「う〜〜ん!森のいいにおい!」

 ぐんと背伸びをした。この森は程よく湿り気のある、とても居心地のいい深緑のにおいがする。なんて気持ちがいいんだろう。
 あたしは思わず飛び乗った木の上から森を見渡した。ここだと森のにおいに加え風のにおいが仄かに混じり合う。爽やかで、どこか寂しくなるにおい。

「ゲームの中だとは思えない……」

 ふと感嘆のため息を漏らすと、手をついた枝が大きく揺れた。
 体制を立て直そうとするも時すでに遅く、パキと綺麗な音を立てて折れた枝はあたしの体重を支えることはできず、無残にも落下の一途を辿ったのだ。

「ひゃああああ!」

 情けない声が喉から漏れ出ていくが手を伸ばそうにも細かな枝が腕に突き刺さるばかりで痛いだけだ。ちくしょう、もっと低い木に登るんだった。
 落ちる────あたしはぎゅっと両の目を閉じた。
 ドスン。鈍い音を立ててようやく地面に辿り着くも、思ったより痛くないのはどうしてだろう。恐る恐る瞼を開けようとしたその時、フワと芳しいにおいが鼻先を漂ったのだ。
 あたしは目を開けるより先にその香りを楽しむことにした。
 なんと表現したらいいのだろう。清涼感があるのだけどどこか甘ったるくて、さらに喉の奥を擽られるようなもどかしさがありながらなんだか懐かしいような。好きだ。今までたくさんの素敵なにおいを味わってきたけれど、こんなに好きなにおい、生まれて初めてだ。

「はあ……っ」

 思わずそのにおいの元である布を掴み、顔を埋めてしまった。
 ……布?ここは森の中なのに、一体どうして布が。そういえば、相当な高さから落ちたのに大した痛みがない。
 途端に嫌な予感がして冷や汗が垂れてきた。いけない、また夢中になって周りが見えていなかった。あたしの悪い癖だ。
 においが名残惜しいながらもようやく目を開ける決心をし、恐る恐るその瞼をこじ開けた。

「……おい、いつまで乗っているんだ?」

 嫌な予感が的中した。
 あたしはどうやら他人の上に落っこちてしまったらしい。地べたに座り込む形になっている目の前の男は特徴的な三角形の眼鏡をクイと上げた。

「あっ……ごめんなさい!退きます!」

 そうは言いつつも、どうしてもこのにおいからは離れられなくて。
 わたしが手にしていた布はどうやら彼の首に巻かれたストールらしい。吸い込まれるように再びそのストールへ顔を埋めると、うん、やっぱりいいにおいだ。一生嗅いでいたい。
 彼自身からも同じにおいがするが、心惹かれるのは圧倒的にこのストールのようだ。人間のにおいは首や手首から発するとどこかで聞いたことがあるし、そのせいだろうか。

「………………おい。何をしてる?」
「はっ!す、すみません。あんまりいいにおいだから見惚れて──や、嗅ぎ惚れてしまって」
「……?におうか?ニッケス」
「いや、無臭だと思うが」

 彼は隣に立つニッケスと呼ばれる男の顔に袖を近づけにおいを嗅がせたが、どうやら彼にはこの奇跡がわからないらしい。

「無臭じゃないですよ!あたし、こんなに夢中になれるにおいに出会ったの生まれて初めてです、感動してます!」
「よくわからないが、一先ず退いてくれないか?」
「あっそうですよね、すみません」

 あたしは息を止め、誘惑から必死に目を背けながら彼の上から退いた。こうでもしないとまた離れられなくなってしまう。

「受け止めてくださったんですよね?ありがとうございました」
「受け止めたというか、君が突然落ちてきたんだ」

 そう言って立ち上がり砂埃を手で払い落とすと、「じゃあな」と一言呟いて立ち去ろうと踵を返したものだから、あたしは咄嗟に呼び止めた。

「あ、あの!お名前……なんていうんですか?」
「……バインダーで確認すればいいだろう」
「あ、そっか!」

 今度こそ立ち去ろうとする彼とニッケスという男を視界の端で追いかけながら、わたわたとバインダーを取り出しコンタクトを設置した。これで名前が確認できる。
 現段階で最後に出会ったプレイヤーだから最後に書かれているはずだ。リストの最後尾に視線を移すと、そこにはニッケスと書かれている。それのひとつ前……これか。

「ゲンスルー……さん」

 ふと気がつきぱっと顔を上げると、もうそこに2人の男の姿はない。既にどこかへ立ち去ってしまったらしい。
 しかしあのにおいをそう簡単に手放してしまうのは非常に惜しい。なんとしてでももう一度会わなくては。
 あたしはスペルカードのページに手を伸ばした。



「マグネティックフォース、ゲンスルー!」

 あたしの視線の先には少しだけ驚いた表情をしたゲンスルーさんと…………ソッケツさんだっけ。もう一人の男もそこにいた。

「わざわざついてきたのか……?フン、どのカードが目的だ?」
「ゲンスルーさん、あたしを側に置いてもらえませんか?!」
「はあ?」
「あたし、ゲンスルーさんのにおいが好きなんです。一目惚れしちゃったんです!お願いします、側にいさせてください!」
「はあ……?」

 怪訝な顔をするゲンスルーさんと、その一方でケンケツさん(だっけ?)が突然声を上げて笑い出したのだ。

「ハハハハハ!いいじゃないか、ゲンスルー。チームに入れてやるか」
「いや………………………………オレは別に構わないが」
「ほ、ほんとですか?!やったー!」

 どんなチームかは全く知り得ないが、とにかくゲンスルーさんと、このにおいと一緒に過ごせるんだ!
 あたしは嬉しさのあまりぴょんぴょんと飛び跳ね、その勢いのまま彼のストールに飛びついた。

「あ〜〜なんていいにおい……!しあわせ………………」

 すっかり悦に入ってしまったあたしに、何か話している様子のハンケツさん?の言葉なんてもちろん届くはずがなく、あたしはそのままストールに顔を埋め、そのにおいを堪能したのだった。





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2018年10月執筆

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