▼ farewell
「佐藤様、おはようございます」
約束された朝10時に片桐さんが引越業者を引き連れて私の住むアパートにやってきた。
「必要なもの以外の家具などはすべて処分するようにと社長と副社長から仰せつかっております」
「…そうですか。よろしくお願いします」
「お荷物はこちらだけでしょうか?」
「ええ」
衣類や最低限必要なものはキャリーケースとダンボールに数箱入れて待っていた。
「必要なものはこのキャリーと段ボールだけです。それ以外はすべて集積場へ持っていくように」
「「わかりました!!」」
業者さんの威勢のよい返事が響く。
そして、そのまま次々と家具が運び出されていってしまう。
初めて一人暮らしをする時に買ったベッドやドレッサー、棚達が別れを告げる間もなくあっという間になくなっていった。
昨日まで当たり前に生活していた空間が、今では嘘みたいに何も無くなりがらんと空いている。
もはや、私を迎え入れてくれる安らぎの場所では無くなってしまったのだ。
「佐藤様、それでは社長達の御自宅へと案内させていただきます」
部屋を後にして駐車場に二人で向かう。すでに、家具が積まれたトラックは集積場へと出発してしまった後だった。
このアパートに不釣り合いな高級な外車の後方ドアを片桐さんが開けてくれる。荷物もトランクへと積み込まれていた。
「すいません、部屋の解約などはどうなるのでしょうか?」
「部屋を引き払う手続きは私が責任持ってさせていただきますのでご安心ください」
突然の事でまだ何も出来ていなかったため、不安を感じて尋ねれば、諭す様に回答をくれる彼等の秘書。
そのまま促されて車に乗り込む。
静かに走る車内で無言のまま、窓から流れていく景色を眺めていた。
親しんだ通勤の道や通りにあった大好きだったあの街角のカフェも何もかも、もう二度と足を踏み入れる事はないだろう。
密やかに心の中で別れを告げた。
「心配ですか?」
その後、車は一等地に建つマンションに辿り着き、二人の部屋へと向かうエレベーターの中で突然、片桐さんにそんな風に声をかけられる。
「いえ…」
「社長も副社長もこの日を楽しみにしておられました。大丈夫です。お二人共、佐藤様の事を本当に考えていらっしゃいますよ」
柔らかい笑顔を見せる彼等の部下には何も言えなかった。
その後、エレベーターが到着したのは最上階だった。外へ出れば、磨きあげられた廊下に飾れた調度品の大きな壺や絵画が目に入る。そして、このフロアにドアは一つしかない。
まるで、高級ホテルのスイートルームの様。
この状況に、改めて二人の成功ぶりを実感させられる。
「それでは、どうぞ」
カードキーを通した片桐さんが玄関を開けて中へと通してくれた。私の荷物の入った段ボールを持ってくれて、案内をしてくれる。
導かれるままにキャリーケースを引きながら、その室内をキョロキョロと見回す。
長い廊下の正面にある広くて大きなリビングに、廊下のものと同等かそれ以上に高価な家具たちが上品に整然と収まっていた。
「こちらが佐藤様のお部屋です」
最初に案内されたのは、私の部屋だった。
荷物を下ろして、これからの自分の生活空間を確認する。
このフロアでは小さめの部屋との事だけれど、私が生活していた部屋に比べれば十分に大きい。
そして、そこには待ち構えていた様にすでにテーブルとソファ、クローゼットやドレッサーという必要以上の家具が用意されている。
けれども、何かが足りなかった。
「…ここにはベッドはないんですか?」
「みたいですね。そのあたりについては私も詳しくは伺っていないもので、社長と副社長に直接確認をしていただけませんか?」
感じた違和感を口にすれば、彼もまた不思議そうに首を傾げていた。
「こちらのインターホンはこの画面で相手を確認できますし、オートロックの解除はこのボタンです」
そして、インターホンの使い方などの簡単な説明を受ける。また、キッチンやバスルームと倉庫と言った様々な部屋についても簡単に案内をしてもらった。
「片桐さん、こちらの部屋は何でしょうか?」
一通りの説明が終わったところで、質問があるかと尋ねられたので思いきって聞いてみた。
環や徹のプライベートルームまで案内してもらって中にも入ったのに、唯一立ち入っていない部屋があったので、そこが気になっていたからだ。
「それがですね、申し訳ないのですが私も分からないのです。ただ、お二方から"開けるな"と強く言われておりまして…」
本当に申し訳なさそうに眉を下げる秘書に何も言えない。きっと、彼もあの二人の我が儘さや強引さにいつも辟易してるに違いないと妙な同情さえ湧いてくる。
「そうなんですね。何だかすみません」
「お二方に直接尋ねてみて下さい。佐藤様にならお答えされると思いますので…」
そう言いながらちらりと腕時計に目を落とす片桐さん。
「それでですね、社長と副社長は今日は早く帰るとの事ですのでよろしくお願いします。では、私はこれで失礼します。」
そのまま、一礼をして彼は会社へと帰ってしまった。
2015.10.5
天野屋 遥か
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