スイート・ビター・スイート | ナノ
しばらく静かに涙を流した後その涙を拭いて、一度両頬をぺしっと叩く。仁王くんがくれた言葉をしっかりと胸の奥に、まるで宝物のようにしまい込んだ。
そして視聴覚室を出て、足を教室へと向ける。精市くんが待ってくれている。早く、早く精市くんに会いたい。その気持ちに身を任せ急いで階段を駆け上がった。
case.76
「精市くん、」
教室の扉を開けると、窓の外を眺めていた精市くんが顔をこちらに向け、目が合う。階段を駆け上がったのと、少しばかりの緊張とで私の息は上がっていた。その息を整えるように深く呼吸をしつつ、私は精市くんに近付いた。
「ごめんね、遅くなって…」
「ううん、おかえり」
椅子に座ったままの精市くんが私を見上げ、そしてゆっくりと私の手を握る。どくん、どくん、と未だ速い鼓動は次の瞬間、さらにスピードを上げた。
「せ、いちくっ…」
「ごめん、ちょっとこのまま」
精市くんに手を引かれ、そのまま腰に腕を回される。思わず下を向けば私のお腹辺りに密着している精市くんの後頭部が見えた。私の身体は精市くんの足の間に収まって身動きが取れないし、まるでしがみつかれているかのような体勢に一気に恥ずかしくなる。
けれど少しだけ掠れた声、そしてきゅっと私の制服を掴むような掌に、思わず胸が締め付けられる。
「精市くん、」
「……ん?」
「仁王くんと、ちゃんと話してきたよ」
「…うん」
「仁王くんの気持ちは嬉しいけど、私は精市くんのことが、だ、…大好きだから、って…ちゃんと言った」
「………、そう」
ゆっくりと言葉を探して告げる私に、精市くんも同じようにゆっくりと言葉を返す。最後に相槌を打った後、きゅっと私を抱き締める腕に力を込めそのまま黙ってしまった。なんだか拗ねて黙ってしまった子供みたいだなあ、なんて不謹慎だけれど笑みが零れる。柔らかい髪が愛おしくて、私は思わずそっと触れた。頭を撫でるようにすると、下から不服そうな声が聞こえてくる。
「子供じゃないんだけど…」
「ごめん、なんか…可愛くて」
「嬉しくない」
「ごめ……っ、わ」
急に距離ができ、立ち上がったと思ったら今度はすぐに両腕でしっかりと抱き締められた。息遣いまで聞こえてしまうような距離、そして伝わる体温。その瞬間私は悟る。あぁ、やっぱり私は精市くんじゃないとだめだ。
「精市くん、…好き」
「…何?急に」
「なんとなく…でも、私は精市くんじゃないとだめ、精市くんが一番大好き」
「ふ、今日は饒舌だね」
恥ずかしさはあるけれど、それ以上に精市くんが大好きだということを伝えたい気持ちの方が大きいのだ。私の言葉に精市くんは嬉しそうに笑い、そして小さく息を吐く。
「本当は、ちょっと不安だったんだ」
「…え…?」
「美桜を待ってるとは言ったけど、もし戻ってこなかったらどうしよう、って。俺よりも仁王を選んだらどうしようって、さ……ありえないけどね。でも、ちょっとだけ不安だった」
「精、市くん…」
「俺らしくないよね、こんなの」
だからいきなりあんな風にしがみつくような抱擁をしたのだろうか。精市くんが不安に感じる必要など全くないのに。それでも、そう思ってくれることを嬉しいと感じてしまうのはいけないだろうか。
「やっぱり、好き」
「あはは、まだ言うの?」
「だって…」
「俺も好きだよ。美桜が大好き」
低くて甘い、脳髄に響くような声。その声で紡がれた言葉だけで、私はこれほどまでにないくらい幸せな気持ちになれるのだ。
精市くんが誰よりも好き。大好き。こんなにも素敵で大切な気持ちを知ることができて、私は本当に幸せ者だ。伝わってくる体温と少しだけ速い鼓動。最大級の愛しさを感じながら、私は目を閉じて精市くんへの想いを馳せた。