スイート・ビター・スイート | ナノ
入道雲が夏空に広がる下、大会当日。今日は真夏日になると朝観たニュースの天気予報で言っていた。
大会の会場は観客でほとんど埋まっていた。
精市くんには内緒で来たけれど、やっぱり近くでその姿を見ていたい。そう思いなるべく前の方に座って、試合が始まるのを待った。
数週間ぶりに精市くんの姿を見ることができる。それだけでもう心臓はうるさいくらいに高鳴っていた。
case.48
――精市くん…
最後の試合、精市くんはラケットを握って立ち上がった。遠目でも分かる、真剣な瞳。思わず呼吸するのを忘れてしまいそうなほど、私は精市くんに釘付けだった。
絶対に勝ってほしい。そう思って心の中で精市くんの名前を呼んだ。この気持ちが届くように、何度も何度も。
――え…!?
私の気持ちが届いたのだろうか。そんなことあり得ないと思ったけれど、まるで本当にそうであったかのようにこちらをちらりと見た精市くんと確かに目が合った。
精市くんは私の方を見ている。私も精市くんを見つめる。
そして一瞬のことだったけれど、精市くんが僅かに微笑んだような気がした。その表情からも、たった今コートに立った凛とした姿からも、もう目を反らすことはできなかった。視線を奪われる。
――精市くん…精市くん…っ!
精市くんがあんな眼をしているのを見るのは初めてだ。テニスだけに集中して、テニスだけを楽しんで、心からテニスが好きだという眼。それが痛いほど伝わってきて、なぜだか涙が出そうだった。
こうして見ると、精市くんは改めてすごい人なのだということを思い知る。立海の頂点に立つ人なのだということを、痛感させられる。
そんな人が私の恋人であるということが信じられなくなるくらい、精市くんの雰囲気に圧倒される。この観客席からコートまでの距離が私と精市くんの距離を表しているような気がしてならなかった。
それから全ての試合が終わってからも私は立ち上がることが出来なくて、周りの人がどんどん帰っていく中しばらく座ったままテニスコートを見つめていた。コートの緑色が夕焼けのオレンジ色に染まっていく。その色を見ていたら何だかとても切なくなって、同時にとても精市くんに会いたくなった。遠い存在ではなく、いつも私の隣にいてくれる、そんな存在であるということを早く実感したかった。
――お疲れさまって、メールだけしておこうかな。
さすがに今日は会うことは出来ないだろうから、せめてメールだけでもと思って携帯を取り出す。そして一通だけメールを送ってから、立ち上がった。
会場を出てバス停に向かう中、脳内では今日の精市くんの姿ばかりが反芻される。それと同時に想像じゃなく、本物の精市くんに早く会いたいという気持ちがどんどん膨れ上がる。
「美桜!」
あれ、おかしいな。
後ろから聞こえた声は、確かに精市くんのものだった。声を聞くのは久しぶりだけれど、間違えるはずかない。私は高鳴る鼓動を落ち着かせ、後ろを振り返った。
「美桜!はぁっ、よかった、間に合って…!」
私の前に立った精市くんは走ってきたのだろうか、少しだけ息が上がっていた。未だジャージを着たままの姿で、しかも携帯をその手に握りしめて。
私は驚きのあまり返事をすることを忘れていた。そんな私に、精市くんは優しく笑い掛ける。
「メール見たよ…、来てくれてありがとう、美桜」
その言葉に返事をする前に、私は精市くんの温もりに包まれていた。外であるからだろうか、いつものように身体を密着させるわけではなく、片手で私の肩を包むように引き寄せられている。それでも久しぶりに感じた精市くんの体温に、じわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
「精市くん、あの…っ、」
「ん…?」
「お疲れさま、っ」
「ん、ありがとう」
これ以上言葉を発すると涙が出そうだった。先程感じた遠い距離は、今はもうない。こんなにも近い距離で体温を感じて、私は呆れるほど精市くんが好きなのだと実感する。
愛しさがどんどん募って、自分の気持ちが自分では手に負えなくなっていた。けれどこの気持ちをどうすればいいのか、答えは見えているような気がした。