小説2 | ナノ



T
「えー…」
まさかそんなありえない。
臨也は手にした妊娠判定薬をまじまじと眺めた。丸い窓に紫の線が確かに二本。陽性である。
「……誰の子?」


U
ことは数日前に遡る。その日は朝から殊更暑く、下旬とはいえ四月とは思えない気温だった。
臨也は朝から食欲の低下と嘔吐感を抱えながら、仕事のために池袋を訪れていた。
道路に蜃気楼が見える。まだ春物のコートを準備しておらず、生地が分厚い冬用のコートを着てきたが、かなり失敗だった。暑い。蒸れる。その不快感が更に気分を悪くさせた。
ため息を吐き、取引の終わったビルから出ると、今日一番見たくない、どうかありませんようにと神に願った光景が、臨也の目の前に広がっていた。どこから嗅ぎ付けたのか、静雄が道路標識片手に仁王立ちしている。
(あ〜みつかった。最悪〜)
地の底を這うような唸り声を上げながら、静雄はがりがりと道路標識を引きずり臨也に近づいた。臨也はくるりと踵を返し走る。しかし体はいつものようには動かなかった。いくらかも走っていないのに、臨也は疲れきり、ぜえぜえと肩で呼吸をしていた。胃が押しえげられるような嘔吐感がこみ上げる。臨也は逃げ込んだ路地の壁にずるりともたれかかった。両側をビルの壁で覆われたそこに逃げ場は無い。
しゃがみこんでしまっている臨也を、静雄は驚いたように見ている。道路標識はいつの間にか手放されていた。
「臨也…?」
「んーあーうるさい…ちょっとだまってシズちゃん、俺今すっごい気持ち悪いから…」
眉間を押さえるようにした指が震えている。冷や汗が臨也の顔を伝っていった。走ったからではない、明らかに痛みに耐えるような荒い呼吸を繰り返している。静雄はおずおずと臨也に近づいた。臨也はそれを拒まず、拒むことも面倒くさいような仕草で静雄を見上げた。
「……なんか」
「……」
「酸っぱいもの、たべたい…」
そう言い残し、臨也はぱたりと倒れてしまった。



V
「うーん、君の話を聞いて僕が言える範囲だとー、熱中症とか…あとは栄養不足とか、そんなじゃないかなあ。」
「そんなじゃないかなって…適当だな新羅…」
「やーだって、私がその場を見たわけじゃないしねえ。今日は暑かったし、臨也のそのコートはどうみても今日着るような代物じゃあないでしょ。一応、血液検査もしといたけど…詳しいことがわかるのはもうちょっと後だよ。」
臨也が倒れた路地から、新羅のマンションまで、静雄は臨也を担ぎ上げ、この日差しの中全力疾走をした。それはもう走った。周りの目も気にせずとにかく走った。マンションのドアを蹴破る勢いで入ってきた静雄に新羅は目を丸くした。けれど、その肩に担がれている臨也の姿を確認すると、ああ、と納得し、診察室へと通した。
臨也の顔も真っ白だったが、それ以上に静雄は白かった。というか青かった。

静雄と臨也の間に、友情では片付けられない関係があることに、新羅は気がついていた。
といっても、性に奔放な臨也が、どう考えても童貞であったであろう静雄を惑わしていた、程度の認識ではあったが。静雄は体の関係を持ったのだから本気で責任を取るだとか言っていて、臨也はそれを鬱陶しがっている(満更ではなさそうだが)。高校時代からこのやりとりは嫌というほど聞いてきた。互いに懲りないというか、諦めが悪いというか。

