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▽愛は永遠じゃないし言葉は絶対でもない



「なんか飲む?」

「久しぶりにあれ飲みたいなぁ。あったかいミルクセーキ」

「エッグノックな」

今日は二人してお休み。久々に銀ちゃんの家でゆっくり過ごしている。キッチンが広いアパートを探してDIYしたというバーカウンターはエジソンバルブが吊り下げられていて他の照明を落とすととても1LDKとは思えない雰囲気が出る。一見適当でやる気なそうに見えるけど意外と凝り性な銀ちゃんはハマりだすととことん自分の好みにしたくなるらしい。
この部屋、女の子を呼んだことあるのかなぁ、だったら嫌だなぁと考えしまうあたり彼の嫉妬深さが少しばかり伝染してる気がする。お互いの職業柄、嫉妬し始めるとキリがない気がするし精神的にもすり減っていく気がして考えないようにしてた。でも相手が銀ちゃんだとどうもダメみたい。

「ねぇ、お客さんに告白されたことある?」

「あるよ」

「…なんて言うの?」

「客は客としか見れないって」

「そうは言っても今お客さんと付き合ってるじゃん」

「名前のことは客なんて思ってなかった。俺のカクテル飲まねーんだもん」

ノーカンノーカンと言うがなんともよくわからない基準だと思う。それは彼も同じだったらしく自嘲気味に笑った。

「じゃあシャンパン以外のものを頼んだらわたしは銀ちゃんの彼女になれてなかったってこと?」

「それはそれでお前のこと好きになってたと思うけどな」

「都合のよろしいこと」

「結局さ、どんなに予防線張ったって好きになっちまったもんはもう変えらんないし一度手に入ったら離したくねーんだよ俺は。はいどーぞ」

「ありがとう」

コトリと目の前に置かれたエッグノックはあの日と同じくらいあたたかくて優しくて、やっぱりどろどろに甘かった。ほんのりとブランデーの香りがする。

「エッグノックってカクテル言葉あるの?」

「守護。守るよって意味」

「だからほっとするのかなぁ」

銀ちゃんは自分の分を持って隣に座った。椅子は二つだからもうそれで満席。二人だけの秘密基地みたい。

「銀ちゃんはどうしてバーテンダーになろうと思ったの?」

「親父がバーテンダーで、格好良く見えたから。朝帰ってきて昼間は寝てるから家ではただのだらけたオッサンだったけどな」

「へぇ、お父さんが…それは喜ばれただろうね」

「さてどうかねぇ」

銀ちゃんのお父さん、どんな人なんだろう。多分すごく格好良くて素敵な人なんだと思う。ぼんやり想像していると、名前は?と聞かれて顔を上げた。

「わたしは…田舎から出てきてとにかくお金欲しくて」

「そーじゃなくて。なにが好き?どんなことをしてる時が楽しい?」

「どんなこと……」

それはとても難しい質問だった。好きとか楽しいとかで生活が彩られるような感覚は随分と昔に置いてきてしまっていた。そういうものを失うことこそ大人になるってことだと思っていた。

「んー……難しい。例えばネイルとか…自分でするの好きだし…あと服とか…美容?なんか全部仕事ありきだね」

悩みながらぽつぽつ話すのを銀ちゃんはずっと聞いてくれた。じゃあ小さい頃は?って深掘りしていく。でも思いつくのは服とかお絵かきとかそういう事くらいしかなくて、こんな話つまんなくないのかなと銀ちゃんを見ると穏やかな顔でエッグノックを飲んでいた。
仕事では基本的に聞き手だからこんなにたくさん自分の話をするのは不思議な気持ちで…でも少しずつ自分という人間が実体を持って現れていく感覚がする。本当のわたしってどんなことが好きなんだろう。前に銀ちゃんが言った『何にでもなれる』って言葉を思い出した。好きなことを仕事にして勉強熱心で芯がきちんと通っている人。嫉妬深くて独占欲の塊で、ムカつく時もあるけどとても大切にしてくれる人。目の前にいるこの男は今まで出会ったどんな男性より魅力的に感じた。

「そーいえば『Caramel』の意味って知ってる?」

「お店の名前だよね?カラメル…キャラメル?あの茶色い飴のことだと思ってたけど」

「半分正解。普通だと焦がした砂糖って意味なんだけど、マスターは人と人の縁を『絡める』店になりますようにって願いを込めて付けたんだってさ」

「へぇー…絡める…かぁ、なんか………」

「ねちっこいよなぁ?『繋ぐ』でも『結ぶ』でもなくて、『絡める』って。でもそういうとこ嫌いじゃないと思ったんだよな、あの人に会って。人との繋がりがシェイクするみたいに混ざり合うって感じがする。だから結構気に入ってる」

