間近に居たルフィの姿が、瞬きを一度する間にローへと変わる。
 能力を使用しながらも珍しく帯刀していないローが見据える先では少し離れた位置にルフィが居て、自らの身に起きた現象にも全く頓着せず腕を振り回していた。

「ゥウ…! くそ、っエース、エース……!」
「何でこんな状況に?」
「アイツの世話当番だった奴等が片方は用足しに、もう片方は点滴のパック補充しに行った僅かな空き時間に偶々意識を取り戻したらしい。途端、錯乱してこのザマだ。俺も又聞きだがな、…ったく、人の船で暴れてくれやがって」

 何かを掴もうと、でなければ引き裂こうとするかのように五指を曲げた手を縦横に薙ぐルフィの目は相変わらず此方を見ていない。
 吐き出すようにして何度も何度も兄の名を呼ぶ様子に、その声色が醸す肉体的なそれよりもっと深い所で疼いている痛みに、泣きもせずに顔をぐしゃりと恐怖と哀願で塗り潰している様相に、今度は肋骨の内側を刷毛で撫でられているような何とも言えない感覚を覚える。

 これは歯痒さなのかもしれない。
 俺には兄弟姉妹は居ない。両親も、ある意味病に殺されたと言えばそうなのだが、他人の手によって強制的に望まない死を迎えさせられた訳ではない。俺とルフィとでは恐らく体感した痛みの種類が違う。悲しみの質が違う。
 少なくとも家族を見送る為の準備をする事は出来た俺は、ルフィにかけられる言葉を一つとして持ち合わせていない。そもそも彼自身の事とて名前と懸賞金額しか知らない。

 そして彼の人生に介入するつもりは、俺には無いのだ。だからこれは、共感も同情も出来ない事への歯痒さなのかもしれない。

「岩場に飛ぶぞ。掴まれ」
「…ん、」

 肩越しに振り向いたローの視線を感じつつ、何となしに見返す事が出来ない儘その肘辺りを掴ませて貰う。直後に景色が切り替わり、唐突に眼を刺した陽光の眩しさに思わず強く目を瞑ってしまった。

「…どうした、さっき麦わら屋に殴られるヘマでもしたのか」
「急に屋内から外に出たから眩しい…」

 目を忙しなく瞬かせる俺を見たローの言葉に依然双眸を細めてしまいながら答える。急な刺激に涙がじわりと瞳の表面に膜を張った。

 更に何度か瞬きをして景色を元通りにしている最中にも、離れた位置へ同時に転送されたルフィが早速暴れだす。
 突然がらりと周り一帯の情景が変わったのだから、もう少し戸惑うなり驚くなり平常心を取り戻すきっかけに繋がるリアクションがあるかと期待したのだが、そんな様子は見受けられない。

 移動先である岩場で思い思いに寛いでいたクルーの皆が一様にぎょっとした表情になる。サークルが此処まで拡がってきたならローがやってくる事は察しがついたかもしれないが、ルフィの目覚めと暴走は予想外だろう。

「エースゥウ!」
「えっ、"麦わら"!? 目が覚め……ってオイ、危ねェ!」
「動いたら駄目だっての! お前まだまだ絶対安静なんだぞ!?」
「エ〜ス〜! わあああああ!!」
「危ねェよ! 鎮まれ"麦わら"ァ〜!」

 ローは制止には動かず、また指示を出すでもなく何歩か足を進めて手近な岩に腰かけたのでその後ろに控える。
 船から見た時には岩陰で微睡んでいるように見えたジンベエもこの騒ぎで起きたのか丸い目を覗かせており、大声で叫ぶルフィを見つめながらもゆったりとした足取りで此方に歩み寄って来た。

 傷に障らないよう緩慢な動作でジンベエがローの隣に在る岩に腰を降ろしたと同時に、背後で派手な衝突音が響いて思わず振り向く。

 あれは確実にルフィが犯人だ。アマゾン・リリー国民の皆が造った陣の一部がごっそり欠け、柱同士を繋ぐ縄と布が無理に千切られて柱自体も一本ひしゃげ、簡易バリケードとしての役割は果たせない有り様になっている。

 何を思ってか緑の濃いジャングル方面へ進もうとするルフィをどうにか皆が押さえようと奮闘はするものの、怪我を気遣い下手に力に訴えられない所為で、ルフィに触れる傍から振りほどかれていた。

「何処行くんだ暴れるなァ! "火拳"ならもう…」
「うわああああああ! エースは何処だァ〜!? エース〜!!」
「手に負えねェ! "麦わら"ァ〜! 止まれ〜!」

 土が剥き出しになっている地面が度々殴られ、砂煙が立つと共に靴底へ僅かな揺れを感じる。あんな使い方をすれば両手の指は腫れて傷が増える一方だろうが、痛みで正気が戻るのならばとうにルフィは平静になれている。
 何とも言えない気持ちで喧騒の中心を眺めていると、ジンベエが口を開いた。

「アレを放っといたらどうなるんじゃ…」
「──……まあ単純な話…傷口がまた開いたら、今度は死ぬかもな」
「…………」

 尋ねるジンベエが目線で指す方向へ倣って顔を振り向かせたローが、首の角度を元に戻してから抑揚に乏しい声色で答える。「死なせるには惜しい」との理由で救助を決行したのだから実際に縫合した傷が開いてしまったならまた処置は施す筈だとは思うが、そんなつもりは無いのではとさえ思わせる静かな声だ。

 返答を聞いたジンベエは暫く黙してルフィを見つめていたが、ルフィの後ろ姿がいよいよジャングルの内部へ進み始めると無言で腰を上げた。
 木の板を組み合わせて出来た不思議な形状の履き物を器用に操って去りゆく背と入れ違いに、クルーの一人がルフィの被っていた麦わら帽子を手に焦った面持ちで駆けてくる。

「船長、コイツ預かっててください! ちょっと湿っぽかったんで天日干ししてたんスけど、持ったまんまじゃ"麦わら"止めらんねェし、その辺ほっぽっとくのも不安なんで!」
「ああ」

 ルフィの取り押さえに助力を請われるだろうかと一瞬緊張してしまったが、ローに帽子を渡したクルーは俺を手招くでもなく踵を返した。下手をすれば自らが怪我を負う可能性がある事を失念してなどいない筈でも、ああして本来敵対している立場である少年の為に動ける皆はお人好しな海賊だ。

「ローは力ずくで止めようとはしないんだね」
「現場に居なかった他人が何を言おうがやろうが、当人の頭の中へは響くどころか届きもしねェよ。この場に居る中で麦わら屋に何か言えるのは海侠屋だけだろう」

 帽子のつばが落とす影が理由だとは思う。見下ろす先に在るローの瞳はいつもの透明感を有した灰色ではなくて、まるで更けた夜空にも似た濃い黒を湛えていた。

 



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