風の音と聞き間違う程の豪雨が、朝から一分たりとも止む事なく降り続けている。
 雨粒は大きく、数メートル先の視界ですらぼやけてしまって窓からは空模様が確認出来ない。

 潜航に備えて甲板の片付けに向かうクルーも数分毎に入れ替わり、船内へ戻ってきた面子は皆が一様に服の色を変えていて、髪も根元まで雨水が行き渡ったらしく各々の目元や額にぺたりと張り付いている。
 半年に一度遭遇するかどうか、という酷い嵐だった。
 強い風雨は急速に体温を奪ってしまう。潮水の飛沫と潮風でべたつく身体を手っ取り早くシャワーで流した皆が体内から温まる事が出来るよう、食堂で根菜を多めに使ったコンソメスープをよそっては配る中で、ふと誰かが声を上げた。

「なァ、誰かサブマストのロープフック回収したかー!? オレが見た時はまだ束ねて甲板の隅にあったんだがよ」
「おれそっち側行ってねェや、覚えてねェな」
「この天気だぜ? 束ねて運び易くしてあったんなら、流石に誰かがもう仕舞ったろ」

 強風が予想される時は基本的に帆を畳むが、その大きな布が風に煽られて勝手に広がったり裂ける事を防ぐ為に追加で巻き付けるのが、両端に金属製フックが取り付けられた極太のロープだ。
 紛失すれば航海が続行不可能になる、という程までの貴重品ではないが、無くても困らない備品かと言うとそうでもない。

 一度は各所の甲板に赴いた面子が今ひとつロープを収納したとは確信を持てていなさそうな様子に、配膳担当の一人へと湯に浸けて温めておいた深皿を渡す。

「さっきの通達、潜航まで七分って内容だったよね? 俺ちょっとサブマストの近辺見てくるよ」
「えっ!? オイ────」

 肘の上まで捲っていた袖を戻しつつ一言告げて、開け放されている扉から廊下に出る。
 次の島まで三日はかかるし、その間に再び似た悪天候に見舞われない保証は無い。多少濡れてでも操舵に関わる備品の有無は確認すべきだろう。

 上階に着き、更に通路の途中に拵えられた階段を上り始めたところで、連れ立って降りてくるシャチとペンギン、ローとかち合った。

「アルト、何処行くんだ? もう潜るぜ?」
「あ。ねえ、メイン扉の近くでロープフックって見かけた?」
「うん? 回収されてないのか? 俺とシャチは窓の施錠確認してたから扉の方には行ってねェんだが……船長、心当たりありますか」
「少なくとも、一階の廊下に転がってるっつう事は無かった」

 シャチの問いに質問で返してしまったが、寄越されたペンギンの返答は事実を確認し得るものではなくて判断に迷う。
 けれどもクルー全員が己の仕事を終えて船内へ入った今現在、もしロープが甲板に見当たらなければ既に中へ運ばれたか、船が揺れた拍子に海原へ落ちてしまったかのどちらかになる。見付けられたなら勿論仕舞えば良い。

「もしかしたら未回収かも、って三班が言っててさ。ダブルチェックしてくる」

 いずれにせよ確認だけしようと、止めていた足を動かしてローの横を通り過ぎる。

「そうか」

 だがすれ違った、と思った直後に後ろから肋骨の下を囲うように腕が回されて、真横にぐん、と引かれた。

「ぉわっ!? ──ッちょ、ロー、入ってる! 鳩尾に肩入ってる……!」
「ペンギン、チェックを」
「アイアイ」

 これでも筋肉がある分、同じ身長で痩せ型の同性に比べれば体重はある筈なのだがいとも簡単に担がれた。両足が浮いている感覚が落ち着かない。
 殆ど階段しか見えない俺の視界の端を、つなぎを着た足が通ってゆく。

「風強ェし、オレも行ってきまーす。アルト、スープまだあるよな?」
「スープ? え、あるけど、別に俺行く──ギブギブ腹絞めないでロー!」
「行って来い。こっちは躾ておく」

 断じてベテランクルー二人を信用していないという訳ではない。ただ俺は今日まだ風呂に入っていないので濡れても構わない。

 だが顔を上げようとした途端に腰に巻き付いている腕の力加減が強められ、胃の辺りと脇腹を締め付けられて降参の声が出た。体表面のオーラを調節して対抗しても間違いなく気付かれるので生身のままローの腰裏を掌でタップするも、ペンギンとシャチの足音が遠退いて尚ローは腕を解いてくれない上、段を降り始めてしまった。

「待ってロー降りないで一歩毎に、ッ肩が、入っ……! ぅッ、」
「お前、料理の時とか無意識に片側の足に体重かけてるんじゃねェか。多分、肋骨の位置が左右で少しずれてるぞ」
「何でそんなのっ、分か、ぅえッ!?」

 ローの鍛えられた筋肉に覆われている肩が、ローが一段降りる度に腹へと押し付けられて地味に苦しい。しかも最後の最後に、一段飛ばして降りられた。
 着地した拍子に鳩尾へやや深く肩が食い込み、靴の中で爪先を丸めて悶える俺をローは無言で運ぶ。

 そもそも躾って何だ、と訳が分からず大人しくしていると、突き当たりの船長室に差し掛かって人の気配が失せたタイミングで歩みが止まった。そのままローが前傾する事で上体の角度が戻り、足の先が床に触れたので重力に従って降りる。

 靴底が廊下を踏んだと同時、耳の斜め上から囁き声が寄越された。

「"能力者"を荒天時の甲板に出せる訳あるか。海に投げ出されたら終いだと思われてるんだぞ」
「あっ」

 口を半開きにして、間近の顔を見上げる。ローの顔はそれ程怒ってはいないが、これは俺があまりに迂闊だった。

 自分自身の習慣や体験の事をクルーに話す時、戦闘の時は素を出さないよう、違和感を持たれないよう気を付けていた。しかし航行に関する作業は慣れて身体に染み付いてきていただけに、嵐の只中で"俺"が甲板に出る事の意味を失念していた。

「……ごめんなさい」
「ん。気を付けろ」
「気を付ける」

 やってしまった、と目線を落としつつ詫びると、曲げた指の背で一度額を小突かれた。

「飯を食って風呂済ませたら部屋に来い。肋骨の位置を矯正してやる」

 その申し出に、礼を言うよりも先に思わず鬼哭を見てしまう。すると再び額の真ん中をこつ、と指の関節でつつかれた。

「お前、俺が治療の大半を能力で解決すると思っちゃいねェか。実際触ってみて、ずれてりゃ背中側から押して整えるだけだ」
「……もうローはさ、色々出来過ぎて、意外と片足立ちで靴下履けないみたいなとこ無いと却ってバランス取れないと思う」
「何を言ってんだお前は」
 



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