「より深い関係になれそうだね。一度会ったら離れられなさそう、…なんか銀ちゃんみたい」

考えたら笑ってしまった。カラメルと銀ちゃん。苦くて甘い、わたしの恋人。

「どこまでも絡みついてくるもんなぁ?」

「自覚あるんだ。銀ちゃんって…本当にこの世界が好きなんだねぇ」

「そう、だから…お前も好きなことに出会ったら思いっきりやってみ。満足いくまでやって、やっぱ違うと思ったら辞めてもそれでいい。名前が楽しそうに笑ってるところが見たい」

「………なんか照れる、こっち見ないで」

「こんないい女捕まえてどこ見て喋れって言うんだよ」

「なんか…うん、胸がいっぱい………」

両手で顔を隠して照れているのを誤魔化したつもりだったけどそれ以上に胸が苦しくて涙が出てきて、でもこんな…優しい言葉をかけてもらったくらいで泣くような弱い女に思われたくなくて、エジソンバルブ綺麗だねとかどこで買ったのとか話題を逸らそうとしたけど、手を退けられて「ヘタクソ」と笑われた。すっごく優しい顔で笑う銀ちゃんと目が合ったら余計に涙が溢れた。

「ずるい、」

「なにが」

「前、バーテンダーとは付き合わないって言ったけど……好きになるなって方が無理」

もうどう考えても取り繕えないので観念して顔を上げて真っ直ぐに銀ちゃんを見た。

「その瞳がずっと欲しかったんだよなぁ、俺」

「瞳どころか全部貴方のものですけど」

「…やば、めっちゃムラムラするわ」

唇が目元に落とされて涙の道を辿りながら、わたしの唇に辿り着いた。

「バーカウンターでキスなんて考えられないね」

「興奮しねぇ?」

「うふふ、めっちゃする」

ガタ、と椅子を引き寄せて向かい合わせになったわたしの肩を撫でる手つきはもうこれからの行為を想像させるかのようだった。エッグノックの後の口づけは甘くて柔らかい。ほんの少しのアルコールの香り。酔いそう、銀ちゃんのキスに。

「……守るよ」

「なにから?」

「これから起こる全てのことから」

「チャラいよねぇ本当」

「紳士って言ってくんない」

「そういうところ、すきかも」

「…名前ちゃんさー、やっと好きって言ってくれたな。気付いてる?一度も言われてねーの俺」

…そういえば銀ちゃんに好きって言ったことあったっけ?これまでの記憶を呼び起こしても、好きって言われても返したことはなかった…かもしれない。なんてことでしょう。こんなに好きなのに本人に一度も伝えてなかったんだ。

「銀ちゃん、好き。言うの忘れてた」

「ひっでーな」

「あ、」 

肩から落ちた手が腰を引き寄せて抱き上げられた。軽々と宙に浮いた身体はいつもなら間続きの寝室に向かうはずだったのにカウンターの奥のキッチンで下された。てっきりそういうことをするかと予感していたから恥ずかしい。ひとりでドキドキしてたらしい。

「わぁ、お酒も道具もたくさんあるね」

「なんか好きなやつある?ボトルの見た目でもいーけど」

「んー、…あ、これすごく綺麗」

指さしたのは薄いエメラルドグリーンに細かな花が描かれたボトル。香水のボトルにみたいに綺麗。SILENT POOLって書いてある。…静かなプール?色はプールっぽいと言えばそうだけど。

「ロンドンのドライジンな。サイレントプールって湖の水使ってんの。確かに名前に似合うわ」

わたしの後ろに立っていくつかのボトルとグラスを取る。

「これで何か作ってくれるの?」

「名前が作って。教えるから」

トールグラスを二つ出し氷入れてと指示され水割りを作る要領で言われるがままに手を動かしてみる。次にメジャーカップで真っ赤なチェリーのシロップを計りジン、トニックウォーターと材料を注いでいく。計って入れるだけだから簡単でわたしにもできた。これくらいなら素人でも楽しく作れるなぁ。

「本当はチェリーがあればいいけどないからレモンだけな」

そう言って冷蔵庫に入っていたレモンのカットを浮かべて完成したのはチェリースピリッツというカクテルだと教えてくれた。

「なんか聞きたいことあるんじゃねーの?」

「え?」

「エッグノック作ってる時。こっから見てて気になってたんだよねぇ。告白されたことある?なんて振ってくるし」

「ううん……もう大丈夫」

わかりもしないことに少しだけ嫉妬した…なんて言えそうにない。ここで前の彼女とこうやってカクテル作ったりした?なんて。立ったまま乾杯、とグラスを合わせてチェリースピリッツは銀ちゃんの口の中に流れ込んだ。ごくり、と飲み干してもう一口。わたしもグラスに口をつける。すっきりとした華やかな香りと甘酸っぱいチェリーが混ざり合う。とても好きな味だ。するとグラスを奪い取られる。

