序章 



 廊下を歩くと、ふわりと出汁の香りが漂ってくる。

 朝起きて顔に冷水を浴び、居間へと向かう間にこの香に鼻先を撫でられる一連の時間が、レイリーは好きだ。
 庭の木々は全ての葉を落とし、雲間から射す鋭い陽射しを浴びている。昨夜も遅くまで小雨が降り続いていたと言うのに、新聞に載っていた天気予報によると、明日からの三日間も雨天らしい。貴重な晴れ間は、とある若者の今後を左右するかも分からない話を切り出すにあたって決して悪くない天気だ。

「ゾロ、此処にしまってた料理酒知らない?」
「…………」
「飲んだ? 飲んだな? 酒蒸し用だって言ってあっただろ、もー! そもそもアレ料理酒だからな!?」
「美味かった」
「そりゃ良かったよ!」

 今日の台所は少々賑やかだ。
 障子を開けて一旦私室を通り抜け、台所に繋がる扉の取っ手を捻る。
 物音に気付いたアルトが振り向いた。

「おはようございます、師範。……じゃなかった、レイリーさん」
「おはよう、流石にそろそろ言い慣れてきたか。私はもうキミに師と呼んで貰える立場ではないからな」
「俺にとっては変わらず師範なので、つい……」

 思わず言い慣れた呼称が出てしまったのだろう、気恥ずかしさを誤魔化すようにはにかんだアルトの背後で、ゾロがまな板の上でまだ薄っすら湯気を昇らせている卵焼きの端を口に招いている。

「今日のはそぼろ入りじゃねェのか」
「最初にそっち作ったけど、ルフィにアレ絶対入れてくれって言われてたからルフィの弁当に全部入れちゃった。食べたかった?」
「アレはアレで酒に合う」
「また今度ね。はい、そっち運んで」

 卵焼きを長方形の皿に乗せたアルトが指した先では木製のトレイに味噌汁の注がれた椀と小鉢が三つずつ置かれている。
 ゾロがそれを運ぶ背に続いて居間に移動し、掘りごたつ式の卓に着いたところでアルトも別のトレイを持ってやってきた。

 白米、豆腐となめこの味噌汁、卵焼き、ほうれん草と油揚げの煮物、鰤の塩焼き。一汁三菜の献立が並べられる。
 レイリーの好みに合わせて朝は必ず和食を拵えてくれるアルトだが、味噌汁と青菜の煮物は特に味が安定していて食べ飽きない。

 卵焼きも刻んだ葱や黒胡麻を混ぜ込んだり、甘辛く味付けした鶏ひき肉が巻かれていたりと、なるべく同じ味が続かないよう工夫してくれているのが伝わる。今後この朝食が食べられる機会が激減するかもしれないとなると惜しくはあるし、ゾロは残念がる事だろう。

「今夜はご飯要るの」
「ミホーク次第だな。前に話したろ、あのオッサン熱が入ると指導が長くなる。あんま遅くなったら帰るまで腹減ってんのを我慢出来る気がしねェ」
「顧問をオッサン呼ばわりしない。じゃあなるべく四時までには連絡して」
「おう」

 青年二人がぽつぽつと会話を交わす傍ら、皿や椀の中身が段々減ってゆく。
 各自の平皿の上に魚の皮のみが残る状態になったところで、グラスに注がれた冷たい緑茶を一口含んで喉を潤した。最近のペットボトル飲料は意外と旨い。

「ゾロ、今日の講義は午後からだったな?」
「ああ」
「アルトに話があるんだが、キミも聞いてくれるか」

 そう切り出せば、向かいに並んで座る二人が顔を見合わせる。
 背筋を正させるような内容ではないと個人的には思うが、レイリーが箸を置く動作に併せてアルトも湯飲みを卓上に戻した。

「何?」
「芸能界に入る気はないか?」

 最初に用件を告げると、正面のアルトが唇を薄く開いて呆けた。隣のゾロも幾らか瞳を丸くして虹彩の輪郭を露にしている。

「げ、……芸能?」
「ああ。もう少し詳しく言うとアイドル界だな」
「アイドル!?」

 鸚鵡返しをするアルトの声が裏返る。

「何がどうしたらそんな話になるの!?」
「私の知り合いが芸能事務所を経営しているんだが、男性アイドルを輩出したいんだそうだ。人材に心当たりはないかと訊かれてなァ」
「いや、そんな……その、素人が飛び込んで良い世界に思えないし、俺になんてとても務まるものじゃ……」
「そうか?」

 予想通りの反応ではあるが、困惑しきった顔のまま首を左右に振られる。
 しかしその横から思いがけない援護射撃が放たれた。

「お前を紹介してくれって、学校の女に何回か言われた事あるぞ。高校の時から」
「え? 何で……?」
「理由までは知らねェが、大体はお前が俺の迎えに校門ら辺まで来た日の翌日とかに言われた。つまり女にウケる容姿なんだろ」
「はあ……」

 アルトの相槌はまるきり他人事のそれだが、ゾロから些か興味深い話が聞けた。
 極度と言っても過言ではない程の方向音痴であるゾロの為に、自身が自動車の運転免許を取得してからは時間の都合が着けば車で迎えに行っているアルトは、それなりの容姿の持ち主だ。好みは人それぞれだとしても、芸能人として活動するにあたって及第点を超えているのでは、とレイリーには感じられる。

