ふぅーっ、という細長い吐息が、僅かに開いた唇から漏れ出す。向かいから歩いてくる通行人は大概俺の顔と鬼哭を視線だけで素早く確認し、それとなく道の端に寄った。

 まさかグランドラインの只中に浮いておきながら海賊の来訪に慣れていない島という事はないだろうが、今の俺が歩いているのは治安が良いとされる地区なだけに物騒な出会いには耐性のない人間が多いのかもしれない。或いは、俺が相当な仏頂面なのか。機嫌は良くない。

 泊まっているホテルへ辿り着き、フロントカウンターまで出向こうとした折、乾いたモップでロビーの床を拭いていた従業員が遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、トラファルガー様。相部屋のお連れ様はお戻りになっておりますので、お部屋の鍵もお連れ様が…」
「…そうか」

 フロントの壁掛け時計を見遣れば、時刻は二十時を過ぎたところだった。てっきり俺の方が先に帰ったと思っていたがアルトとペンギンは本当に食事だけをして戻ってきたようだ。

 そういえば、アルトは鞄を買ったのだろうか。

 買ってやる意思表示はしたものの俺が選ぶとまでは言っていない。俺の財布は持たせた儘だったのだから気に入った物が見つかれば恐らく買っただろうし、何もピンと来なければ財布からは食事代としてせいぜい数枚の紙幣が無くなっているだけだろう。
 いっそ本当に高級料理に舌鼓を打ってきた、と満足そうに報告してくれた方が良い。何故かそんな事を漠然と考えながら階段を昇る。

 会釈するフロアの見張り番の横を通り、その場で小電伝虫から電話をかける。外出前に部屋には俺の私物の小電伝虫を置いて行った。
 宿泊先では室内に居る時必ず鍵をかけろと全てのクルーに言い付けている為、こうして同室の相手が鍵を持って室内に居る場合は中から解錠させる必要がある。

 「プルルル…、プルルル…」と口を尖らせて鳴く小電伝虫の顔つきが、一向に変わらない。
 従業員は俺と相部屋になっている相手が、つまりアルトが既に戻っていると確かに言った。客とは言え賞金首を泊めているのだ、見間違えやしない筈である。

 部屋の前に着く。コールが五回を超え、訝りが芽生えた。運悪く入浴中だろうか。だとしても、今やアルトは浴室に電伝虫を持ち込むぐらいの配慮は言われずともする。いつどんな召集や指示が告げられるか分からない生業だ。

 七回目のコール。あいつに、アルトに何かあったか。
 そう考えた瞬間、喉元が内側から綿毛で撫でられたようにざわついて、廊下の奥には見張り係が居る事にも構わず能力発動の為に思わず左手が動く。

 ──ガチャッ、

「あ、船長。良かったらこっち泊まってください」
「…ァア?」
「て言うかいかんでしょう、此処で能力使うのは。先走った従業員に通報されたら厄介ですよ。それとアルト、寝てるかもしれないんで」

 不意を突かれたのと刹那平常心が揺らいだ所為で、陳腐な不良が出しそうな声が零れた。
 隣室から顔を覗かせたペンギンはまるで此方の焦燥の原因を見透かすように意見し、宥め、子供を相手取る大人のように口元で人差し指を立てて「しーっ」と付け足してくる。

 代金を払って確保した客室での惰眠を諦める理由は無いのだが、この上階フロア内に在る部屋は設備も内装も同一だと館内パンフレットに書いてあった事を思い出して一先ず応じる。電伝虫の呼び出し声を聴いて顔を出したのだとしても、理由が無ければクルーが船長に向けて態々別の部屋に泊まれとは促さない。

「あの後アルトとは屋台街に行きまして。穀物を発酵させたっていう地元の濁り酒飲んだんですがね、どうもアイツには合わなかったみたいなんですよ。一杯だけで二日酔いみたいな状態になっちまって、けど吐き気や頭痛は無さそうだったんで早々に帰って部屋に入れました。今夜はごろごろさせてやってください」

 苦笑混じりのペンギンの言葉を簡潔に纏めると、アルトは体調不良により寝ている。そういう事である。
 気配には比較的敏感な節のあるアルトが電伝虫の鳴き声で起きないのだから、相当ぐっすり眠り込んでいるのかもしれない。夕食の同伴者からそう説明されれば頷く他ない。アルトは多少の不調なら我慢をして俺の世話を焼こうとしそうな気もする。

 ──ガチャッ、

「ペンギンさんごめん、さっきこいつ鳴いてたかもしれなくて折り返し……」

 今しがた聞いた開閉音を伴って、話題に挙げていた本人がひょっこり現れた。振り向きざまに視線が合う。

 俺が一瞬予想した通り風呂に入っていたようで、濡れて束になった黒髪の先では雫がみるみる体積を増やした傍から落下し、首にかけられたタオルへ吸い込まれる。
 想像していたよりは悪くなく、しかし言われてみれば良くもなさそうな顔色で言葉も足も止めたアルトの目線が、ゆらゆらと此方とペンギンの間を泳いだ。

「…お帰り」
「ああ」
「もしかして電伝虫鳴らしたのってロー? ごめん、出られなかった…」
「いい。具合悪ィんだろ、話は聞いた。今夜はそっちの部屋で寝て回復しろ。連絡した用件はもう済んだから気にするな」
「ローは?」
「この部屋に移る。ペンギン側からの誘いだから支障はねェ」

 そうだろ、という言外の台詞を込めて目配せするとペンギンからは首肯が返る。本来ペンギンと同室であるのは他のクルー二名だが、今夜は帰らない旨の連絡があったのだろう。

「あと、………」

 言いかけて、淀む。足しそうになったのは報告のような言い訳のような何かだった。
 あの女とは何も無かった、といった内容をアルトへ渡そうとして、だが実際には言葉にしなかった。これではまるで浮気の疑惑を向けられて弁解するかのようだと頭の端で自分自身に呆れる。

 アルトの態度は普段とそう変わらない。夕暮れに別れた時と比較すれば表情も普通だ。
 続く言葉を待つアルトが擡げた掌に、俺と揃いの帽子を被った電伝虫が乗っている。出入口の近くに居た事もあって片足を引いてから腰を捻れば簡単に手は届き、殻部分を掴んで引き寄せた。

「これは預かる。俺の財布は部屋に在るならその儘で良い」
「…分かった。ごめん、明日には体調戻すから」
「ログが貯まるのは三日後だ、あと二日で完治すりゃ問題ねェ」

 いつも通りの筈ながら、ほんの少し、僅かばかり、互いの声から温度が削げている。そんな風に感じるのはアルトが不調で、俺は苛立ちを引きずっている所為なのだろう。
 頷いたアルトが扉の向こうへ姿を隠し、ガチャン、と音を立てノブが回りつつ閉まる。一歩近付いて内鍵をかける俺の背後でペンギンが首を傾げていると知るのは、振り返った矢先の事だ。


 



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