「おいしい……ん、?」

銀ちゃんが飲んだのははじめの二口だけで自分のグラスのものをわたしに口移しで飲ませていく。冷えたアルコールが次々と川のように流れてくる。二杯分のお酒はほとんどわたしの喉を滑り落ちていた。口から溢れて喉を伝って服が濡れるのをなんともない顔で見下ろしている。飲み込めなくても規則的に与えられる水分にむせる。

「ふ、待って、溺れる、っこほっ、けほ、…っ、もー、服濡れたぁ。着替えないよ」

「じゃあ泊まってけば」

「酔わせてお泊まりさせる作戦?」

「そう」

あっけらかんと言い放ち濡れた服を脱がしにかかる。ブラのホックがいつのまにか外れていた。早技すぎる。

「あー、そういえば洗濯しようと思ってたんだよなぁ。ついでにこの服洗ってやる」

「…それ絶対洗濯の方がついでだよね。ていうかわざと濡らしたんでしょ」

「なんでも良くね?どーせするんだし」

太腿を撫でた手がスカートの奥に登っていき、焦らすように脱がされて下着が床に落ちた。解放された胸と足の間を器用に愛撫されてみるみるうちに銀ちゃんの指を濡らす。

「ぁ、っ、あ…」

「んー?」

すぐに二本目の指が入りこんできた。胸を触っていた手がカクテル作りに使った道具とグラスをシンクに移して空いたところにわたしの手をつかせると熱くて固いものがお尻に触れた。

「ちょ、っと待って、ここでするの、!?」

「ダメ?」

「ベッドすぐそこ、あぁっあ!」

立ったまま貫かれるなんて、しかもこんなところで。腰はしっかりと掴まれているけどつま先立ちになってしまって不安定だ。顔上げてと言われてそうするとさっきまで座っていたカウンターが目に入る。

「わかる?こうやってカウンター挟んでずっとお前のことエロい目で見てたの。いつか名前に見せようと思ってた」

「あっん、は、ぁなんで、いま、」

「思い出に残るだろ」

身体を支える腕に力を入れるとカリ、とテーブルに爪が擦れた。テーブルに傷がついちゃう、と思ったら動きが止まって向かい合わせにさせられた。背中がひんやりする。ぼうっとしてきた視界の中で銀ちゃんが笑いながら耳元で囁いた。

「アルコール回ってきた?……名前はさ、酔ってる方が素直だよな。あと、イキやすい」

指が花芽を優しく擦る。繋がったままぴくりとも動かずにただ指だけがゆるくそこだけを刺激する。

「や、動いて……」

「ここだけでイってみて」

いや、と首を振るとぐらぐらと脳が揺れる。両腕を銀ちゃんの首の後ろに回してしがみつくと指の動きが早くなり首筋を舐める。う、と低く声が漏れたのはきっと無意識に銀ちゃんを締め付けたから。絶妙なタイミングで胸を吸われ言われた通り達してしまった。

「あ、やっ、ぁあ、んっ!」

「ぅ、は、マジで締まり良いなお前」

もうどこで身体を重ねようが気にならないくらいに思考が回らない。間髪入れずに動き出した銀ちゃんのものがぐちゃぐちゃと音をたてて中を暴れ回る。足は銀ちゃんの腰に絡ませて身体はいつの間にか完全に抱えられていた。

「ぁああ、だめ、」

「ねー、やっぱ気になるから教えてくんない?さっきの。何考えたの」

「んぅ、あっ、ぎん、ちゃ、」

「教えくれたら名前の好きなココ擦ってあげる」

どーする?と弱いところを先っぽで軽く掠める。しつこい、本当に。何度聞いてくるんだろう。そんなにまでして隠すようなことでもないのかもと思ってしまうほど掘り返してくる。そして根負けするのはいつもわたしだ。