 元々アルトは、レイリー行きつけの定食屋を営む夫婦の息子だった。
 八年前に両親が交通事故で突然他界し、茫然自失状態だったアルトを引き取った。

 両親の人柄を気に入っていたのもあったし、痛ましさに手を伸べてやりたくなった同情も皆無ではなく、当時から定食に必ず付いてくる味噌汁を年若いアルトが作っていたとも知っていて、「あの味噌汁をこれからも作ってくれないか」と打診した。

 当時アルトはまだ十四歳だった。冠婚葬祭の手続きの仕方など知る機会があろう筈もなく、先ず心境としてそれどころではなかったに違いない。
 訃報を聞きつけたレイリーが代わって諸々の手配や費用の支払いを済ませた事もあり、最初は申し訳なさや恐縮や、何よりも喪失感といったものが心に蓋をしていたのだろう。

 アルトが両親の死に対してレイリーの前で素直に涙を見せたのは、事故から二週間は経った頃の事だ。そして実際に味噌汁を作るだけの気力を取り戻すまでには半年を要した。
 元々料理は好きだったのだとしても、料理という行為やそれに付随する景色は、両親との思い出に直結する。他にも何か心を整える為のものを用意してやれればと昔取った杵柄で空手を教えたところ、みるみる上達した。

 こつこつと反復練習を積み重ねる事が苦ではない性格のようで、トレーニングを重ねるにつれ肉体も出来上がり、高校生の時点で既に黒帯を獲得した。高校卒業と共にレイリーからは一応の指導終了も言い渡したが、引き取ってからの殆どの時間を師弟として過ごした影響か、未だアルトは時折レイリーを「師範」と呼ぶ。
 レイリー自身黒帯を持ち、全国大会で優勝した経歴はあるが、何処ぞの学校や道場で指導する立場に就いた事はない。教え方は我流だ。であればこそ、素直に言う事を聞くアルトは可愛い弟子だった。

「武術とダンスは全くの別物なのは承知だが、キミの体幹やスタミナがあれば土台として充分だろう、と思っての推薦でもある」
「ダンスなんて中高の体育の授業でやったきりなのに」
「何だ、下地があるんじゃないか」

 そういえば昨今の義務教育に於いてはダンスは必修科目だったか、と言葉を返せば、アルトはやはり弱った顔で椅子の背凭れに寄りかかる。

「いや、下地って言うか……嫌いな科目ではなかったけど」

 芸能人になる、イコール自らを売り物にするとなれば、並々ならぬプレッシャーが掛かる想像は易い。自身の容姿に自負が在るような言動をした事のないアルトの腰が引けるのも、本人の性格からして無理もない。
 だが芸能界という単語の持つ表面的な煌めきだけに飛びついてしまうよりかは、余程『良い反応』だと思う。

 加えてゾロが言ったように、アルトがステージ上でにこやかに手を振って黄色い歓声を浴びる光景は、不思議と難なく思い浮かべられるのだ。
 とは言え、熱意、意欲、行動力と呼ばれるものが無ければ続かない職というイメージもある。これでも押し付けるつもりはない。

 ただ今回ばかりは、レイリーにも少しの事情というものがあった。
 話に挙げた事務所が知り合いの──その一言で片付けられる関係かと言うとそうでもないのだが──シャクヤクが立ち上げた会社なだけに、一助になれたらとは思う。
 だが仮にシャクヤクがアルトを気に入ったとして、当のアルトがどうしても気が進まないと言うのならレイリーなりに庇ってやろうかと考える位には、アルトを可愛がってもいた。

「でも、レイリーさんの手伝いとか……。これから収穫の時期で、」
「元々道楽の延長で始めた仕事だ、気にしなくていい。節介に聞こえるだろうが、若い内に多くの経験と体験を積み重ねて、生を楽しんで欲しいのだよ」

 アルトは高校を卒業して以降、レイリーの自営業の手伝いをしてくれている。
 複数の陸地が連なり、或いは隣り合って海原に浮かぶこの世界は船による各地への往来が盛んで、苔や錆の発生を抑制する塗料の需要が高い。

 レイリーが特定の植物を煮出して抽出したエキスを混ぜ込んで作るコーティング材は肌に付着しても皮膚が荒れにくく、他の商品にありがちな糊の匂いも気にならないと評判は上々だ。山道に生えている草を集めなければならないのでアルトの協力は有難かったものの、何が何でも後継の人材を育成しなければとまで焦ってはいない。

「一先ず、会社に顔を見せるだけで構わん。頼まれてくれるかね。ユニットを作りたいと聞いているから一人きりで売り出される事は先ず無いと思うが……顔合わせの時点で相手とあまりに反りが合わなさそうだと感じれば、それを辞退の理由のひとつにも出来るだろう。キミが全くの素人だという点も予め伝えておく。返答に困ったら『持ち帰って検討させて頂きます』と言ってしまって良いぞ」
「…………じゃあ、顔見せ、だけなら……」
「ありがとう」

 アルトが小さく頷く。八割方、レイリーの顔を立ててくれての返答だろう。
 何かと気を遣えるのはアルトの長所ではあるが、拒否も甘えも今ひとつはっきりとは示せないところがある。

 極力レイリーが先回りする、若しくは有無を言わさぬ形で甘やかすようにしてきたつもりだが、アルトは何事に於いても先ず自助努力に努めようとする人間として成長した。
 それの何が悪い訳でもないし、ルフィとゾロという年下の同性が同じ屋根の下に居た事で、自分がしっかりしなければという意識が育った部分もあるかもしれない。

 ただ、未知の世界に触れてみて、良い意味で上手く大人を頼る事を知ってくれたならと。
 そんな保護者目線から生まれた動機も、此度の提案には密かに練り込まれている。
 



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