「おはようシャチ。何見てるの?」
「おー、おはようアルト。これはシャボンディ内の地図だ、大まかなモンだけどな。海軍の駐屯基地とか政府関係の区は覚えとかねェと要らねェゴタゴタに巻き込まれるかもしれないだろ? 図書館の島の連中がくれたんだ」
「……大まか過ぎない? これ」

 見張りの為に床へ座り込んでいるシャチが眺めている紙切れを背後から覗き込むと、紙面には手書きらしい楕円形が八つ密集した図が書いてあった。
 これから行く諸島の内部は細かく区分けされているらしく、それぞれの丸の中に各所の特徴が書いてある。

「土産物屋、造船所、ホテル街……へえ、遊園地なんてあるんだ? 観光業で栄えてる島?」
「一部だけ見ればそうだけど、なら平和かっつーと確実に違ェだろうなァ。七十九の島があって、その内の二十九が無法地帯だぜ? ゴロツキ共に絡まれんの考えると面倒くせェなー…」
「え、安全な地域に居るんじゃ駄目なの?」
「そういう訳にもいかないんだよ、アルト」

 背後からかけられた声に振り向くと、湯気の立つマグカップを片手にペンギンが扉を閉める所だった。
 今居る場所は甲板なので潮の匂いが濃く、その隙間を縫って珈琲の香りが届く。夜が明けたばかりでまだ肌寒さすら覚える外気の只中では殊更に魅力的な芳香だ。

 歩み寄るペンギンに合わせて俺とシャチが手すりへ寄りかかるように座り直すと、隣に腰を降ろしたペンギンがマグを差し出してきた。一口くれるらしい。

「新世界へ行く為には魚人島を通る必要があって、その魚人島に行くならシャボンディで船を加工しなきゃならないのは昨日話したな?」
「うん。だから海賊が集まりやすい島なんだよね」
「ああ。つまり木を隠すなら森、だ」

 ゆっくりと飲み込んだ珈琲の温かさが喉を通り、胸の内側を滑り落ちて腹の中にじんわりと広がる。
 何とも言えない満足感に一つ息をついてマグを隣人へと返すと、ペンギンは受け取った流れの儘カップ縁に唇を寄せながらシャチが持っている地図を空いている指で指した。

「安全な場所というのは、つまりは民間人が多く居るし、海軍が警羅している範囲でもある。買い出し以外の目的で長々居座るのはあまり得策じゃないんだ。マリンフォードの鼻先の島だから恐らく余所より警備は重いし、常駐している海兵も他の支部に比べて手練れだろう。下手に目を付けられると面倒事になりかねない」
「海賊だったら無法地帯に居る方がマシって事?」
「仮に暴れても周囲にそこまで気を遣わなくて良いって点は、な。ただし海賊が集まると、懸賞金目当ての賞金稼ぎと転売目的の人さらいも集まる。ウチは船長の首が額高いからやたらに絡まれはしないかもしれないが…その辺りの居心地の良し悪しは別にして、同業者の中に紛れている方がきっとマシだ。海軍を寄せ付けないメリットの方が重要度は高い」
「ふーん?」
「へーェ?」
「…シャチ、お前アルトより海賊として先輩なんだからこれぐらいは自力で気付け」

 シャチと揃って首を傾げている最中、ふと覚えのある匂いが鼻先に届いて腰を上げる。

 どうにも習慣というものは抜けなくて、俺はハンターとして活動していた頃と同じで相変わらず、日常的に無意識下で周りの匂いの変化を拾うように鼻へオーラを集めて多少粗めの「凝」を行ってしまう。
 四六時中そんな事をしていればオーラが底を尽きてしまうので、どちらかと言えば「練」で身体全体をオーラで覆う中で鼻の部分だけ多少エネルギーの密度と濃度を高めていると言った方が正しいのだが。

 甲板と艦内を繋げる扉に近付き、手前に引き開ける。
 およそ三歩程距離を空けた位置にローの姿が在り、細身のパンツに包まれた長い脚は止まる事なく板の敷き詰められた床を踏んだ。ベポがその後ろについて出てくる。

「もう見慣れたけど…アルトの船長の気配に対する反応速度って主人出迎える犬みてーだよなァ…」
「何なら忠犬のようだな」
「二人共それ褒めてんの?」

 ローからは薄くだが香水に似た薬草の香りがする。擦り傷や切り傷に塗る軟膏のような薬の主成分になっている草の香りで、瑞々しい木々を思い出させるすっきりとした印象で全く薬っぽさが無い。
 一番使用の機会が多い薬剤だから服に匂いが移っているらしく、それが度々ローの位置を知らせる役割を果たすのだ。

 なので少し前から、よく艦内でも本や刀を手にして移動する事が多いローのドアマン係のような事を俺が自主的にやっている。ただしあくまで俺が居る所にローがやって来る場合にしか先回り出来ない。

 初めは何も言わなくてもタイミングを計って扉を開ける俺にローも驚いた顔をしていたものの、今は独りでに行き先の扉が開いても表情を変えなくなった。だが犬扱いは心外である。

「島が見えた」
「え、」

 ローの一言に三人で振り返る。
 全く気付いていなかったが、水平線から丸い太陽が全身を露にして大地も海面も照らす中、しゃぼん玉に取り囲まれて群生する大木が森のような様相で水面に浮かんでいる光景が遠目に見えた。見張り用の双眼鏡を持ち出し、進行方向を覗き込む。

 一瞬、感嘆の声すら忘れた。

 島の陸地には巨大な縦縞模様の木が密集している。
 樹木の根元にちらほらと建物が確認出来るが、まるで精巧なミニチュアだ。
 見ている間にも不規則な間隔で何処からともなく沢山のしゃぼん玉が生まれ、下から上へゆっくりと昇っては、木の天辺を越えて少しした辺りで途端に弾ける。

 子供向けの絵本にでも描かれそうな、しかし現実に存在している不可思議で美しい島を、気付けば無言で見つめていた。
 双眼鏡を通して丸く切り取られた景観は、誰かの空想がそのまま本物になったかのようだ。

「…………凄い。こんな景色が、実在するんだ…」

 脳と舌が直結でもしたように、するりと言葉が零れた。
 人の手で作られた多種多様な美しい代物はそれなりに見てきたし、レンズ越しのシャボンディ諸島と張り合えるものも世の中にはあるかもしれないが、命あるものが創造する景色の迫力は人工のそれとはまた違う。

 静かな感動で胸中を満たしていると、ふと右肩に重みを感じた。隣を見ればローが人の肩を肘置きにしている。
 俺が顔を傾けたのと同時にローが瞳を此方に向けて、口角を上げも下げもせずに唇を開いた。

「観賞は船が着くまでの間に楽しんでおけ。確かに天然の見事な外観だが、あの島が小綺麗なのは見た目だけだ」

 



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