「…っ、銀ちゃんが家に……、女の子呼んでたら嫌だなって…、っあぁ!」

思わず口に出していた言葉になーんだ、そんな事と軽く呟いて笑った。

「ここ、だーれも来たことねーよ。男も、女も。汚されんのやだし大事なプライベートの空間だから」

「ほ、んと?」

「本当ほんと。なぁもっと嫉妬していいよ。なんでも聞いて、なんでも言って。その度にお前だけって言ってやる。何回でも」

「やだ、わたしそんな重い女じゃな、ぁ、んん、」

「重い女になって。もっと俺のこと考えて悩んで苦しんで。その代わり最後はめちゃくちゃ幸せにしてやるから」

なにそれ、こわすぎ、なんて口には出せなかったけどそれって悪くないかもなって思えるくらいに依存してる。

「…………うん」

「今日も俺のこと好き?」

「…好き」

「俺もめっちゃ好き」

『幸せにする』とか未来の分からない台詞なんてもう懲りたはずだった。なのに全身全霊で真っ直ぐに気持ちを伝えてくるこの人のことは信じたい。明日明後日のことはわからないけど、今日、今、この瞬間銀ちゃんのことが好き。だから大丈夫。そう思い始めていた。






「すっご〜…何この景色……」

「成功者が見る世界ってやつね。あ、荷物ここに置いていい?」

「いーよー自由に使ってね」

今日はお昼からりぃちゃんとゆんちゃんと一緒にタワーマンションに来ている。お客さんに貰ったこの部屋はわたし一人にはもったいないくらい立派で眺めが良くて、せっかくだからここで女子会を開こうって思いついた。買ってきた飲み物を出しているとちょうど宅配ピザも届いてパーティーの準備が整った。

「かんぱーい!」

三人でグラスを合わせてピザやお菓子を食べながらガールズトークで盛り上がった。バーではできないような女の子事情のこととか、美容のこと、恋愛のこと…昔からの友達みたいに笑って盛り上がった。

「飲み物減ってきたね。コンビニ行く?」

「あー銀ちゃんいれば飲み物作って貰えるのにね。なんて、それじゃ女子会じゃないけど」

「確かにー。銀ちゃんのカクテル美味しいよねぇ。名前ちゃんよく作ってもらうの?」

「うん、たまに。でも最近すれ違いかもー…。仕事の勉強が忙しいみたいで二週間くらい会えてないかなぁ」

「えっそんなに!?あの独占欲強そうな銀ちゃんが二週間も名前ちゃんに会ってないの!?」

「でも電話とかで連絡取ってるからそんなに離れてる感じしないよ」

「えー…あたしなら寂しいなぁー」

「ゆんちゃんは同棲してるんだよね?毎日彼氏さんと会えるんだぁ。いいなぁ、わたしもいつか………、」

銀ちゃんと同棲したらどうなるんだろう?嫉妬したりされたりってことも落ち着くのかな?それとも変わらずやらしいことばっかりしてるんだろうか……それはそれで大変そうだ。

「あらら?顔赤ーい!銀ちゃんと同棲したいの?」

「うーん……要検討」

「あはは意外に慎重!ところでりぃちゃんはどう?彼氏候補。いい男いた?」

「あのさ…この間お店に行った時に退くんっていたじゃん、スタッフの。あの子がどーしても気になってるんだよねぇ」

「えっ!退くん?…うん、すごくいいと思う!」

「彼女いないって言ってたけど本当かなー」

「うーん…わたしも前に聞いたらいないって言ってたから本当だと思うけど、人の恋愛のことは面白がるくせに自分のことって全然話さないんだよね」

今度りぃちゃんのこと話してみると言うと嬉しそうにしていた。恋する女の子の顔だ、可愛いなぁ。隣ではゆんちゃんが彼氏の愚痴を言っている。ゆんちゃんのところは本当によく喧嘩をするけどすぐ仲直りしてさらに仲良くなっていく感じ。常に本音を言って認め合えるのはいい関係だと思う。

「あ、お店から電話。ちょっと抜けるね」

「はいはーい」

ピンクのスマホが震えて離れたところで通話に出ると渦中の退くん。電話口で申し訳なさそうに話し出した。

『お休みのところすみません。伝えるの忘れてたんですけど…』

業務連絡をいくつか聞いて、伝達ミスってすみませんと再度謝られる。LINEでもいいのに。多分電話の向こうでも頭下げてるんだろうなぁ。大丈夫だよと伝えて、いいこと思いついた。

「ねぇ退くん、少し時間ある?この間店に来てくれたわたしの友達でりぃちゃんって覚えてる?ショートの綺麗な子」

『…あ、は、い、えーと、まぁ』

「うふふ、今ね退くんの話になって。少しでいいから話してみてくれない?ただの世間話でいいから」

えっ!?と動揺してしばらく考えて、うまく話せるか分からないけど、と了承してくれたので電話を代わった。りぃちゃんは嬉しそうに歳は?とか地元は?と話しかけていた。

「退くんって弟系だけど意外と度胸あって、迷惑行為するお客さんから助けてくれたり酔って暴れる人を抑えてくれたりしてカッコいいところもあるんだよ。だからあんなに動揺してるの初めて。りぃちゃんのこと意識してるのかなぁ」