「ねえ静雄、君、仕事はいいのかい」
「……!!」
カップに口をつけながら言うと、静雄は今思い出したかのように時計に目をやった。臨也発見から逆算して、2時間ほど時間が経っている。静雄はガバリと立ち上がり、玄関へと向かった。途中臨也を心配するような視線を診察室に投げかけていたが、面倒くさいから無視した。もうすぐセルティ帰ってくるし。
ばたん、と閉められたドアを確認し、新羅はふう、と息を吐く。なんだろう。なんだか、臨也のこの症状、他にもなんかなかったかなあ。
カップを流しに置くと、診察室にある臨也の血液検査の結果を新羅は調べ始めた。白血球赤血球、特に問題ない。健康。性病ではないみたい。まあ臨也が性病だったら静雄君もすぐそうなるだろうけど。じゃあやっぱ、ただの熱中症、それか疲れ―――
「あれ…?」
画面に表示された結果に、新羅はぱちりと瞬きをする。これは、なんだかストレートに反応でてる。機器の不具合とも思えない。診察台のベッドでは、すっかり顔色を良くした臨也が小さく寝息を立てていた。
吐き気、めまい、貧血に似た症状、そして臨也が言い残した「すっぱいもの食べたい」のダイイングメッセージ。

「臨也、君…妊娠してる…?」




W
『やあ臨也!それで、結果はどうだった?』
電話口の向こうから新羅の暢気な声が響いたとき、臨也は思わず携帯電話を握りつぶしそうになった。実際、携帯はみしりと悲鳴を上げた。
「どうもこうもねえよ!どうなってんだこれ!」
『その反応はどうやら陽性だったみたいだねえ。懐妊おめでとう臨也。」
「めでたくない!…ほんとこれどうなってんだ…」
デスクの椅子にすとんと腰掛け、臨也は頭をかきむしった。ありえない。妊娠なんて。そりゃあ心当たりはあるけど、だって俺は男だし。そんな機能をもった器官なんてない。
「もーどうすんだよまじで…これ下ろすにしても新羅やりかたとかわかんの?」
『うーん、君の体が女性のそれならできるけどね。この前調べさせてもらったときは普通に男の体だったしねえ。…ねえ臨也』
「…何」
『君に、産んでみるっていう選択肢はないのかい』
「……。」
体のどこも、前と変わったところなどない。どこもかしこも以前のままだ。平たくかたい腹に手を触れてみると、そこは確かに脈打っていて、ひどく熱いように思える。
「……誰の子かも、わからないのに産むことをすすめるのか?」
『そうだね、誰の子か、今の時点ではわからない。…でも、なんとなく分かってはいるんじゃない?君が認めたくないだけで。』
「…シズちゃんだって言いたいの」
『おや、わたしがいつ静雄だと言った?君の高校からの素行を踏まえて言ってみただけさ。』
まあ、君が静雄が父親だと思うのなら、そうかもしれないね。
新羅の静かな声が響く。無機質な事務所が冷たくて、とても一人ではいられないような気分になる。
「……彼は」
舌の根が乾いてしまったように、次の言葉を発するのが辛い。喉が渇いた。
「なんて言うだろう」
声は震えなかった。動揺なんて一欠けらもしていないような声音だった。それに自分でも驚いた。
『さあ。僕にはわからない。自分で聞いてみたらどう?』
新羅の言葉は突き放すようなものだったけれど、なぜだか安心した。そうだね、と頷いて、まだ電話を切るのが名残惜しかったけれど、電話の向こうではどうやら新羅の愛する首なしが帰宅したようで、そっと受話器を置いた。




