「なァ…、大丈夫かな? 万が一落ちたりしたら…」
「だよな、オレも思った。アイツ能力者なんだろ?」
「え、そうなのか? マジで?」
「おう、ベポがそう言ってたぜ? ベポは冗談とか言わねェから本当なんだろ」
「降りるよう言うか?」
「…………言いにくいな、何か…」
「同じく」

 床掃除を終えたのだろう、甲板に繋がる扉の前でモップをバケツに浸けて洗いながらしきりに甲板の方へ首を伸ばしつつ話す三人のクルー。抑えた声量で交わし合う会話が何を指しているのかいまいち掴めず倣って外を覗いてみれば、直ぐに合点がいった。

 今日は朝方から風も波も随分と穏やかな日で、洗濯日和とあって潜水艦はその船体の上半分を海上に覗かせていた。浮上した当時こそ湿っていた甲板も太陽が高々と昇る今はすっかり乾いて、端の方で船長が刀を抱き込んだまま昼寝をしている。
 その傍らでアルトが、器用に手摺の上でしゃがんだ儘カモメに餌をやっていた。

 昼食の余りだろうコッペパンを千切っては投げ、時には掌に乗せて、五羽のカモメに代わる代わる与えている。特別珍しくもない至極普通のカモメに囲まれて、その中の一羽を頭に乗せているアルトは妙に楽しげな顔だ。

「アレ大丈夫か? 何かの拍子に落ちたりしねェ?」

 扉側の壁に寄り掛かって拳銃の手入れをしているペンギンを見付け、隣まで近寄ってから念の為に腰を屈めて声を抑えつつ尋ねる。

 能力者であるアルト──アイツが能力者らしいとオレが知ったのはペンギンからそう聞いたからだが──が洗濯をするにも風呂に入るにも、誰よりやけに気を配っているのがペンギンだ。うっかり強風に煽られて海へ転落でもしたなら確実に溺れる、と分かっている場所でアルトの好きにさせている事が意外で投げ掛けた質問には、弱ったような眼差しが返ってきた。

「注意はしたんだが…、本人が大丈夫だと言うんでな」
「いや、つっても足場にするにゃちょっと狭いだろ」
「カモメに餌を遣るのが初めてなんだそうだ」
「え? まァ、カモメってあんま食用にはしねェから、見掛けても態々餌で気ィ引いたりしねェだろうけど…」
「視界の三百六十度を海に囲まれた景色も、…水平線から昇ってくる朝日も、どんな魚が泳いでるのか分かる澄んだ海面も、アルトは初めて見るらしい」
「………は、…?」

 どういう事だ、と間の抜けた声が出てしまう。海原で見る夜明けの光景が初めて、という事は。

「俺達がほぼ毎日当たり前に見てる物のそれぞれに、アルトは乗船してからずっと、凄い凄いと目を輝かせてばかりだ。カモメなんて俺個人は見飽きてるが…シャチお前、これ聞いた上で、アイツに手摺りから降りろって言えるか」
「……いや、何か無理…」
「だろう。…近々、潜る機会があると良いんだがな。潜水艦に乗るのも初めてらしいから、海中も見せてやりたい」

 ペンギンお前、過保護だなァ、と。思ったものの言えなかった。

 アルトを拾ったあの無人島は、海の真ん中にぽつんと浮かんでいて、他の島と陸や橋で繋がってなどいない。よって船でなければ辿り着けず、故にアルトは独りで放り出されるまでの間、確実に"船"には乗っていた筈だ。
 それなのに視界一杯の海も、鏡写しになった太陽も、オレ達と出会ってから初めて見るだなんて。その意味を深く考えたいとは思えず、ぼんやりアルトとカモメの群れとを眺める。

 そうして居ると、ふと居眠りしていた船長が頭を身動がせてから瞼を開けた。
 柵に凭れかけさせていた上半身がゆっくり起き上がると、傍に居たアルトも船長の目覚めに気付く。

「ロー、おはよ」
「……ああ。…何やってんだお前は、頭の上パン屑だらけだぞ」
「ハハ、何かこの子だけ俺の頭がお気に入りらしくてさ」

 立てた膝に頬杖をついて眠たげに細めた瞳を瞬かせる船長に、アルトが手摺りの上へ座り直しながら声を掛ける。
 それに反応して顔を上げた船長の顔が、自らの頭にカモメを乗せて自分を覗き込みながらにこにこと笑っているアルトを見て──少なくともオレが今までに見た覚えのない、綻び方をした。

 船長はベポと話す時にも割と表情が和らぐが、それともまた違う。仕方のない奴だと言いたげに浅く眉が寄っているのに、眼差しが随分と柔らかいのだ。口角を少し上げる笑い方も、その目付きが相俟って不敵さなど有りやしない。

