入水願い
なんて綺麗な人なんだろうーーーーー
初めて会った瞬間に幼な心に息を呑んだ。
「この人が今日からなまえのお兄さんよ」
「なまえちゃん、よろしくね」
母親の再婚が決まり、新しい家族を紹介されたのは私が小学生の半ばの頃で、おあいて兄さんが高校生の時。
制服に身を包み、にっこりと笑顔を見せたあの人は私の目には王子様に映った。
「ごめんなさい…」
待ち合わせたカフェで彼氏に別れを告げる。
何かを言う元恋人の声を背中に、そのまま店を後にした。
やっぱり駄目だった。
そこまで気持ちはなかったはずなのにそれでも多少は落ち込んだ私は俯き、芯まで冷える冬の夜の風に当てられて、独りで暮らすマンションへと向かった。
「お帰り、なまえ」
部屋へ戻れば、おあいて兄さんがソファで寛いでいた。
立ち上がり、戸口で驚いている私を迎えるように歩み寄る。
ゆるりとした素材のVネックのグレーのニットにデニムという出で立ちで、コーヒーを飲みながら読書をしていたらしい。
テーブルには、カップと栞の挟まった本が置かれていた。
「兄さん…」
「驚いた?急になまえの顔が見たくなったんだ」
あの変わらない笑顔でそう告げて、私を抱き寄せる。
そのまま、唇を重ねた。
優しく啄まれて舌を絡ませられ、強請る様に背中に腕を回す。
それだけでさっきまでの鬱々とした気持ちは吹き飛んでいった。
この、歳の離れたおあいて兄さんは私にとっての初恋の人。
美しい容姿を持ち、学生の頃から何をしても1番だった優秀な人でそれは社会人になった今でも変わらなくて。
そんな極上の男性を間近で見てきた私には他の男の人を見るのは難しかった。
”家族”になってからもう20年近くも経った私達。
高校の頃に母親亡くなってしまったけれど、今でも変わらずお父さんは私を本当の娘として可愛がってくれている。
そして、おあいて兄さんは…
「んっ…」
軋むベッドの上で、私の身体の隅々にまでキスを落とし繋がった身体。
兄さんが訪ねてくるとこうして必ず肌を重ねる。
肌を喰らう美しい男の肩越しに天井を眺めながら、ぼんやりと過去を思い出す。
何度目かの母親の命日に、酷く酔っぱらった兄に抱かれたのがこの関係の始まりだった。
泣きながら母親の名を呼び、私を抱くその狂おしいまでの姿に初めて気付いた。
この人が好きだったのは、私の母親だったのだと。
全てを知ったあの日を境に、見える世界は永遠に変わった。
それまでは兄がいつも連れている華やかな女の人達に嫉妬し、呪っていた。
私は”妹”であり結ばれる事はないと、その反面、平凡であるからこそ”妹”である事でしかこの人と関わる事は出来ないと考えていた。
けれども、真実に気付いてからは、あの人がどんなに綺麗な女の人を連れていても何も想わなくなった。
だって、本当は違うから。
義理の兄は、私に母親を重ねていた。
そんな兄さんの心をつなぎ止められるのは私だけ。
そう気付いた時に、薄暗い優越感で一杯になった。
同時に自分自身が二度と出られない海に足を踏み入れてしまい、今更もう戻れない深さにまで身体を浸してしまった事に後になって気付く。
けれども、それは些細な事。
だって、初めて会ったあの日から私の心はずっとおあいて兄さんのものだったのだから。
この血の繋がらない兄との歪んだ秘密の関係をカモフラージュする為に他の男の人を連れているだけ。
だから、何人かの仮初めの恋人と別れた事もそんな記憶は記憶の奥底に飲み込まれ、二度と引き上げることもない。
「……」
いつも、情事の最中に甘い声で呼ばれる私のものではない名前。
正面から私を貫きながら、じっと顔を見下ろす兄さんのその瞳は私の顔を通り越したその先を見つめていた。
鏡で自分の姿を見る度、日に日に記憶にある母親の面影が濃くなっていく自覚はある。
「おあいて…」
応じる様に記憶にある母親の口調を真似て名前を呼んで頭を撫でれば、兄さんが腰の中で質量を増す。
同時に虚しさで自分の心の何処かが硬くなり、ぽろぽろと砂の様に分解されて無くなっていく感覚。
…本当は私の名前を呼んで欲しい
そう願ってはいるけれど、叶わない事も分かっている。
それでも、構わない。
この人が指で撫でているのは間違いなく私。
舌を這わせるのも私の肌。
声を聴くのも、感じるもの全ては紛れもなく私のもの。
それに、兄さんに快楽を与えているのも私だから。
代用品であっても、そんな事は関係ない。
この人が望んだ女性ははもう死んでしまっていないのだから。
愛するこの人は一番欲しかったものを手に入れる事は絶対に出来ない。
私だけを見ていてくれればそれでいい。
姿形は彼が欲した女に瓜二つなのだから。
束の間でも、愛するこの人に夢を見せられるのなら本望だ。
どうせ、これが望んだ世界。
二人で深い水底に沈んでしまえばいい。
2016.12.25
天野屋 遥か
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