鍋に入れた牛乳を火にかけ、湯気が昇ってきたところで蜂蜜を流し入れる。人によってはこの味が苦手な奴も居るかもしれないが、余程の甘味嫌いでなければ適度な甘さは気分を落ち着かせるのに一役買ってくれるだろう。
 あまり温め過ぎても飲みにくいかと沸騰する前に火を止めたところで、ベポが厨房に顔を覗かせた。

「お帰り。お前も帰ってたんだな」
「あ、ペンギンただいま! ねェ、黒髪の男の子見なかった? おれより先にキャプテンと船に来てる筈なんだ」
「アルトの事か? 彼なら測量室に居るぞ。軽くだが事情は聞いた」
「本当? アルトこの船気に入ってくれたかなァ。測量室は地図も海図も沢山あるけど、楽しそうだった?」
「楽しそう、と言うか…」

 船長曰くアルトは拾った、との事だが、様子と発言からしてベポも現場に居合わせたようだ。

 人懐こくてクルーの誰にでも気さくに接するベポだが、動物の元来の気性なのか、庇護欲をそそられるような幼い子供以外の他人には一定の警戒を抱く。
 そのベポがこうも気にかけるのだから、珍しく部外者の男を気に入ったらしい。船長が乗船を決めたから、という理由に従っているだけなら出て来ない台詞だ。

 アルトについて、一言で感想を述べるなら。痛ましいとの表現になるのだろうか。

 いつの間にか船長が見知らぬ人間を船内に連れ込んでいた事には驚く以上にあまりに突然で呆けてしまったし、少年の域をとうに脱した外見の男を「拾った」と言ってのけた我等が頭領には一度は呆れもした。
 だが無人島だと聞いていた筈の島で人との出逢いがあり、且つ船長が彼を船に乗せると決めたという二つの違和感を繋げてみれば、とある推測が浮かぶ。
 恐らくアルトはあの島に何等かの理由で捨てられたのだ。いや、理由など無いからこそか。

 海図儀を見せてやれば瞳を丸くしていた。海賊、海軍、漁師など海に携わる者か、或いは海や地理に興味が無ければ世界地図を見る機会は少ないかもしれないが、それを差し引いても四つに区切られている東西南北の海域だとかグランドラインといったものは幼子でも知っている筈だ。
 しかしアルトは未知のものに出会った顔をして、まじまじと海図を見つめていた。

 グランドラインの名称に聞き覚えはなく、無人島に来る為には当然船に乗ってきただろうに、この航路が頻繁に天候の変わる海域だとも知らない。
 何処か気の抜けた声で「随分遠い所まで来た」と呟いたあいつは、一体どんな環境で生きてきたのだろう。

 想像するだに同情心が沸く自分の甘さに苦笑する。アルトに限らず、彼と同じような境遇に在る人間は男女問わず世界中に散在しているのだ。

「ベポお前、アルトの生い立ち…と言うか、どうしてこの島に居たのかは知っているか?」
「アルト本人は、放り出されたって言ってた。キャプテンが言うには仲間に……ええと、アルトを仲間とは思ってなかった奴等に見捨てられたんだろう、って」
「……そうか」

 海賊船の雑用か、奴隷か。そんな所だろう。非力な一般人の少年青年が賊にこき使われるのは珍しい事例ではない。
 温めたミルクを注いだマグ片手にキッチンから廊下に続く扉を開ければベポも着いて来る。個包装の板チョコレートを三つ持っているのはアルトの分も含めてだろうか。元よりお人好し、否お熊好しなベポだが、初対面の相手にこうも好意的なのは珍しい。

「何かお前、随分アルトの事気に入ってるな?」
「アルトはキャプテンの味方してくれたんだ! だからアルトの味方はおれがする!」
「味方? そういえば船長服脱いでたな、何かあったのか」

