眩暈(前編)1
「ねぇ、姉さん。僕、就職決まったんだ。何かご褒美ちょうだいよ」
お風呂から上がり、肌の手入れも終えて寝る支度を進めていた所、弟のおあいてが部屋を訪ねてきた。
ベッドに座った彼もまた湯浴みを済ませており、アイボリーのパジャマを着ていた。そして、ベッドに背を凭れさせていた私に、いつものふわふわとした笑顔でお強請りを始める。
「そうだよね!しかもあんな有名企業の内定貰えるなんて本当にすごいもんね。じゃあ、明日、一緒にご飯でも食べに行く?おごるよ?」
「えー!?そんなの待てないよ!僕は今すぐ欲しいんだ」
布団の上に倒れ込んで不満を体現するように左右にゴロゴロと転がる弟は、来年には社会人になるのに未だに子供っぽい振る舞いをする。
有名大学に進学して、厳しい就職競争を勝ち抜いて知名度も人気もトップ10に入る大企業に入る人間とは思えない。
「今すぐってどういう事?」
「あのね、僕は別に何かを買って欲しい訳じゃないんだ」
そのわがままの真意をはかりかねて顔を伺う。ところが、逆に、真顔でじっと私を見つめるその瞳の奥が狙いを定めたようにギラリと強く光った気がして、ぞくりと鳥肌が立ってしまった。
「…どういうこと?」
「ご褒美はそうだなぁ…今日、僕もこの部屋でなまえ姉さんと一緒に寝たいな。布団はこれから持ってくるからさぁ…」
感じてしまった恐れを悟られないように問いかければ、その回答は理解に苦しむものだった。
「それはちょっと…さすがにもう小さな子供じゃないんだから」
丁重にお断りしようとすると、コロコロとベッドの上を転がってこちらまでやって来て、その可愛らしい顔を間近に寄せてきた。色素の薄い明るいふわふわのパーマのかかった髪の毛に、猫みたいに大きな瞳を嬉しそうに輝かせている。
「えー?いいじゃん。この間、裸まで見ちゃった仲なのに」
そして、人懐っこい笑顔で首を傾げながら、またとんでもない爆弾を投下してきた。
「ちょっと!あれは事故でしょ!?」
思い出したくもないアクシデントを掘り返されて恥ずかしさに大声を上げてしまう。
そう、この間、お風呂から出たらちょうど脱衣所におあいてがいたのだ。
鉢合わせてしまい、大変気まずい思いをした。
「もー、なんでそんなにダメダメ言うの?僕は姉さんと昔みたいに仲良くしたいだけなのに…」
「小さい頃とは違うんだから、いい加減お姉ちゃん離れしないとダメだよ」
おあいてがシスコン気味なのは自覚があった。
けれども、実は彼とは血は繋がっていない。
母親の再婚でできた年の離れた弟だ。
昔からよく私の後ろをついてきたし、一人っ子だった私は兄弟ができた事が嬉しかったので、仲良くしていた。
小さい頃は夜も一緒に寝ていたし、お風呂も一緒に入っていた。
けれども、時が経ち、思春期や進学を経て大人になっていく過程で私が家を出て独り暮らしを始めた事もあり、段々と物理的に距離は離れていった。
でも、今でも何だかんだで連絡は取りあっているし、今日みたいに実家に帰れば必ず顔を合わせる。
前回の帰省の時には、自分の部屋で昼寝をしていたら、いつの間にか部屋の中にいて、目を覚ましたら抱き締められていたりと実に心臓に悪い事もあった。
あの時は、びっくりした父親が慌てて引き剥がして連れて行ってくれたからよかったけど。
昔と同じつもりで甘えてくるんだろうけれど、私もアラサーと呼ばれる年齢になり、おあいてももう大学を卒業する年齢なのだからそんな事は戯れでも許されない。
まして、血の繋がりもないんだから、間違いが起きてはならない。
無邪気だし、私の事を好いてくれているのは分かるけれど、セクハラに何度も遭いそうになってきた…というか、既に遭った。
悪い子とは思わないけど、いつも笑顔でこんな事ばかりを言うからその本当の気持ちが見えない。
それだけでなく、時折垣間見える獲物を狙う様なその鋭い眼光に言いしれない不安を感じていた。
もちろん、私は姉であることには変わりないのだから、そんな事を誰かに言えるはずもなく、胸に秘めていたけれど。
「なまえ、入るぞ」
そんな風におあいてに手こずっている中、今度は兄であるおあいて2兄さんが部屋にやって来る。
藍色のパジャマを着て大きなお酒のボトルとグラスを持ってやってきた。落ち着いた深い青のそれは心を静めてくれる。
今日は兄さんも海外出張を終えて、帰省をしていた。
久しぶりに会った事から、お土産に買ってきたお酒を飲みながら近況の報告をしようとしていたのだった。
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