▼ 02
君がずっと隣にいてくれなければ意味がない。
あの身体が弱くてだれもいなかった孤独という地獄から救ってくれた君を俺が離す訳なんてないだろう?
物心ついた頃から入退院を繰り返し、家にずっといる事しか出来なかった俺。
記憶の大半を占めているのは家の天井と病院の天井で。
献身的だった母親さえが看病で疲れ果て、家庭内全体が俺の病気のせいで暗く重い雰囲気に沈められていたあの状況。
幼いながらに自分のせいだと察知していたけれど、病魔に蝕まれた無力で小さな存在に何も出来る訳なんてなくて。
生き地獄とは当にあの事だったと思う。
そんな中、たまに調子のいい日だけは近所の子供が集まる公園に行く事が出来た。
大きな木で日陰になっているベンチに座って母親の手を握ったまま皆が遊んでいる様子を眺めるだけだったけれど、それでも嬉しかったんだ。
「英二くん!おいでよ!」
「…いいの?おれ、はしったりしちゃだめなのに」
「はしらなくてもすわってできるのあそびもあるよ」
そう言って、手を差し伸べてくれた杏奈。
皆の中心になって遊んでいた君は俺に気づくと、必ず声をかけてくれて俺でも混ざれる様な遊びをしてくれたよな。ブランコに乗せて押してくれたり、砂場で遊んだり。
そして、家が向かいだったから、寝ている俺のところにもよく遊びにきてくれた。一緒に絵本を読んだり、幼稚園であった事の話をしてくれたんだ。
けれども、そんな俺達の世界に小学校に上がった頃から異変が起きる。
俺もあの頃には体調は快方に向かい、相変わらず運動は禁止されていたが毎日通学は出来る様になっていた。杏奈と一緒に小学校で遊べる様になる事をどれだけ楽しみにしていたか。
それなのに…
「おれ、あたらしい絵本を買ってもらったんだけど、かえったらおれんちでいっしょによまない?」
「英二、ごめんね。きょうはほかの子たちとじてんしゃでとなりまちのこうえんにいくんだ!おおきなすべりだいができたんだって!」
そういって、申し訳なさそうに他の奴等と帰ってしまう杏奈。新しい世界に飛び込み夢中になっていたんだ。
段々と俺と君の絆が解れ始めていく。
「英二、ばいばーい!!」
「あ…」
学校の帰り、他の奴らとグループを作って俺の横を走り抜けていく。呼び止める暇もなくて、楽しそうに揺れるランドセルが遠ざかっていくのをただ茫然と見送るばかり。置いて行かれた俺はとぼとぼと一人で帰り道を寂しく歩いていくしかなかった。
そんな日が続いて、いつも寄り添ってくれていたはずの君が離れてしまう恐怖が段々と俺を支配していった。
「杏奈、英二君きてるわよ」
ある日の放課後、杏奈の家にやってきた俺は決意を胸に二階のアイツの部屋の前に立つ。コンコンと扉をノックをすれば、ランドセルを置いて身軽になった杏奈が現れた。
「英二、どうしたの?わたし、これからあそびにいくんだけど…」
「いかないでよ…」
「え〜?だって、英二はびょうきだからうんどうできないじゃん。じてんしゃであそびにいくこともできないでしょ?」
俺の訴えに煩わしそうにむすっとした杏奈はそのまま俺を避けて出かけようとする。
「やだ!」
その態度にさらに危機感は最高潮に達して、無我夢中で腕にしがみついた。
「おねがいだからいかないで!おれとあそんでよ!」
嫌だと言って手を抜こうとする彼女を離さない様に精一杯の力を込めて、泣きながら必死で叫ぶ。
「しつこいなぁ!はなしてよ!」
苛立ちが爆発した杏奈が大きく振りかぶりそんな俺の手を振り払った瞬間、視界が大きく揺れて身体が浮いたんだ。
そのまま、ガンガンガンと大きな音を轟かせて身体を打ち付けながら階段を転げ落ちてゆく。
朦朧としていく意識の中で見えた、涙を浮かべて立ち尽くして俺を見つめていた君の姿を忘れる事なんてできない。
なんて、綺麗で嬉しい光景だったんだろう。
血が広がっていくぞわりと背筋がぞくぞくする感覚と恍惚。
今思い返せば、血に浸されていく感覚に自分自身の心も何かに染まっていったんだと思う。
誕生日を祝ってもらったりするときとは違う、もっと心の奥の暗い場所から沸き上がってくる誰にも言えない歪な嬉しさを覚えたんだ。
あの後、救急車で運ばれた俺は、出血量の割には軽い傷で済んだし脳にも異常はなかった。杏奈は泣きながら謝り、次の日も包帯でぐるぐるに巻かれた俺を見て顔を青くしていた。
関係が変わったのはそれからだった。
階段から落ちたのは幸運だった。
杏奈に怪我をさせられて本当によかったんだ。君が負い目を感じて、俺の事を最優先にするようになったから。
「杏奈、いっしょにかえろ」
「うん…」
手を繋いで帰っていく。
2人で歩いていくと、他の奴等が追い越していく。その様子を見つめる杏奈の瞳に羨ましさが滲んでいたけれど、許す訳がない。
2人で帰っているところを冷やかす奴らなんていなかった。
だって、俺達の間に何が起きたのかは皆の知るところになっていたからだ。
ケガをした俺は杏奈をそれで縛り付けた。結果として、側にいる事を望んだことと引き換えに杏奈は俺に笑いかけてくれる事はなくなっていった。俺を救った明るさは雲がかかった様に鈍く翳ってしまっていたんだ。
学年が上がり違うクラスになって、他のクラスメイトと廊下を歩いているアイツを見ると楽しそうに笑っていた。まるで、解放された様に。ショックを隠せなかったし、杏奈にとっての自分は俺にとっての君と同じでなかったことを悟らされた。
肉体に傷をつけたのは君。
精神(こころ)に傷をつけたのは俺。
肉体のキズなんてものはきちんと細胞が治癒するが、心のキズなんてものはそうはいかない。悪化させて爛れさせて二度と治らない様にして、俺だけがそれを癒す薬の様な存在になりたかったんだと気付いた。
俺は成長するに従い身体も強くなり、中学に入る頃には普通の生活を送れる様になっていた。そして、中学は複数の小学校から沢山の人が集まる学校だったから、知らない奴等の中で心機一転した。
あの頃の君みたいに明るく元気に振る舞えば、自然と人が集まる様になった。人気者であれば杏奈も俺と一緒にいる事に価値を見出してくれると思っていた。俺といる事が楽しくて誇らしい事であると。
憧れだった、誰よりも。
俺にとっては、全てだったんだ。
2017.2.20
天野屋 遥か
天野屋 遥か
prev / next