月が白く光る夜、赤い花びらが散った。その様はまるで鮮血が散るようであり、また命を撒いたような儚さがあった。散った花弁ははらはらと宙を舞い、ゆっくりと地に落ちる。
月の光を柔らかく反射しながら赤が散る最中に、黒いマントに身を隠された影がちらつき、また隠れ。その様を見る前に、異種と呼ばれるモノはコトリと首をもたげて死んだ。その頬の上に一枚の花弁が落ちたのを見ながら、その花弁を散らせた黒い影はただ無言で立ち尽くす。
暫くして影は懐から通信機を取り出し、簡潔に通話を終え、マントを翻して闇の中に溶けた。
「……」
その影の、フードの隙間から覗いた唇は、赤かった。
***
「おはようございます、レティ。」
レティと柔らかく名を呼ばれた少女は、飛び上がるようにして振り返る。彼女が箒をかけていたすぐ後ろには、彼女の主人が微かに笑いながら立っていた。黒髪を背中に揺らした主人は彼女のあこがれだ。
「お、奥様!おはようございますっ!」
突然の予想外の出来事に動揺しながらも、挨拶と礼を返す。そのレティの様子を見て、また主人は小さく笑い声を漏らした。ああまたやってしまったと顔を赤くしつつも、レティは主人に疑問を投げかけた。
「それにしても奥様、朝がお早いですね…?まだ日が昇ったばかりでございます」
ほかの貴族の屋敷と比べて少々こじんまりしているとはいっても、通常の家屋と比べれば何倍も大きい屋敷に、レティ一人しかメイドとして雇われていなかった。よってレティの一日にやらなければならないことは膨大だ。早朝から働き、夜まで主人に尽くしている。掃除に洗濯、料理にお菓子作り。主人であるレイチェルはそんなにやらなくてもいいのよと言ってくれてはいるが、雇われているからには精いっぱいやり遂げるのがレティの性分だった。
そんなレティが仕事を始める時間は早く、日が昇る前から始まる。その仕事を始めた直後に背後から声をかけられたのだ。驚くのも無理はなかった。通常主人は日が昇って二時間ほど経った後にお目覚めになる。主人をおこしに行くのもレティの日課なのである。
「目が覚めてしまったのよ。…レティ、少し早いけれど朝食の準備をしていただけないかしら」
「はい、かしこまりました、奥様」
小さく首をかしげながら問う主人に、レティは笑顔で言葉を返した。
薔薇園、とこの屋敷は数年前から呼ばれ始めた。その由来は屋敷の二倍はある庭が全て薔薇園というところだ。様々な種類が咲き誇るが、中でも深紅のバラが数多く、その屋敷に住む未亡人はミセスローズと呼ばれている。薔薇に囲まれて暮らす未亡人に、夢を馳せる青年も少なくはなかった。ただ、夢を馳せて終わる青年だけでもなかった。
芳しい香りを周囲に届ける薔薇園で働くのは、ただ一人の青年だった。庭師の青年、メイドのレティ、主人であり未亡人であるレイチェルのみしかこの屋敷にはいない。青年とレティは再三この人数では防犯上危ないから警備の人間を雇ってほしいと主人に請願しているのだが「こんな何もない屋敷に誰も盗みになどはいらないわ」と相手にしてくれない。そんな危機意識が低い主人のことが二人はいつも心配だった。
庭師の青年、レリックは重労働に汗をぬぐった。レリックはこの薔薇園に夢を馳せるだけでは終わらせなかった青年である。外から覗くこの屋敷は麗しく、またうわさに聞く未亡人のレイチェルは黒髪の麗人。生来から花を愛していた青年は、薔薇園とその未亡人に興味を掻き立てられ侵入したのだ。
「…あ、レイチェル様!おはようございます」
土が入った袋を担ぎながら目にしたのは、当時と変わらぬ美しさを保った未亡人だった。彼が侵入したときも、真っ先に目にしたのは彼女が薔薇をめでる姿。それに魅入りボーっとしていたところを、後ろからレティにスコップで殴られたのは痛い思い出である。死なずに済んだのは幸いだった。
声をかけると、主人はこちらを振り返り、口の端を少し上げ眼を緩ませて挨拶を返してくれた。近寄ると、今日も主人は柔らかなローズの芳香を漂わせ、眼差しはどこか遠くを見つめるような憂いに彩られている。服装はいつも喪に服していることを示す黒で、ただ胸元と艶やかな黒髪を束ねるリボンだけが赤かった。レリックは彼女のどこか浮世離れしたような、生気を失った儚い美しさが好きだった。この人以上に薔薇が似合う女性は存在しないと彼は豪語する。
にこにこと明るい、レティと似通った朗らかさがあるレリックの笑顔を見、それから足元をみてレイチェルは問うた。
「リック、とても重そうね。台車を使用してもいいのよ?」
「いえ、この重さが好きなんです。薔薇達の命を支えてくれるこの土の重み」
「そう、本当に薔薇が好きね、リックは。いつも苦労をかけてごめんなさいね」
リックの答えにレイチェルが微笑む。彼女のほほにわずかながら朱がさしたことに気が付き、リックはさらに嬉しくなった。土のはいった袋から手を放しつつ、彼女のそばに生える薔薇をみやる。
「今日はこの薔薇をご所望ですか?」
「ええ、2,3摘ませてほしいわ。リックが育ててくれている大切な薔薇なのだけれど…」
それはどの種よりも深い赤をもつ薔薇だった。鮮烈な赤とはまた違った色をもつこの薔薇はレイチェルのお気に入りである。レイチェルは稀に薔薇園にある薔薇を摘み取り、部屋に飾っていた。
「いいんですよ、ここの薔薇はすべてレイチェル様のために。」
リックは言いながら、薔薇を3本摘み取り、とげを払った。それを受け取ったレイチェルはいとおしそうに薔薇を見つめ、リックに礼を言った。リックが照れたように頭をなでていると、その後ろから声がかかる。レティの声だ。
「こんなところにいらっしゃったのですね、奥様!いつも場所を述べてからにしてくださいといっているではないですか!」
はぁはぁ、と息を切らす彼女は薔薇園をレイチェルを探して歩き回ったようで、少し怒っている。レイチェルは口元に手をあて少し笑った後、ごめんなさいねレティといった。その反省する気のない主人の姿にレティはふくれっ面である。
「レティ、おやつの時間か?」
「そうよ!リック貴方からも奥様に言ってください!いつも薔薇園を探し回る羽目になる私の身にもなってくださいと!」
「ふふ、そう怒らないで頂戴、レティ?こうしている間にもお菓子が冷めてしまうわ。」
そう言って歩き出したレイチェルに、レティは「奥様ったら反省して下さい!」といいながらついていく。リックは足元の土を見、二人を見、逡巡してから土を脇に寄せて二人の後につづくことにしたのだった。
歩くレイチェルの手元で揺れる深紅の薔薇は、何にも惑わされない強い美しさを放っていた。


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