X
池袋某所。夏の日差しが照りつけるコンクリートは熱した鉄板のように熱く、太陽光を反射させ、容赦なく皮膚をやいた。
そんな炎天下の街中を疾走する、二つの影。追われるほうは全体的に黒い、けれどよくある夏用の服装。追いかけるほうは、この気温の中、フル装備のバーテン服を纏っている。
「いざあああやあああまてお前走るな頼むから止まれいますぐとまれええええええ」
「いやだったら先に君がとまってよ君が追いかけてくるから俺もにげてるんだろおおおとまれえええ」
大きなエコバックを抱え、半そでに短いパンツを履いた折原臨也は、背後から熱気をまとい蒸気でも噴出しそうな勢いで追いかけてくる平和島静雄に向かって、切羽詰った声を上げた。薄いTシャツを一枚着ただけの臨也は体のラインがわかりやすく、その腹がなだらかに膨らんでいることがわかった。
走りっぱなしでぜえぜえと呼吸を繰り返す臨也の頬を汗が伝う。帽子が影を作っている顔は、白い。静雄はぴたりと走るのを止めた。すると臨也も、はあと大きく息を吐き止まる。周りには大きな人だかりが出来つつあった。
「もーシズちゃん、こんなあっつい日におっかけてこないでよ〜」
「わ、わるい、でもお前電話でねえから…」
「スーパー行ってたの。ほらこれ特価だよ?こんな大きいスイカ。おいしそーこれ冷やしとくからあとで食べようね…って」
「……。」
静雄の腕が、臨也の薄い布一枚で守られた体を抱いた。二人を取り囲むように出来ていたギャラリーの集団がざわめく。携帯電話のカメラを向ける者もいた。
「しーずーちゃーん」
「……」
「…電話出れなくてごめん」
「…いい。…ただ、心配で」
「うん、ありがとうね」
静雄の額にかかった前髪を、臨也は優しく掻きあげ、汗をぬぐった。静雄の手のひらが臨也の腹をさする。置かれた静雄の手に、そっと臨也も手を重ねた。
「もう俺だけの体じゃないもんね。…これからはシズちゃんにもっと頼っちゃうようになるけど…大丈夫?」
「ああ、俺が出来ることならなんでもする。出来ないことでも…なんとかする。」
静雄の瞳がまっすぐ臨也を捉えている。臨也は重ねた手を握り胸元までもっていくと、聖母のように微笑んだ。






Y
「結果は順調。母子ともに健康。うーんいいねえ、とってもよい状態だよ。」
「そう。」
カルテを眺めながら笑う新羅に、臨也も爽やかな笑みを浮かべる。大分大きくなった腹部は、もうコートを着ていても形がわかるくらいだ。
「今日も静雄君、きてるのかい?」
「うん。どうしてもついてくるって聞かなくて。最近はどこいくのも一緒。ってか、わかってんのにわざわざ聞くなよ。」
「ははは。いやあ、愛されてるねえ臨也。」
心底楽しそうに笑しう新羅に、臨也はなんともいえない表情をしている。愛。なんだろう。嬉しいけど、これはなんていうか…重い。
「なんでもするって言い切っちゃってさ、ほんとになんでもするんだよ、あいつ。」
「おや、随分といい旦那さんじゃないか。育児にもきっと協力的になるだろうし。」
「新羅、お前は…」
「それに臨也。君だって、なんでもするって言ってる静雄君にやらせてるのって、洗濯とか皿洗いとかだけだろう?」
くるくると、メスを指で遊びながら、新羅は先ほどとはうってかわって、いやらしい笑みを浮かべた。ち、と臨也が舌打ちをする。
「セルティが、静雄が臨也のためになんでもするって言った!なーんて報告してくれたときには、私は君が、静雄君にどんな極悪非道な仕事をやらせるかとおもったさ!」
「それは…俺だって、そんなくらいは、わかってんだよ。それに、この子が無事に生まれたら、ほんとにいろいろやらせてやろうと思ってるし…」
「ふうーん?」
にやり、と新羅は、臨也の顔を覗き込みながら笑った。心底悔しそうに、臨也は上半身を捻る。
「…もういい、俺帰るから。次、二週間後だっけ?」
「ははは。そーだよ。でもなんか少しでも変なとこあったらちゃんと連絡してよ。」
「わかってる。じゃーね新羅。おせわさま。おーいシズちゃん、帰るよー。え?あーうん、すごい順調。俺もこの子も健康だってさ。うん、そうそう。あ、帰りにスーパーよって。牛乳きれてる。は?プリン?あー…いーよ。1個ね。」


ばたばたと騒がしい足音が去ったあと、新羅は臨也専用の、以前までは怪我のことばかり書かれていたカルテを眺める。最近は、怪我の診療など一度もない。
「なにが、産まれたらいろいろやらせるー、さ。あんな母親の顔して。」
ああセルティ、早く君に会いたいよ!
闇医者の叫びが、池袋の街を揺らしたのだった。






「6つの不可能なことを信じたら願いが叶うおまじない」





WEB企画、「コウノトリのご機嫌しだい」さまに提出しました。いざやたんじょうびおめでとうあいしてるわたしはげんこうがんばります


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -