「……飯は好きな所で済ませて来い。夜には戻る」

 些か抑揚に欠けた声色が紡いだ台詞に、「ええっ、ホントに今夜だけなのォ!?」と甲高い声が後続する。だが直後に船長は顔の向きを戻して歩みを再開し、反対に女がちらりと振り返った。

 少し眉が太めで、目尻が吊り上がって唇の厚い、美人というよりは色っぽいと称する方がしっくりくる容姿の女だった。この手合いを好む層は一定数居るだろう。失礼ながら派手好きな気質が多い印象の顔立ちだ。

 珊瑚色のルージュで彩られた唇が、にいっ、と笑う。得意気な──と言っても微笑ましさなど微塵も抱かせない種類のものだが──眼差しを一つ寄越して、女は早々に船長の腕へ自らの手を絡ませながら去りゆく。

 何とも言えない不気味な余韻が残る空気の只中に取り残され、やけに素直に女の要求に応じた船長の態度を怪訝には思いつつも隣人へと意識を移した。
 あの女に呼び止められて以降、アルトは一言も発していない。

「…アルト?」
「……、うん?」
「え、どうした?」
「んっ? どうしたって、どういう事?」

 呼べば、やや経って相槌が返る。直前まで歩道の前方を見つめていた瞳は今や俺を映しているものの、明らかに元気も覇気も失せていた。

 その表情に頭の何処かで違和感を覚えてつい思った儘を零すと、アルトも首を傾げる。
 確かにどうしたとは何だと我ながら思えど、今の疑問は俺の素直な気持ちだったので撤回しようもない。しかし殆ど思考せず口に出したが故に補足も拙くなる。

「ああ、いや、…ほら、船長が女に言い寄られるのは珍しくないだろう? ちょっと強引と言うか我の強そうな女だったが、そういう人間でも船長は甘く見て油断したりだとかしないのはお前も知っての通りだ。心配要らないさ」

 この一年ほどですっかり船長に懐いたアルトは、今となっては古参のクルーに肩を並べる程船長からの信も篤い。船長が手ずから刀の扱い方を指導している事もそうだが、やはり互いに能力者であるからこそ通じる部分もそれなりに在るに違いない。
 いつの間にか上陸先で宿泊する時に船長とアルトは隣室になる事が自然になっていたし、必要に迫られて泊まる部屋の数を絞らなければならない時は当たり前のように船長はアルトを傍に置く。

 贔屓と言えばそうなのかもしれないが、それを妬む気持ちは生まれ得ない。悪魔の実の能力者が持つ苦労やらに対して共感も出来ない歯痒さは恐らく何年経とうと健在だろうが、それ故アルトが船長の近くに居るのは良い事だとも素直に思っている。かつてウォーターセブンでアルトへそう告げた思いは相変わらずだ。

 他のクルーも概ね「船長も弟にゃ甘ェんだなァ」とからかうのが常だ。これでもしもアルトが船長の威を借りて陰で偉ぶるような奴であったなら風当たりも強くなったかとは思うが、実際は懸賞金が上がる度に「やっちゃったよ…」と宴席で浮かない顔をする、甘え下手でクルーと女に優しくて、社会勉強が少々苦手な実力者である。
 初めて挑戦した味付けの料理が上手くいったから、と嬉しそうな顔で測量室まで味見用の小皿を持って報告に来るような年下の後輩を、悪く思う筈もない。

 そんなアルトは船長が酒場や繁華街で女に絡まれる度、大概「すごいなあ」と感想を呟く位で終わってきた。船長の人気が凄いという意味の時も、寄ってきた女の服装や誘い文句が凄いという意味の場合もあったが、基本的には割とさっぱりした言動で見送ってきたと記憶している。

 それなのに今回はこうも浮かない顔をするのだから余程心配だったのだろう、と予想したつもりで足した俺の言葉は、アルトの面持ちを良い方向に変える力は無かったらしい。

「ん、…うん」

 歯切れ悪く、相槌一つ。声の終わりに被せて細く吐息を漏らす様には、がっかり、の表現が当てはまる。
 アルトの右手は船長の財布を持った儘なので高級レストランでもバーでも行き放題なだけに、その仕種を目の当たりにしてから漸くアルトの表情が晴れない理由を察した。

「楽しみだったんだな、船長と買い物行くの」
「…ローがそうしたいんなら、行くなとも言えないんだけどさ。ちょっとあの女の人の態度好きじゃないなって思ったから余計、何か……うーん、残念。かも」

 考えながら話しているのかぽつぽつと断続的に零れる言葉に、この場に居ない船長への遠慮が多少透けて見える。
 直感的に好けなかった女に船長を横取りされたから普段のようには見送れなかったという事か。若干子供っぽいが、可愛らしいで済む範囲だ。

 何ならあの時アルトが素直に船長を引き留めていたなら、案外船長はアルトを優先していたのではと思う。
 此方を向いた薄灰色の双眸が一度アルトの方を捉えた時、今のアルトとよく似た惜しそうな眼をしていたのは印象的だった。前夜に酒を呑み過ぎた影響で、翌日の昼食ではアルトの作ったこってり系のスープを諦めざるをえなかったような場面でよく見る、ほんの少し悔しそうな顔だった。

「んー……?」

 あしらうにも手間のかかりそうな女が故に相手をすると決めたのかとばかり思ったが、落ち着いてその表情を思い返してみると妙な気もする。気が乗らないのに無理に女の誘いに乗じる人ではない。
 あれではまるで、弱味を握られた反応だ。

「どうしたの、ペンギンさん」
「いや、何だか……選り取りみどりな船長にしちゃ妥協したなァ、と言うか。俺もあの女は正直どうかと思ったけどな。本人が頷いちまったら横から口出すのも無粋だし、言わなかったが。…ま、取り敢えず飯行くか? 西の通りに屋台が並ぶ一角があるみたいなんだが、食べ歩きってのも乙だよな。ちょいちょいつまんでいれば結構額はいくだろうが」
「あ、俺そっちが良いかも…。高級店も行ってはみたいけど」
「俺だって敢えて食事で贅沢な思いしたいさ。ログが貯まるまでまだ日にちはかかるし、高い店は改めて船長誘って行かないか?」

 小さく頷いたアルトの雰囲気が少し和らぐ。その視線がカフェのテラス席には向いていない事に安堵しつつ踵を返すように促し、自分でも逃げるようだと自覚しつつ、空腹だからと誰に宛てるでもない言い訳を内心で語りながらその場を離れた。


 



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