接吻、

芥川 龍之介(参考)

私による私のための参考資料。
欲しいとこだけ抜粋。

幼い頃、母が発狂し母の実家に預けられ伯母に養育されたが、11歳の時に母が亡くなり叔父の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。

1913年、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。
東大在学中の1914年2月に一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。

1915年10月、代表作の1つとなる「羅生門」を『帝国文学』に発表、級友鈴木三重吉の紹介で夏目漱石門下に入る。

1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは第3次とほぼ同じ)を発刊したが、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。

この年東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。

同年12月より海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執る。

1918年3月、教職を辞し阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。

ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社。

1921年大阪毎日海外視察員として中国を訪れ、この旅行後から次第に心身衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む。

1923年には湯河原町へ湯治に赴いている。

1925年頃から文化学院文学部講師に就任。

1926年、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養。

7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。