を確認しに来たのだろうか。だがそれなら、普通は先ず母親に、自分の部屋に誰かが忍び込んだ事を相談するように思う。
 それにメモには、『あの日貰った気持ちは返します。君の島の伝統を俺は知らなかったし、君と結婚する事は出来ません』と、なりすましを疑われない為の最低限の文言は添えた。下手に謝罪や心情を綴るとまた曲解されかねないから事実のみを端的に書けと、ローのアドバイスを受けて書いたものだ。

「分かってるの。もし海軍に知られたらって……心配してくれてるのよね」

 ふと、ローが身体を傾げて俺の頭の直ぐ傍まで顔を寄せる気配がする。

「何も答えるな。向こうにとって都合のいいようにしか解釈されねェからな」

 吐息に紛れる低音はあまりに小さくて、ディリアナに届くとは思えない。否定を発しかけた己の口を、意識して閉ざす。

「今は平気かもしれない。でもいつかバレちゃうかもしれない。それなら、一緒に暮らすより、時々この島に寄る方が安全だって……普通の夫婦としての幸せな生活を望んじゃ駄目だって────其処の船長さんにそう言われたから、あんな手紙を書いたんでしょう!?」

 突然、ディリアナの声が罅割れた。呼吸を荒げて肩を忙しなく上下させ、ワンピースの裾をたくし上げて両手を背中に回したかと思うと、布に巻かれた細長い物を服の中から取り出す。下着と肌の間に挟んでいたらしい。

 ──カチャ……ッ。

 ローが無言で、鬼哭の鍔を押し上げた。見なくても音で判ってしまう。
 そして俺の肩の後ろとローの胸元が触れ合っているから更に判る事は、ローの鼓動が、ひたすら一定である事。もしディリアナがこれ以上足を踏み出せば、即座に鬼哭は刀身を露にするであろう事だ。

 まさかローに矛先が向くとは想定外だった。彼女からしてみれば身勝手に自分を捨てようとしている俺に対して、何かしらのアクションを起こすものだと思っていた。

「いいから、お前は何も言うな。馬鹿につける薬はねェよ……」

 再び、囁かれる。何か言わなければと思ってほんの少し息を吸ったが、それすらローに気付かれたのだろう。

 不意に、目の前が暗くなった。ローが後ろから俺の顔の前へと腕を回して、視界の大半を遮っている。ディリアナの脚しか見えない。

「ロー?」

 スーッ、と。鋼が擦れる、澄んだ金属音が耳元で細く、長く鳴る。
 自分の心臓が大きく脈打った。

「離してよ……! 私の旦那様よ! 運命で結ばれた、神様が巡り会わせてくれた人よ!」
「へェ? 迷惑な神も居たモンだ。お前にコイツは勿体ねェよ」
「なん──────」

 視界の下半分が、あっという間に淡い蒼に染まって。
 ディリアナの声が止んで、唯一見える脚がふらついた直後に、景色の中からディリアナだけが消えた。"何か"が床に落ちる音も聞こえない早業だった。

 俺の頭を抱くような形になっていた腕が外される。振り向くと、鬼哭の刃が鞘の中へ戻ってゆくところだった。

「何でお前を、其処らの女にくれてやらなきゃならねェんだ。馬鹿馬鹿しい」

 吐き捨てるようにそう言ったローが腰を上げる。

「もしかして、初めからこのつもりだった?」
「紙切れ一枚で済むなら良いとは思っていた。だが指輪の話を聞いて、思ったより厄介な女だと知ったからな。お前と駆け落ちしようとするか、俺を害そうと考える可能性は高いと想定した。欲しい宝が鍵付きの箱に入ってりゃ、大抵は箱を壊そうとするだろ」
「……何処に飛ばしたの?」
「庭の隅に置かれてる、掃除用具入れの上だ。木登りが得意なら自力で降りるだろ」

 それだけ言うと、ローは自らの寝台に潜り込み、眠る姿勢になる。
 微かな花の残り香が夜の匂いにかき消されてゆく中、俺はディリアナがバルコニーにやってきた時の恐怖をあっさり上回る発言を放った己の船長を横目に、心中で独りごちた。

 ────この人、今、傍から聞いたら自分がほぼ口説き文句みたいな台詞言った自覚、無いんだろうなあ……。




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