 寝起きの所為もあろうとは言え、珍しいものが見られたなあと思わず二人を凝視してしまう。
 アルトを見付けたのも、乗船させると決めて連れ帰って来たのも船長だから、案外船長もアルトへ同情して気に掛けているのかもしれない。普段の冷静で知能派な隙のない船長も尊敬してやまないが、こんな風に温かみの在る部分を無自覚に見せられては、これだけ長く共に居て尚人柄に惚れ込むばかりだ。

「シャチ、紙とペンを持て」
「ん? 何でだよ、オレもお前も日誌当番じゃなくね?」
「何を言ってる、船長のあの巨匠が描いた名画かと見紛う一瞬の美を形に残す為に決まっているだろう」
「いやペンギンが何言ってんの?」
「海に出て、トラファルガー・ロー船長の下に就いて早幾年月……俺は、今の今まで船長のあんなにも柔らかな微笑みを見た事がない…!」
「うん、まァ、それはオレも同意見だけど。目ェ怖ェよ? ペンギンちょっと目ェ怖ェよ?」
「しかもアルトがあんな…あんなに、無垢な子供のような笑顔を…! これまで苦労ばかりだったろうに、あの笑顔を引き出したのが船長であり、また船長にあの微笑みを浮かばせたのがアルトだと思うと…っ、二人を見ていると、心が、洗われるようだ…!」
「お前今これアルトに聞かれてなくて良かったな、聞かれてりゃアルトのペンギンに対する頼れるお兄さん的イメージも洗い流されてそうだもんな」
「ああ駄目だ、こうして居る時間が勿体ない! いざ描かん俺のユートピア!」
「えっちょ、待てってマジで描く気か!?」









「別にペンギンさんのイメージが根っこから変わりはしないけど…」

 扉の向こう、船内に続く廊下を駆けて行った背中にはもう届かないだろうな、とは分かっていて一応呟く。
 やけに真顔で話し込んでいるペンギンとシャチの会話が気になって好奇心から両耳へ「凝」を施して聴力を強化したら、彼等の表情に似つかわしくない内容が聞こえてしまった。野生のカモメが意外と可愛くてへらへら笑っていた所を見られていたとは恥ずかしい。

 日頃からペンギンの言動の端々にはローへの敬愛が表れていて、それは他のクルーにも言える事だが、俺が知っている以上にペンギンはローの事を個人としても船長としても慕っているようだ。おまけに俺の事も気に掛けてくれて、本当に海賊なのか疑ってしまいたくなる位に「良いお兄さん」である。

「何か言ったか」
「ん、ローはクルーの人達に愛されてるなって」
「…他に表現ねェのか」
「慕われてる?」
「……、まあ良い」

 信愛も敬愛も愛情の形の一つだろうに、愛の文字を取り入れた言い様はローには受け入れ難いらしい。部外者の俺が端から見ていてローは部下から好かれていると判るのだから、好意を受けている当人も当然実感している筈だ。と言いつつ、認めるのが照れくさい、だとか言うのであれば大いに共感出来る。

 俺の手元からパンが無くなると、手摺りや床、それから頭の上に居たカモメ達は鳴きながら何度か俺の近くを旋回して、空へと羽ばたいていった。

 基本的には家電品と電気が溢れる都市部で暮らし、移動も電車や飛行船を用いて、鮮魚が卸される市場へ競りに出向く事はあっても漁など滅多に行かなかった俺には、此方の世界の海はとにかく綺麗に映る。
 山、森、ジャングルと言った陸地になら食材を求めて頻繁に訪れていたが、陸と違って入手する獲物の量や種類が運任せになってしまう海にはあまり足を運ばなかったので、海に関する体験が少ない事も理由だろう。
 どちらかと言えば都会っ子だった俺には、水中に居る魚の模様やヒレの形まで分かるぐらい透明度の高い海は、何時間見ていても飽きない新鮮な情景だ。

 どんどん小さくなってゆくカモメの影を眺めていると、隣から小さく欠伸が聴こえた。見下ろすと澄んだ灰色の瞳とかち合う。

「アルト、」
「珈琲は却下。ロー朝ご飯食べてないだろ、胃に良くないよ。ミルクティーなら淹れるけど」
「チッ、…ミルクは要らねェ、ストレートで良い」

 医者だと言う割には自分の具合に其処まで頓着しない珈琲好きのローに度々紅茶を淹れる俺も、大概かもしれないが。こうしてローが許してくれる事に甘えて節介を焼かせて貰える、という立場は何だかとてもあたたかい心地になる。

 特に意図もなくローと目を合わせたまま顔を弛ませると、ローは何を言うでもなく此方を見上げた後、ほんの僅かに唇の端を動かした。何度か瞬きをしてみても、その笑みは視界の中に在り続けた。




story idea >> あずささん(昼下がりの甲板にてカモメと戯れる主人公、それを見守るローの笑みに悶えるペンギンまたはシャチ)


 


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