「そうだったらいいよね。応援しよう」

「うん」

ゆんちゃんと笑いながらその様子を見守った。
女子会を解散した後、いつもなら銀ちゃんのところに行くけどここのところは早く出てしまうみたいで出勤前に会うこともなく、帰りも残業してるらしくうちに寄ることも減っていた。寂しい…という気持ちもあるけど仕事の勉強なら仕方ないし応援したい。向上心があって自分に満足してないところも格好良いなぁと思う。次はいつ会えるかな。わたしも仕事頑張ろう。

「気合い入ってきた!寄り道しちゃおう」

そろそろ新しいヒールを買おうと思っていたので百貨店でいくつかのブランドを回って気に入った物を二足買った。すぐ底が擦り減って金具が傷むから意外と消耗する。修理も時間かかるし。足元は特に気を使いなさいとよく先輩に言われたものだ。

さて帰ろうと駅に向かおうとすると向こうの通りを見慣れた銀髪が歩いていた。あ、銀ちゃん………と、女の人、?近い距離で何か話しながら親密そうに歩いている。銀ちゃんは心なしか嬉しそうに笑っていた。そのうち女の人が話に夢中になっていたのか転びそうになって、銀ちゃんが咄嗟にそれを支えた。見てはいけないものを見てしまったみたいで駅に向かうのをやめて二人と反対方向に走り出した。

バタン、とドアの閉まる音で我に帰った。どうやって帰ってきたのかよく覚えてない。ヒリヒリと痛む踵を見ると靴擦れを起こして血が出ていた。パンプスが汚れちゃう…といつもの冷静さを取り戻そうとした。玄関先でしばらく座り込んでいるとスマホが鳴りはじめた。白い、スマホ。ディスプレイを確認すると銀ちゃんから。身体が動かない。死ぬんじゃないかなってくらい息が苦しい。そのうち鳴り止んで沈黙が部屋を満たした。途端に強烈な吐き気に見舞われる。

「…っう、」

這うようにしてなんとかトイレに行って嘔吐した。気持ち悪い。風邪?食べ過ぎたかな?それとも走り過ぎた?……答えは一つしかない。裏切りの予感が波となって身体中に襲いかかっているから。全身がぎりぎりと捻りあげられてもうおかしくなりそう。またスマホが鳴る。この音は店用のだ。やっとの思いで玄関に戻りピンクのスマホを出して通話に出る。明日?大丈夫だよ、いつものお店でね。うん、楽しみに待ってるね。……今日が仕事じゃなくて本当に良かったと心の底から思う。こんな姿見せられない、誰にも。

銀ちゃんは確か今日出勤だったはず。あの時間に歩いているならだいぶ余裕を持って家を出たんだと思う。仕事前にデート?そんなのしたことない。だいたいわたしの方が同伴やらヘアセットやらで早く出るから。それ以前に最近忙しそうだったからデートどころか会うことすらできなかったのに。
隣にいた女の人、綺麗だったな。なんていうか…『普通』の仕事をしているような感じだった。銀ちゃんに向かって何か身振り手振りで説明していて、それを聞いた銀ちゃんもにこやかで、お似合いだった。思えば普段出勤の前の時間や休みの日に何をしているかなんて聞いたことなかった。まさか女の人と二人っきりでいるなんて、知らなかった。カクテルのことを勉強してるんだと思ってた。勝手に。

もっと嫉妬していいって、もっと悩んでって言ったのは嘘だったのかな。本当になんでも聞いていいの?『浮気してる?今までのこと全部嘘?』って。でもむしろわたしの方が遊びで、あの人が本命だったりする…なんてこと、あり得なくない。だってわたしはキャバ嬢だから。それなら問いかけることの方がおかしいよね?わたしまた騙されてた?

『名前、いつか幸せにするから』
忘れかけていたあの人の顔を久しぶりに思い出した。銀ちゃんは彼とは違うと思ってた。誰かに嘘ついて笑ってるなんてことしないって。だからさっきの出来事はあまりにも衝撃的だった。銀ちゃんもいなくなっちゃうんだ。ほら言葉って、こんなにも脆い。いくら好きだと囁かれても行動ひとつで何もかも夢から覚めたみたいに消えてなくなる。シャンパンの泡みたいに。もう無理かもしれない。もう、立ち上がれないかもしれない。



title by パニエ



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