▼ Contract
「わかった?条件きちんと確認して?そして、ここにサインしてくれればいいから」
無機質なオフィス。
此処は徹と俺で設立したIT企業のフロア。
普段はほとんど使わない社長室にかつての大学の同級生である佐藤しのぶを呼び出していた。
白を基調とした空間の中心で俺達三人は対峙している。
徹と俺はソファに小さく座るしのぶへ正面から静かに視線を送る。
ペンを握るその手は微かに震えていた。
彼女は恐る恐る自分の名前を契約書へと刻んでいく。
「よし、これで契約成立だ」
徹が立ち上がって契約書を手に取り、眺めて嬉しそうにそう呟いた。
俺も立ち上がりそれを覗きこむ。
其処には紛れもなくしのぶのサインがあった。
美しい字で愛しい女の名前が記されている。
「…本当に助けてくれるのよね?」
ソファに沈んだままの君が縋る様に見上げる。
弱々しく開く口から、不安そうに言葉を投げかけた。
「俺達がしのぶに嘘ついた事ある?」
優しく微笑みかけると、少し怯えた顔をする。
昔はそんな風じゃなかったのにな。
かつては強い眼差しで、言葉の端々に自信が滲んでいたのに…
今の儚い君も素敵だけど、学生時代の気が強くて爽快な君が俺と徹は大好きだったんだ。
「俺達はちゃんと金は出す。お前が条件さえきちんと守ればな」
漆黒のスーツに赤いネクタイ。
それに映える白い肌よりも、さらに白い歯を見せる徹はさながら悪魔の様。
「徹、駄目だよ。そんなに怯えさせちゃ」
クスクスと笑いながら、彼女の隣に座ってその手を握る。少し冷たいそれに俺の体温が染み渡り、温かくなっていくのが心地よい。
「しのぶ、大丈夫だから」
俯いている彼女の頬に指で触れて、顔を上へと向ける。
「環…」
「俺達はただ君の力になりたいだけなんだ。でも、そのためには見返り位はあってもいいでしょ?」
そう、何かを得るためには代償が必要。
それは当たり前のルール。
俺と徹が望んだのはしのぶの"存在そのもの"だった。
契約はシンプルなもの。
俺と徹に飼われる事
ただ、それだけ。
表向きには俺達の住むマンションで、家政婦として住み込みで働いてもらうという事にしてある。さすがに、こんな事を公にできる訳がないからさ。
「で、引っ越しの日程なんだけど…」
さらりと彼女の一束の髪を手に流して、唇で触れる。
花の香りが芳しく艶やかでしなやかなそれは、より一層欲を掻き立てた。
「もうすでに業者は手配済みだ。明日、お前のマンションに荷物を取りにくるからな」
煙草に火を付けて紫煙を燻らす徹が、窓際で外を眺めながら素っ気なく明日の予定を告げる。
「え…?そんな…急すぎるよ…」
「うるせぇ!」
突然の宣告に戸惑い無理だと訴えるしのぶに振り返って怒鳴る徹。
「もう、お前は俺達のもんなんだよ!俺達の言う事は絶対だ!逃げようなんて考えてんじゃねぇぞ」
挙句の果てに鋭い目付きでしのぶを睨み付けた。
どうして、この美しい男はこんな言い方しか出来ないんだろう。
仮にも会社のトップを務めていると言うのに。
そして、本当は彼女を愛してるのに。
「そんな事出来るわけないじゃない…私が逃げたら…」
俯いて苦しそうに声を絞り出すしのぶは、膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めていた。
「大丈夫、君が俺達のもとに来てくれたら、すぐにお父様に連絡して援助をするから。安心して?ね?」
そんな君を安心させる為に肩に腕を回して諭す様に耳許で囁く。
そのまま、顔を寄せて唇を重ねようとした瞬間…
ドアをノックする音がして、慌てて顔を離す。
徹は俺の無様な姿を見て大笑いしていた。
「社長、副社長、お時間です」
聞こえてきたのは秘書の片桐の声。
「わかった。すぐに行く」
気を取り直して、仕事モードで返事をした。
「だるい会議なんか出たくねぇなぁ…時間の無駄だろ…」
灰皿に煙草を押し付けて、大きく溜め息をつく徹。
「じゃあしのぶ、今日はこれでさよならだけど、明日からよろしくね。怯える必要なんてないよ。俺達はお前を誰よりも大切にするからね」
かつて、お前が好きだと言ったこの笑顔を向ける。けれども、微笑み返してくれる事はなく、相変わらず表情は固く強張ったままだった。
「おい、片桐。お前、コイツを送ってやってくれ。くれぐれも他の男の目に触れないようにしろよ」
そして、徹が無茶な指示を飛ばす。
しかし、独占欲丸出しの癖に、なんで本人にはあんなにぶっきらぼうな口調になるのか。
つくづく不器用な男だと思う。
「じゃあ、環…徹…明日からよろしくお願いします」
「佐藤様、こちらへ」
そう小さく挨拶してしのぶは片桐に連れられて部屋を後にした。
二人の足音が遠ざかっていくのを確認する。
「やっとだな。徹」
「あぁ。ずっと楽しみにしてたぜこの日を」
全てがうまく行った事に満足した俺達は互いを見つめながら笑い合う。
ずっと欲しくて堪らなかったものを手に入れる事が出来た喜びを抑える事は出来ない。
「今日は祝杯だな」
「そうだね。明日からは存分にしのぶを愛する事が出来るなんて夢の様だよ」
もうすぐ自分達の家に枯れることのない花が届けられるかと思うと、それだけで活力が湧いてくる。
そして、そのまま清々しい気持ちで会議へと向かった。
2015.9.26
天野屋 遥か
天野屋 遥か
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