逃げ水



手のひらの中の水は、体温を奪い指から逃げていく。すべて逃げ切る前にばしゃりと顔にかければ、ぼんやりとした頭が少しはっきりとするような気がした。


「アマネ、ご飯だよ」

きっとまだベッドの上でくうくうと寝息を立てているのだろう妹を呼ぶ。ノックを三回、反応なし。失礼します、といって室内に入った。
 いくら兄だといっても妹の部屋に入るのは気が引けるのだが、妹のアマネとしてはカケラも気にならないらしい。おそらく思春期の女性としては少し変わった部類だろう。
 まっすぐベッドに向かい、布団を抱きかかえるようにして寝ている妹に、再度声をかけた。起きて、朝だよ。反応なし。

「今日の夜は宮が一緒だよ」
「はっ」
「……」

一瞬で起きた。まったく変わった妹だと思う。苦笑しながらおはようと声をかけると、アマネはまだ少し寝ぼけているのか「宮さんは?」と所在を訪ねてくる。本当にアマネは宮が好きだねというと、兄さんと同じくらい好きだよ!と返ってきた。

「だから早く日渡と別れてほしいの」
「こら」
「だって、イチイ兄さんのほうが確実に幸せにしてくれるもん!」

 日渡なんてご飯作れないし、甲斐性無さそうだし、宮さんにヒドイこと言ったりするし。イチイ兄さんなんてそれと真逆のイケメンなんだから!

「はいはい、ありがとう。流石にそこまで言われると恥ずかしいよ」
「む、ホントなんだからね!?」
「たまごやき冷めちゃうよ」
「たまごやき!!!」

 むくれた様子のアマネに、朝ごはんの状況を伝えると慌てて一目散に一階にかけおりていった。どたばたどたばた。静かに下りないとだめだよ、と食卓のたまごやきにありついていたアマネに注意すると、ふぁーい、となんとも気の抜ける返事。イチイも手をあわせ、いつもの二人の朝食がはじまる、しかしそれもつかの間、しゃこしゃことおいしそうに朝ごはんをかきこんだアマネは、慌てたように制服を身に着けに部屋へと戻っていく。制服を着、身支度を整えたアマネに弁当を渡しながら「随分と慌ててるけどどうした?」と尋ねると、今日朝友達と登校の約束したの忘れてたの!と返ってきた。

「いってきまーす!」
「いってらっしゃい、気を付けてー!」

 自転車に乗って飛び出していったアマネの背を見送り、さて自分もそろそろ、と身支度を整える。
朝簡易的に結んだもののすでに緩くなってしまっている、ポニーテイルを結びなおす。洗面所の鏡の前で髪の毛を下すと、自分でも少し女性のように見えた。よく優しいだとか、いい人だとか言われるのは、これが女性的にみえるからなのだろうか。

「切ったら、男らしく見えるかな……」

 なんとなく後ろ髪を隠すようにしてみたりしたが、短髪は中学の時以来のため、イメージがわくようなわかないような。
はなすとサラリと首周りを覆う髪の毛。

「……」

切ったら。洋のように、さっぱりと男らしく、切ったら。
――男だと、意識されるだろうか

「…って、何考えてるんだ…」

ふと思考を覆っていたもやのようなものを振り払い、きっちりと髪の毛を結んだ。

「俺はなんとも思ってない、思ってないんだ」

 ぎゅっと目をつむりながら、蛇口をひねる。水を両手で掬い取り、顔にばしゃりとかけた。ひやり。
 この手に、大切な人はいつも収まらない。すくいとった水は、指の間から逃げていく。それでいいんだ、それが正しい。それで、いいんだ。

「はやく、学校に行こう」

 タオルで顔をぬぐいながら思い出したのは、明るい金の瞳だった。


prev next








.