接吻、

夏目 漱石(参考)
1867年1月5日
父夏目小兵衛直克、母千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたので、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。

1868年11月
新宿の名主塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。

1869年
養父昌之助・浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。

1870年
種痘がもとで疱瘡を病み、顔にあばたが残る。

明治16年(1883年) - 9月 - 神田駿河台の成立学舎に入学。

明治17年(1884年) - 小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。
自炊生活をしながら成立学舎に通学。

9月 - 大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、正木直彦、橋本左五郎などがいた。


明治18年(1885年) - 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。

明治19年(1886年)7月 - 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿の教師となり、塾の寄宿舎に転居。

明治20年(1887年) - 3月に長兄大助、6月に次兄栄之助が共に肺病のため死去。急性トラホームを病み、自宅に帰る。

明治21年(1888年)
1月 - 塩原家より復籍し夏目姓に変える。

7月 - 第一高等中学校予科を卒業。

9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。

明治22年(1889年)
1月 - 正岡子規との親交が始まる。

5月 - 子規の「七草集」の批評を書き、初めて“漱石”の筆名を用いる。

明治23年(1890年)
7月 - 第一高等中学校本科を卒業。

9月 - 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。

明治24年(1891年)
7月 - 特待生となる。

12月 - 『方丈記』を英訳する。

5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。

明治26年(1893年)
7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。

10月 - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。高等師範の校長は講道館創設者として有名な嘉納治五郎という柔道の大家だった。

明治27年(1894年)2月 -結核の徴候があり、療養に努める。

明治28年(1895年)
4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで赴任。

明治29年(1896年)
4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。

7月 - 教授となる。

明治30年(1897年)6月 - 実父直克死去。

明治33年(1900年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。

明治35年(1902年)9月 - 正岡子規没。

明治36年(1903年)
4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。

明治37年(1904年)4月 - 明治大学講師を兼任。

明治38年(1905年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。

明治39年(1906年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。

明治40年(1907年)
4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

6月 - 長男純一誕生「虞美人草」を朝日新聞に連載( - 10月)

明治41年(1908年)
1月「坑夫」( - 4月)、6月「文鳥」、7月「夢十夜」( -7月「夢十夜」( - 8月)、9月「三四郎」( - 12月)を朝日新聞に連載。

明治42年(1909年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。

6月 - 胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。

8月 - 療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。

10月 - 長与病院に入院。

明治44年(1911年)
2月 - 文学博士号を辞退。