 尋ねれば、測量室へと戻る道すがらベポは殺し屋か賞金稼ぎらしき集団に絡まれた顛末と、それより先に黒電伝虫を捕まえたアルトと出会った事、船長がアルトの料理を気に入って乗船の誘いを申し出ていた流れをかいつまんで説明してきた。
 ショウユ、という調味料には聞き覚えが無いが、やや偏食の割に食べる事自体は好きな船長がお気に召した味には興味がある。

 しかも能力者らしいとくれば、尚更乗せたくなっても無理はない。出来ればクルーとして引き込めたなら戦力増強が期待出来るが、アルトのこれまでを思えば海賊になれと言うのも気が引ける。だから船長もアルトの同乗期間は彼が暮らしていける島までと決めたのだろうし、俺が口出しすべきではない。

 そんな話をしながら行き着いた部屋の扉を開けると、話題の人物は机の上に居る黒電伝虫を眺めていた。
 まだ人間が利用する為のパーツを取り付けていない為自由に這っているそいつを不思議そうに見ているアルトの傍にマグカップを置いてやると、依然ぼんやりしていたらしいアルトが顔を上げる。

「あ…、ありがとうございます」
「何、礼を言うのはこっちだ。その黒電伝虫、お前が見つけたのを譲ってくれたんだろう? しかも船長に隙が出来た時フォローもしてくれたそうじゃないか。ありがとな」
「いえ、そんな。…これ、珍しい奴なんですか?」
「あァ、盗聴が趣味っていうちょっとアレな種類でな。言葉のまんま盗聴器代わりになるし、傍受出来る念波の範囲も決して狭くはないから、前々から機会があれば欲しかったんだ。街中で持ってれば、海軍に通報されたりしてもリアルタイムで察知出来るかもしれないしな」
「念…? 波?」

 はにかむ姿は本当に一般人のそれで何だか微笑ましいな、と思った矢先、至極不可解そうな顔で訊き返されて俺もベポもつい首を傾げた。

「アルト、電伝虫を知らないの?」
「そいつも、あとその壁際に居るのも初めて見た。だから最初ベポに声かけられた時、ベポの餌なのかと思ったよ」
「食べないよ! ……見た事もなかったんだな…」
「これでも毒蛇とか毒虫とか、肉食の獣の生態には詳しい方だと思うけど、こんな人間味溢れる顔のかたつむりは流石に…」
「……いや、何でそんな危険生物だけ詳しいんだ?」
「そういうのがうろうろしてる所に行くのが仕事だったもんで」

 絶句だ。今まで、電伝虫を目にする機会もない程に普段は船内で殆ど軟禁生活を強いられ、野生の動植物が溢れる土地では囮か何かをさせられていたという事か。
 きっと自分の能力で辛くも難を逃れてきたのだろうが、そんな目に遭いながらよくこうも常識的に育ったものだ。普通ならば悲観的な人間不信になっていても無理からぬ半生だろうに、金品や救助を見返りに求めもせずに黒電伝虫を船長へ譲り、危ない所を助けても恩を売らない。

 アルトは過去の経験から、自分の事に頓着しなくなってしまったのかもしれない。なるほど船長が連れ帰る訳だ。こいつを見捨てるのは幾ら何でも寝覚めが悪い。

「…アルト。もうそんな事はしなくて良い。これから先この船が行き着く島にそういう危ない生き物が居ないとも限らないが、お前が率先して飛び込む必要は無いんだからな?」
「え、でも俺は別に問題ない…」
「ペンギンの言う通りだよ。もう大丈夫だからね!」
「何が? 何が大丈夫?」

 戸惑った顔をして俺とベポを見回すアルトの態度に溜め息を吐きそうになって、堪える。
 一度根付いた価値観や固定観念はそうそう変わりも覆りもしやしないし、海賊たる俺達が真っ当な生き方を示してやる事は出来ないものの、どうにかアルトに「普通」を理解して欲しく思う気持ちは否定しようがなかった。


 



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