板張りの床を踏む。ショートブーツの踵がゴツッ、と音を立てた折に鼻を刺した臭気に反射的に歩みが止まり、同時に開けられた扉の後ろから男が一人姿を現した。更に増す酒の臭いに俺が眉を寄せる後ろで女の声が上がる。

「えっ、何!?」

 驚いた、ような声音。彼女が一端の海軍兵だからだろうか、民間人が不審者と遭遇した時に口から上げがちなものに比べると切迫感や恐怖の色が薄い響きに、本人は休暇中だと言ったが立場としては敵対している女性を庇うべきなのかと一瞬次の挙動に迷ってしまう。
 その惑いを突くように、いきなり片手を掴まれた。

「聞いてないわ、場所変えましょ!」

 ガチャン。
 そんな言葉と共に後方へ引かれた手首へ、硬い物が巻き付く感触と音。
 咄嗟に払おうと腕全体を横へ振り抜くと、僅かな時間差で手首がびん、と軽く引っ張られる感覚に続いて、女性が「キャッ!?」と短い悲鳴を零した。

 女性が顔の横まで掲げた腕に当たって床へと転がる、石で出来た輪。
 其処から一本の鎖が伸びて、俺の手首に嵌まるもう一対へ繋がっていた。

「うわ……」

 やってしまった。二重の意味で。
 こんな古典的な罠に引っかかった事は悔しいというより最早恥ずかしい。けれども片手は空いているので、手錠に「周」を施せば寧ろ武器に出来る。

 だが、巷では悪魔の実の能力者だと見なされている俺に、海軍が普通の手錠を使用する筈もないだろう。十中八九でこれは海楼石製だとは思うのだが、俺には効かないが故に、体感による判別も不可能だ。海楼石に触れれば海水に浸かっているのと同じ状態に陥るのだから、平然と突っ立ってみせたら怪しまれる。

「もー、火事場の馬鹿力ってナメらんないわねェ。海楼石触ってんのにこんな動けるなんて」

 女性が前腕をさすりながらぽろりと情報を零してくれたので、取り敢えずその場にしゃがみこんでみる。仮に殴る蹴るの暴行を受けても全身を通常よりも多い量のオーラで覆う「堅」の状態で居れば大した怪我は負わない。
 ただし俺の「堅」はじっとしているだけの場合でも二時間しかもたないので、集団による交代制の長時間リンチだと少し不味い。

「はーい、イイ子ねェ。君は大人しくしといてくれるだけでいいから。あ、そうだ、あんた達。今朝荷物が届いてたでしょー? 開けてみなさい、前払いのご褒美よ」
「お、いいんスかっ」

 年端もいかない子供を相手取るかのような猫なで声で言う女性が俺の前に膝をつき、手錠を完全に嵌めてくる。オーラと能力を使って脱出しようにも海兵の眼前でそんな行為には及べない。
 歯噛みする俺とは真逆に鼻歌でも歌い出しそうな様相の女性が家屋の奥側へ向けてやや声を張ると、更に二人の男が寝室らしき部屋から出てきた。

 片方の男が縦に一メートルはありそうな細長い木箱を抱えていて、空になった酒瓶が転がる机にそれが置かれる。三人がいそいそと集まったところで蓋が開けられると野太い歓声が上がった。

「おお、すげェ! 上物だァ!」
「琥珀酒じゃねェっスか、ありがとうごぜえやす!」

 箱の中へ両手を突っ込んだ男が、それぞれの手に新たな瓶を掴んで引っ張り出す。二本の酒が縦に仕舞われていたようだ。
 中身は呼び名の通り見覚えのある琥珀色の液体で満たされていて、昨日の試飲が思い出された。俺は全く好みの味ではなかった酒も、地元の名産になるだけはあって人気を獲得しているらしい。

 酒を囲んだ男達が盛り上がる傍ら、女性が此方へ向き直って髪をかきあげる。その拍子にまたしてもあの甘い匂いが漂った。そろそろ勘弁して欲しいのだが、この状況でもストレートに「香水が臭い」と言ってしまう事には僅かながら良心が抵抗する。

 女性は首から下の髪を片手で身体の前に流して、しかし直ぐに背中側へ遣るという長髪の女の人特有の所作を挟みつつ、両手を脚の間へ垂らした俺の頬に指先を伸ばしてきた。

「それにしても。海賊で男な割には肌が荒れてないのねェ…ローもそうだけど羨ましいわァ。シミも無いし?」

 輪郭に沿って指先で肌を撫でられる事に対する不快感よりも、女性がローを呼び捨てにした事への苛立ちの方が強く湧いた。
 他の人間ならいざ知らず、この女の口がローの名を象る事は、どうにも気分が悪い。初対面の時はファミリーネームを呼んでいた筈だ。

 馴れ馴れしい、と吐き捨てたくなるのを抑える。自分の中に眠っていたのか、それとも新しく生まれたのか、こんなにもあからさまで短絡的な負の感情に脳髄を焦がされる日が来るとは思わなかった。

「イイ子にしてれば、後で君も可愛がったげるわよ。アタシの好みとしては後ちょーっと筋肉ある方が良いけど、小綺麗な顔してるからじゅーぶんイケるわ」

 そんな台詞と共に伸ばされた爪が、つい、と顎のラインをなぞる。
 そうして妙にゆっくりと女性の顔が近付き、何か耳打ちでもするかのような様子を取り敢えず黙って眺めて────真っ直ぐ寄せられたその顔が僅かに傾いて互いの鼻先が触れそうになった瞬間、背筋を反らしながら両手を纏めて胸元まで勢いよく引いていた。

 手錠を繋ぐ鎖が、ほんのコンマ数秒遅れて跳ね上がる。石で造られた、それなりに重い鎖の一部がしたたかに女性の喉近くを下から殴り、思わずといった風に首へ片手を宛がった女性はよろめいて、バランスを崩して尻餅をついた。

「……っ、なん、…!?」

 化け物でも目撃したかのような眼差しが、乱れた金髪の間から覗く。
 俺の顔色も負けず劣らず悪いだろう。もう少し反応が遅れていたなら口付けを交わす羽目になっていたかもしれなくて、その想像を抱いた脳が発する嫌悪の信号を代弁するように、心臓がばくばくとやけに強く脈動する。

「……触るな。次同じ事しようとしたら、噛み千切ってやる」

 決して好く思っていない相手から、一方的に度を越えたスキンシップをされそうになった事態への不快感と怒りが、拒絶の言葉に姿を変えて口から零れた。
 あまりにも唐突に敵方と口付けを交わそうとした女性の思考も心理も理解の外で、ただ不気味だった。意味が分からない。分かりたくもない。

 周りに居る男達は女性の部下が変装した訳ではなくて本当に地元の酔っぱらいらしく、目を丸くしつつも口や手を挟んでくる様子はない。

 呆然とした面持ちで俺の言葉を聞いていた女性は首元に片手をやったまま更に数秒呆け、けれども次にはガーゴイル像に例えられても文句は言えなさそうな程に眉間と鼻の頭へ皺を寄せて表情を憤懣に歪め、剥ぎ取るようにして自らのジャケットを脱ぐと俺の顔面に投げつけてきた。

 



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